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僕は歴史が苦手で、ど素人の意見で恐縮なんですけど、太平洋戦争敗北の大元の原因をたどっていくと、南進政策の失敗に尽きると思います。

確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

それなのに、なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?こんなことをしたから米英が態度を硬化させて、一気に日本を孤立化させて戦況を不利にしてしまったのだと思います。

なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

A 回答 (8件)

>確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?



●回答・・・そうです。ただし、それは軍を使わないというわけではありません。
日本軍による進駐も入っています。これはアンリ大使も了解しています。
1940年8月30日に結ばれた「松岡・アンリ協定」は大まかななガイドラインなので、日本軍の規模や日本軍が利用できる飛行場などについては仏印のハノイで現地協定により決められる事になりました。
つまり実際に仏印を支配している仏現地司令官と日本との間で話し合われる事になりました。
以後の経過を簡単に要約すると・・・

9月4日に現地協定が結ばれ日本軍が北仏印の3カ所の飛行場を利用する事や、約5千人の兵力を北仏印に進駐する事が決められますが、日本軍がどのようなルートで北仏印に入るか、どこに駐屯するかなどの細かい点までは決めるに至らず、引き続き交渉する事になりました。

9月6日、北仏印に進駐予定の日本軍第五師団の一部部隊が、中国と仏印国境において地理不案内から越境してしまい、フランス軍と交戦する事件が起きます。
これで仏現地司令官との交渉が一時頓挫します。

9月13日に日本政府で四相会議が開かれ「仏印問題爾後の措置に関する件」が決定しました。
これはフランス側と外交交渉を進めるけれど、期限がきたら武力行使を行うというものです。
その期限は9月22日とされました。

9月14日には前日の「仏印問題爾後の措置に関する件」が天皇陛下に奏上され、また海軍と陸軍からも北仏印への進駐、また武力行使がありうるという事についても奏上されています。
また、この日、東條陸軍大臣は北仏印の進駐について大本営から現地に派遣される予定の富永少将に平和的に軍の進駐を進めるよう強調します。

現地では9月19日にから仏現地司令官との交渉が再開されます。
日本側で決めていた武力行使の期限ぎりぎりの9月22日に交渉が成立します。

しかし、大本営から派遣されていた富永少将は、交渉成立を無視し作戦行動を止めようとはしませんでした。
この時、派遣部隊の安藤利吉司令官は、部隊に作戦中止の命令を下しますが時既に遅く、フランス軍との交戦は始まっていました。そしてランソンは陥落へ。

また、海路の西村兵団については、大本営が交渉が成立したので26日以降に友好的に進駐をするよう命令を出しますが、この報を参謀が握り潰します。そして上陸作戦を強行します。
これに反発したのが陸軍部隊を護衛していた海軍で、この護衛部隊は陸軍への協力を停止して沖合に退避、事態を本国に知らせます。


>なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?
>なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

●回答・・・まさに現地にいた部隊の一部高級軍人の暴走です。
富永少将らは日本の仏印に対する交渉の有り様が手緩いと考えていたようで、武力を使えば相手はすぐ屈すると、その程度の認識だったようです。
満州事変のように成功すれば問題無いだろう的な考えだったのでしょう。

日本政府は交渉で平和的に進駐する予定であり、最悪の場合は武力行使も考えていました。しかし平和的進駐もありえた筈が、現地に派遣された軍人の暴走で戦闘が発生する事となりました。

なお、富永少将は日本に帰国するとすぐに職務停止となり、その後に左遷となりました。
安藤司令官も更迭されました。
その他にも何人か更迭、左遷されています。



>太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

●回答・・・その通りだと思います。
北仏印に続いて翌年に行われた南仏印進駐は特に致命的でした。
南仏印進駐については、松岡外相は米国と戦争になると反対し、米国にいた野村大使も反対し、天皇陛下も反対されましたが、日本政府は進駐を行い米国から石油禁輸措置を受けます。
禁輸を受けて、閣僚からは「まさか全面禁輸になるとは思わなかった」という声があがるのですから、当時の閣僚の考えはよほど甘かったのでしょう。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。それにしても南部仏印進駐に際して、外相や駐米大使が反対していたのみならず、天皇陛下も反対されていたにもかかわらず強行されてしまったとは大変驚きました。一体、当時の統帥権はどうなっていたのかと疑問と憤りを感じました。

お礼日時:2014/06/03 07:39

そもそも南進自体が戦線を広げて、よくないといっている歴史家がいたような気がします。



でも、石油は必要ですね。

日本は補給(ロジスティック)をきっちりしないといわれてます。

伸びきったものをたたくのは容易かと思います。

無理して攻めるのでは、やはり続かないのでしょう。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/02 23:01

 それ以前に、中国大陸侵攻自体が失敗で、中国から撤退出来なかったのが、敗北の元凶です。



 なぜ、南進したかと言うと、他の回答者さんもお答えしているように、中国戦線で戦い続けるためには、石油が必要だが、当時の日本に対する最大の石油輸出国であるアメリカが、石油禁輸を実施したため、中国からの撤退か南進のどちらかしか選択できなくなったことに因ります。

 南進以前に、
 ・1938年には国家総動員法
 ・1940年には食料の配給制が国内で開始

 既に、中国に対する大規模な渡洋侵攻作戦で国力が限界に達しています。


<<詳細>>
<日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の経緯>

 ― 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争:中国侵攻) ―

 戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)
 明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。

 ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。

 この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。
 ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスかと言う国家としての戦略的判断なしに、支那事変が起こり継続されたと考えています。

・満州事変
 「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。

 上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)
 ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。
 この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。

 日本は、当時一等国と呼ばれたイギリス・アメリカ・フランスに比べて支配地域が遥かに小さいため、イギリスなどのように植民地を未開発のまま薄く搾取する政策を取るのでは、これらの国に対抗できませんでした。
 そのため、支配民族のレベル向上による独立運動激化のリスクを知りつつも、占領地を徹底的に開発して国力向上を目指しました。

 国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。
 ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。


<満州事変の頃の国際的背景>
 第一次世界大戦後の世界平和の空気の中で、「中国に関する9カ国条約」1922年が結ばれ、(列強がヨーロッパの戦線に全力を傾けていた隙に日本が対華21カ条の要求をしたことが遠因)
 中国の門戸開放
 列強の中国に対する機会均等
 中国の国家としての主権尊重の原則
が確認されました。
 この条約に対する日本の違反に対して、『満州は中国ではない』という論理が、一応成立する余地があり、満州族の清朝皇帝溥儀を擁立しました。
 ところが、熱河作戦の地域は、山海関を越えてしまい満州の枠に収まらなくなってしまいました。


・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしいのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。


・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
(陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。)
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を後退させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択(=戦線の拡大)となったのです。

 つまり、この時点で日本の経済的継戦能力は失われていて、ジリ貧負けは決定していましたが、中国戦線が内陸で行われたために、海軍艦船は無傷で残っていて、『負け』を認めて撤退する決断が出来なかったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。せっかく石原莞爾が満州事変を首尾良く演出したのに、石原の遠大な構想を理解できない軍人たちが余計な中国侵攻をしたため、泥沼の戦争に突っ込んでいった事がよく分かりました。

お礼日時:2014/06/02 23:00

南部仏印は、南進政策の上では、重要な進行作戦でした。



これを、無理強いして進めた、南支那方面軍司令官の安藤利吉と、作戦部長の富永恭次のせいです。

政府はビックリです!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/02 22:39
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/02 22:38

 太平洋戦争の目的の1つは当時オランダ領であったインドネシアの油田の確保です。


 韓国併合から始まった中国大陸への侵略は当時の中国政府だった中華民国の蒋介石夫人:宋美齢らのアメリカでの対中支援の訴えは、日本が中国への侵略を中止しなかえればアメリカは日本への石油の輸出を停止するという脅しになり、実際に太平洋戦争開始直前には石油輸出が止まってしまいました。
 それを打開するために当時オランダ領だったインドネシアの油田を奪い取ってしまおうと言うのが、太平洋戦争です。
 太平洋戦争と言うのは、戦後アメリカの占領時に広められた言い方で、開戦当時に日本が使っていた言い方は「大東亜戦争」
 東アジアから欧米の影響力をなくして、アジア人(中心は日本人なんだけど)で、東アジアを新しい秩序を建設していこうと言うのが、「大東亜戦争」のお題目なんだけど、実際には欧米人を排除して日本人が代わり占領するための戦争。
 だから太平洋戦争開戦初期にベトナムからビルマ、タイ、マレーシア、シンガポールを経てインドネシアまで戦線を拡大するのは、日本としては必然だったのよ。
「松岡アンリ協定」は協定を結んだ時点でフランスはドイツに降伏して亡命政府になっていたので、当時の日本政府はハナから武力でベトナムに進駐するつもりだったんでしょうなぁ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/06/02 22:37

始めたら、止まらない。


勝っていて、どんどん占領地を増やしてる戦況では、後方から、その辺で止めろとは言えないでしょう。

日露戦争のときのように、短期間で戦果を上げて有利な条件で休戦がベストだし、開戦前にそう進言した人もいたようですが、いったん戦争になれば、そういう正論は吹き飛びます。

敗因は、一つだけではありません。あえて言えば、戦争を始めたことが、敗因でしょう。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/02 22:33

近代欧米化を形だけ真似て、ノリでやらかしただけではないかな?



戦略の根幹に補給と情報の両輪がある。現代も終戦時も同じだが、それが満たされないまま軍備拡張を謳う愚か者が多い。少なくとも後者が必須だ。

まあ、日本は他国のオリジナルを元に工業を発展させてきた国家だが、自らのオリジナル、行動原理を見出す力が乏しい。

成長していないということは、これが国民性じゃないのかな?
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/02 22:34

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