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「ビートたけしのTVタックル」(2014年4月7日 放送)で、ミッツ・マングローブが訳のわからないことを言っていました。皆さんはその言っていることが理解できますか。その言っていることは、極めて言葉足らずだと思うのですが、どうでしょうか。

「死刑ありですか、なしですかと言う時に、裁く側でみんな答えちゃうから、そうすると、人の命を奪うことになるとか、殺すことになるということだけど、これは、刑を処すっていうことで考えなけりゃいけないとなると、自分が悪いことをした時に、死刑になるかならないかの、裁かれる立場だと私考えて、この死刑の制度を巡って議論した方がいい気がする」

動画 ⇒ 

(補足 私の解釈)
その言っていることは、「死刑について論じるときには、裁く側に立つのでなく、裁かれる立場に立つべき」ということだと思うのですが、そう思う根拠を説明していません。なぜ裁かれる立場に立たなければいけないのかということがその言っていることからは何ら伝わりません。

A 回答 (12件中1~10件)

大事な事はあくまで遺族側の立場に立って裁く事であって、無関係な曖昧な人間がいかに遺族感情を受け留めるか?裁く側の人間も時として往々に遺族感情と掛け離れて立って考えた判決等遺族感情を忘れた判決などが多過ぎ!まして裁かれる側の立場等論外だ! 余計かも知れんが国家転覆を謀る等多数の死者数と重傷者を出しオウム真理教事件!や他の事件等、首謀者の死刑確定や他の事件関係者なども裁判が長すぎ~!さっさとと死刑にして事件を早く終わらせろ!無駄めし食わせ国民の血税の無駄遣いはこんな所にも随所にある。

増税、増税、物価高で喘ぐ大多数の国民の多さ、この国にそんな余裕ない!人を殺せば即死刑!死刑確定すれば、中国並に即決行!刑務所の増築等、無駄!来れらの人間の為に真面目な国民の一人が生きられる。犯罪も激減する!
あんたが遺族なら解るだろう?無関係な人間が最もらしい事、言うな!である
死刑反対論者に遠慮すること等全く無し!我が国は独自の我を通せ!
戦争では何人も殺せば英雄?
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ミッツ・マングローブという人の発言は、極めて断片的に編集されたものでしかないため言葉足らずに聞こえるかもしれませんが、言っている内容としてはそれほどおかしいとは思いません。



死刑制度を論じる際に、裁く側という視点だけが提示されているときに、裁かれる側という別の視点を提示していますが、新たな視点を提示したという意味で意味があることです。

根拠があるかどうかは知りませんが、根拠自体があったとしても尺の関係上説明できたとは思いません。


勿論、彼女(彼?)の発言に賛成か反対かということとはまた別の問題です。
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ミッツ・マングローブという人を初めて知ったくらいですから、別に擁護するつもりはないですけど、討論というものについて痛烈に反論したいと思います。



>~議論した方がいい気がする
べつに「べきだ」とは言ってないんじゃないですか。
私はそう思うんだけど、どう?と問題提起しているだけです。
確かに、なぜそういう気がするのかまで述べた方が親切ですが、それがないということは、「この人はなぜだかよくわからないがそう思ったのだな」と理解すればいいのです。

誰それの意見というものは、どんなに論理を述べようと、最終的にはその人が「そう思う」という点に行きつきますよね。
そして、どんなに論理立てても納得できない意見はあります。
だったら、論理立っているかどうかは、その意見の重要度とは関係ありません。

重要なのは、ミッツ・マングローブがどういう根拠を持ってそう言ったのかどうかではなく、そういう考えの下議論をした方が良いかどうか、です。
それを自ら考えることをせずに、提示されなければ重要な意見ではないと切り捨てるのは、良い討論者とは言えないんじゃないでしょうか。

この番組は、必ず勝敗を決しなければならないディベート大会ではありません。
意見を述べ合い、ぶつけ合うディスカッションの場でしょう?
述べられた考えを、自分の中に取り込んで、自分で検討し、消化してこそ意味のあるものです。
その結果、自分の考えが変わるのか、なお強固になるのか、まったく別の考えに至るのか。
そういう変化があることが意義です。
討論する(聞く)前と後で、何も変わらないことだけが無意味なんです。

討論の場において避けるべきは、テーマを無関係の意見です。
そういう意味では、「多くの人は裁く側に立って討論しているように思う。裁かれる側に立って議論した方がいいと感じる」というのは、別にそう悪い意見ではないと思いますけど。
確かに、「命は尊い、それを犯罪者だからと、同じ人間が奪っても良いのか」という死刑反対論を代表するような考えは、裁く側の意見ですからね。


無関係ではない意見を、わかりにくいからといって切り捨てようとすることこそ、討論会の場においてもっとも唾棄すべきことなのではないですか?

>私の解釈)その言っていることは、「死刑について論じるときには、裁く側に立つのでなく、裁かれる立場に立つべき」ということだと思うのですが
と言葉を意訳することまではしておきながら、ではその意見は妥当か、論じる価値があるかどうかまでは解釈を進めないのですか?
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たぶん



「ボクチンが他人様を十人殺したぐらいで、政府がボクチンを死刑にするなんて不当だと思う。」

と思うか

「私が他人様を十人も殺めてしまったなら、政府が私を死刑にしてもしかたがない」

と思うか。

貴方はどちら?と聞きたかったのかな。
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”「死刑について論じるときには、裁く側に立つのでなく、


 裁かれる立場に立つべき」ということだと思うのですが、
 そう思う根拠を説明していません”
      ↑
これは刑法の機能から説明されている事柄です。

なんで刑法という法律があるのか、何を目的に
制定されたのか、どんな機能があるのか
ということから考えます。

刑法というのは、これこれが犯罪ですよ、
その犯罪を侵せば、こういう刑罰を受けますよ、
ということを規定して、威嚇するわけです。
威嚇して犯罪を阻止しようとしているのです。

しかし、刑法の機能はこれだけではありません。
刑法というのは、犯罪行為をする人の為にも
規定されているのです。

つまり、例えば窃盗を犯しても、刑法で定められて
いる刑罰以上の刑罰に課すことはしませんよ、と
いうことです。

だからいかに悪辣であっても、それが窃盗である限り
死刑にはできません。
だから安心して下さい、ということです。

これを講学上「刑法の自由保障機能」といいます。
つまり、犯罪者の自由を「裏側」から守る、という
ものです。

こういう限度で、刑法は犯罪者の立場からも規定
している訳です。

従って、刑法、刑罰を論じるときは、裁かれる犯罪者
の立場に立って論ずる、ということは基本であり
重要なことなのです。
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これってドストエフスキーの「罪と罰」のことではないでしょうか。


主人公の青年はなぜ大家の女性を殺したのか。という疑問と
殺したことへの自責の念。そして自身の持っている理性と神に
対しての裏切りなんだ。という反省。

それらが際立ってこそ「罪と罰」なんですが、それが無い人間に
対してどう対処するか、しないのか。

それが通り一遍の死刑廃止論とは違うものになると言ってると
思いますよ。
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単純に「死刑になりたくなきゃ悪い事するな」って話でないの?



死刑になるかならないかの判決にこだわる前に、自分が人を殺しておいて、自分に対する殺人も何もあったもんじゃないし・・・
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>>◇なぜ裁かれる立場に立たなければいけないのかということが


   その言っていることからは何ら伝わりません。

それは、多分、「裁く側」と「裁かれる側」、どちらが多いか、ということを基に考えているからではないでしょうか?
世の中の殆んどの人は、裁判官ではなく、それ以外の人です。
当然、殆んど全部の人は、何か、係争関係に関わる場合、「裁かれる側」に属します。
それで、可能性の大きな場合のことを考えて、そういうことを言ったのでしょう。

この回答への補足

ミッツさんの発言は、「死刑について論じるときには、裁く側に立つのでなく、裁かれる立場に立つべき」というふうに解釈できます。しかし、なぜ裁かれる側に立って論じなければいけないのかということについては何ら説明していません。これで「なるほど」と頷く人がいるのでしょうか。私はその点に疑問を抱きます。

ミッツさんの言っていることに対して、私としては「あっ、そう」と聞き捨てるしかありません。それは、「だから、どうなのか」ということが何ら伝わらないからです。ミッツさんの発言は、極めて言葉足らずだと、私は思います。

「話す」にしても「書く」にしても、相手に伝わらないことには意味がありません。残念です。

補足日時:2014/05/13 15:25
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法律上の言語としても、かなり奇異な発言です。



死刑囚とは、犯罪加害者として司法で裁かれた結果、刑が確定した人間であって、死刑と言う刑罰で裁かれるワケではありません。

従い、正しく言えば、死刑と言う刑罰に「処される立場」です。

その観点からは言えば、刑務官でも無い一般人は、「刑を処す立場」などでは、余り死刑を考えていないと思います。
どちらかと言えば、死刑囚の立場の方が、想像や類推しやすいのではないでしょうか?

また「裁かれる」や「処される」にしても、受動的な文言を使用することで、本来は加害者であるにも関わらず、さも「被害者」である様な錯覚を付与することが目的の言動でしょうね・・。

即ち、死刑と言う刑罰によって「殺される」側の立場で考えましょう・・と言う、やや偽善的意見であって、また被害者的な表現は、やや詭弁的でもあります。

死刑ってのは、あくまで刑罰であって、「刑罰の妥当性」のみが重要かと思いますが、それを「加害者の側からの妥当性」ってのは、明らかに偏った意見であって、言い換えれば被害者側からの妥当性を無視すると言うことに他なりません。

両者の立場から議論を尽くし、最終的には「中立」に判断を下すしか無いと思いますが・・。
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死刑について云々はともかくとして、言いぶんに矛盾はしていないですし、言いたい意図もわかりますけど。



「yesと言う人とnoと言う人」がいたら、まず両方の観点から論じるのは、人権社会では基本的なことでは。
それは様々なことに言えると思います。「左の道から行きたい人と、右の道から行きたい人」、「男と女」、「日本人と外国人」・・・あらゆることです。
「罪を犯した人と犯された人」「裁く人と裁かれる人」・・といった世間的イメージに偏りのある2つを並べると、本質が見えなくなるのは当然。でも本来それはただの「イメージ」であり、流され過ぎてはならない。「偏り」があるものなのだから。
・・・っていう意味がわかれば、「なぜ裁かれる立場に(も)立たなければいけない」という意味も自然とわかるはずなのでは。

どちらかの立場に立ってしか考えないという前提があるのなら、その社会(組織・人)は恐ろしいことになると思います。
そういった次元の話は小学生でもわかることだと思いますよ。「相手の立場になって考えなさい」というのはおそらく誰だって子供時代教えられた経験はあるでしょう。


では、muimusakuさんにお聞きします。
「そう思う根拠を説明していません」「言っていることからは何ら伝わりません」・・・と思う根拠を説明していません。どこがどう「伝わらない」のかが、言っていることから何ら伝わりません。
・・・おなたのおっしゃっていることは、自分にはこれとなんら変わりなく思えます。言ってることはただ「わからない」「賛成出来ない」だけで、決して理論的ではないですよ。

この回答への補足

>「そう思う根拠を説明していません」「言っていることからは何ら伝わりません」・・・と思う根拠を説明していません。

ミッツさんの発言は、「死刑について論じるときには、裁く側に立つのでなく、裁かれる立場に立つべき」というふうに解釈できます。しかし、なぜ裁かれる側に立って論じなければいけないのかということについては何ら説明していません。これで「なるほど」と頷く人がいるのでしょうか。私はその点に疑問を抱きます。

ミッツさんの言っていることに対して、私としては「あっ、そう」と聞き捨てるしかありません。それは、「だから、どうなのか」ということが何ら伝わらないからです。番組の制作者は果たしてその言っていることを理解してそのシーンを取り上げたのかと、私は疑問に思います。この番組は、多くの発言がカットされているそうです。

補足日時:2014/05/13 15:19
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