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ノージックとデビッド・フリードマンは、アナーキーに対する考え方がどのように違うのでしょうか?

A 回答 (2件)

ともにリバタリアンのノージックとフリードマンですが、国家を(必要悪として)認めるノージックに対して、国家そのものを認めないアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)を主張するフリードマンというちがいがあります。



ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、〈アナーキー(無政府状態)ではどうしていけないか〉と問題を提起し、「自然状態」の社会を想定します。

財産や生命をめぐって争いが起きるとする。
負けた方はおそらく自らの権利が侵害されたとして、報復を考える。こうして争いは際限なく続いていくことになります。

それを避けるためには、個人が集まって協会を作ればよい。メンバーの誰かが侵害を受ければ、全員で対処するのです。

それがうまくいけば、次第に協会に参加する人は増え、協会も多くの問題を抱えるようになってくる。メンバー同士が争うということも起こるでしょう。そうなると、トラブルの解決と、合意された解決策の執行に専念する人が必要になってきます。

そうやってあちこちに協会ができていき、さらに小さい協会は大きい協会に吸収されるだろう。そうして最終的には、その地域に居住するすべての人の権利問題について裁定し、執行に最終的に責任を負う「最小国家」へと進んでいくだろう、というのが、ノージックの主張です。

それに対して、国家の存在を一切認めないのがフリードマンです。フリードマンは基本的人権のうちで、私有財産権をもっとも重要視します。そうして、人びとの経済活動にさまざまな規制をかける「国家」を否定するのです。

さらに、政府にとって不可欠の機能とされてきた警察、裁判所、国防(公共財)すら、民間によって執り行うことが可能である、と主張し、それを証明しようとしています。

「彼に言わせれば、民間ではうまくいかない「公共財」とは何かを決めているのは実際には政府である。政治家や役人たちが、何が「公共財」であるか否かを決め、それを強制的に取り立てた税金で賄い、膨大な費用をかけてそれを管理し続けている。有権者としての市民たちは、それが自分にどれだけの利益をもたらすのか分からない「法律」という商品を無理やり“買わされる”形になっている。市民たちが自らの自由で、自分にとって利益のある「法律」を変えるようにした方が合理的であるというのである。」(仲正昌樹『集中講義! アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険』 日本放送出版協会 p.130)
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この回答へのお礼

なるほど!大変興味深いです。小さい協会が集まって大きな協会になる、これはまさに国家じゃないか!?と思ったのですが、ノージックはそれは最小国家である、と説明したんですね?その協会の集合体が、現在の国家に比べて小さくできる、ということをノージックはどうやって説明したんでしょうか?

この話は普通の人が見たら、「そんなの国家と同じじゃねえか!」と反論しそうですが、実際そういう反論は無かったのでしょうか?そういうとき、ノージックはどう反論したのでしょう?

ノージックが結局国家と似たような公共組織を考えていた…というだけでも興味深かったです。

ちょっと議論を先取りするようですが、ノージックはそれでも、後年になって、「あの時の議論は若気の至りだった…」というふうな発言をした、ということをどこかで見た記憶がありますが、ノージックにとっても無理な理論だと思えたんでしょうか?どういうところに無理があったんでしょう?

フリードマンの議論も大変面白いと思いますが、これは何か批判にさらされなかったんでしょうか?

ちょっと矢継ぎ早質問なのでどれか1つでも可能であれば教えていただけたら…と思ったのですが^_^;すみません。

しかしこの手の議論…国家なんて無くしちゃえ!作り替えちゃえ!みたいな議論はスゴく若者受けしそうな気がするんですが…なんでもっと流行らないんですかね?とにかく個人的にはホントに興味深いと思いました。

お礼日時:2014/03/13 06:38

遅くなってごめんなさい。


お礼欄、拝見しました。

> 「そんなの国家と同じじゃねえか!」と反論しそうですが、実際そういう反論は無かったのでしょうか?そういうとき、ノージックはどう反論したのでしょう?

ノージックの思考実験によると、人間の集団は
アナーキー(無政府状態)
 ↓
相互保護協会
 ↓
支配的な保護協会
 ↓
最小国家
という筋道をたどる、と、市場的プロセスをもとに説明していきます。

この第三段階の「支配的な保護協会」と第四段階「最小国家」のちがいは、ノージックによると「保護協会」が
1.協会に所属するメンバーが、協会の保護を拒否して自力救済を認める
2.加盟していない人は保護しないので、地域に居住する者全員を保護するとは限らない
という二点において、「最小国家」とは異なる、と。

2はともかく、1がどういうことかというと、「復讐」のような例を考えるとわかりやすいかと思います。ここに、協会の保護を拒否して、復讐を願う人がいたとする。このような人を、「保護協会」はどうすることもできないのです。そのような問題が不可避的に出てくる「保護協会」よりも、「最小国家」の方が望ましい、とノージックはいいます。

つまりノージックは、最小国家が果たすべき機能は、国防、警察を含む司法、道路や港湾などの公共財の提供に限られる、そうしてそのような「最小国家」によってこそ、個々人がみずからの責任と判断力によって、自由に生きる人格として尊重される、と考えるのです。

> フリードマンの議論も大変面白いと思いますが、これは何か批判にさらされなかったんでしょうか?

わたしは先に挙げた『集中講義…』以上にフリードマンについては知らないので、よくわかりません。ただ、ノージックの主張は、アナーキズムに対する批判なので、当然フリードマンの批判にもなっていくと思います。あるいはまた、コミュニタリアンの陣営からも当然なされていると思います。サンデルが批判していたのはノージックの自己所有権についてでしたけれども。

> しかしこの手の議論…国家なんて無くしちゃえ!作り替えちゃえ!みたいな議論はスゴく若者受けしそうな気がするんですが…なんでもっと流行らないんですかね?

フリードマンの思想は極端だし、あまり現実的ではないと思うのです。国防や福祉の民営化を可能にするためには、いまよりいっそう進んだ市場経済が存在している必要があるでしょう。そんな市場経済がわたしにはちょっと想像しにくいので。

ただ、いま声高に主張されている福祉国家批判、自己決定、自己責任といったものは、主張している人が気がついているかどうかはともかく、リバタリアニズムに立ったものなのではないでしょうか。ひところずいぶん話題に上ったサンデルの「正義論」に対する批判などをざっと見ていても、そのような印象を受けました。少なくとも、コミュニタリアンよりも、リバタリアン(的な考え方をしている人)の方が多いような気はします。
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この回答へのお礼

支配的な保護協会=最小国家というわけではないんですね?それとノージックはアナーキズムに限りなく近いことを言いたい!と思ったわけではなく、アナーキズムを批判してたんですか…いや、アナーキズムに魅力を感じたからこそ、その非現実さが目に付いたんですかね?しかし端から見ればノージックも十分過激なことを言ってるはずだと思いますが…^_^;だからこそ注目されたんでしょうし。

またまた大変興味深かったです。大変勉強になりました、ありがとうございました!

お礼日時:2014/03/17 07:31

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