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昔、祖母から祖父がフィリピンのルソン島にて戦死したと聞かされていましたが、思い立って「兵籍簿」と「留守名簿」を調べましたら、第105師団工兵隊(勤10608部隊)にて昭和20年2月マニラで戦死と記録がありました。ただ、兵籍簿には

昭和18年12月に工兵第53連隊補充隊に応召(京都市内)
昭和19年3月に召集解除

のみの記録にて、祖母の話しでは昭和19年の5月頃に京都市内で再召集されたと言ってました。

ネットや書籍から当時マニラを防衛したのは主に海軍部隊だったみたいですが、
一部陸軍部隊もいたそうですのでそこに第105師団の工兵隊がいたのかなと思っています。

府庁や厚生労働省の担当の方との話の中で、記録があっただけましかと思いましたが、再召集されてからマニラで戦死するまで、昭和19年の京都市内の召集部隊や第105師団工兵隊関連の記録や資料をご存知の方がいらっしゃいましたらよろしくお願い致します。

A 回答 (2件)

 第105師団工兵隊の前身は、独立混成第33旅団工兵隊(本部・3個中隊)で同隊は、善通寺及び京都出身の兵によって構成されていました。

それが師団に改編される際、10個中隊へ増強されたため内地からの補充要員が派遣されたと考えられます。

 つぎに、マニラ地区の防衛は、海軍(マニラ海軍防衛隊)と、陸軍(マニラ防衛隊・小林兵団)が主となっていましたが、陸軍のマニラ防衛隊は、マニラ防衛司令部、第102師団独立歩兵第355大隊の2個中隊、第105師団独立歩兵第359大隊の2個中隊、第105師団工兵隊第7中隊(1個小隊欠)中隊長:新田明中尉そのほか臨時編成部隊が含まれていました。その後米軍上陸ごろに第7中隊は陸軍の野口支隊の一員として海軍のマニラ防衛司令官指揮の下にマニラ市街戦に従事しました。

 おそらく同中隊に所属されていたのではないでしょうか?



 資料:アジア歴史センター「第百五師団工兵隊」で検索。C14020656100.件名「別紙」
 
 なお、防衛庁の戦史叢書『捷号陸軍作戦2』では「據兵団工兵隊」つまり第102師団工兵隊と間違って書かれています。







 

 
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この回答へのお礼

詳細なご回答有難うございました。
新しい事が解って嬉しくなりました。
頂きました情報を基に調べてみようと思っております。
祖父を含め多くの方々が未だ知られずに亡くなった事を改めて感じております。

お礼日時:2014/05/23 11:13

丁度時期が合いますね。


105師団は、独立混成33旅団を昭和19年6月に拡大して編成されます。
多分、その時に充員されたのでしょう。
105師団は、マニラを防衛し続けます。
その後、20年1月に上陸した米軍に南北に分断され、それぞれ山岳地帯にこもって終戦を迎えます。
多分、米軍上陸戦闘で、倒れられたのでしょう。

詳しくは、東京目黒区の防衛省の機関、『防衛研究所』に聞かれると良いでしょう。
ここには、公刊戦史が全て揃っていて、質問にも、親切に応えてくれます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。
機会みて「防衛研究所」に聞いてみます。
当時のバシー海峡を超えてルソン島に着いただけでも奇跡ですね。

お礼日時:2014/05/22 11:36

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