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 まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。そこから離れてしまいます。

 では いろんな意味でその人の成した作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?

 ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。

 言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人であると思っているのですが どうでしょう?

 クリスマス・ツリーの飾りは いっさい要らない。樅の木のみが そのひとの人間であると。



 形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお記憶の中に生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。

A 回答 (27件中21~27件)

こんにちは。


 私は人間存在の個性は階層構造をしていると考えます。
まず精神性の個性・・・(1)
次に能力的個性 ・・・(2)
そして外見的個性・・・(3)
 (1)がまず重視されるのは、社会的動物に過ぎない存在として安心して暮らすために、精神的な部分に属する価値観として他者に危害を加えない範疇の個性が重視されるからだという見方ができると思います。
 その上で(2)については(1)の上で悪用しないという前提で個性として認められる。
 (3)は異性間で。
 このトータルの三重構造ごと各人の存在を表す個性としていいというのが私の考え方の基本です。この『存在における個性』を表出した成果としての作品や仕事は、本質に付随するファイルみたいな感じのとらえ方ができると思います。それは個人の存在から派生したエッセンスとしてのたすきに過ぎない。あくまでもその人自身の存在にはなりえないでしょうね。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 人間存在の個性
 ☆ ええ。確かにこの問いは 裏返せば 《個性》の問題です。

 個性とは何か? 

 個性があるから その個性においてひとは存在が成り立っているのか?

 それとも 個性は あくまで無くてもよいカザリなのか?


 こういったところが関係していると思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このトータルの三重構造ごと各人の存在を表す個性としていいというのが私の考え方の基本です。

 この『存在における個性』を表出した成果としての作品や仕事は、本質に付随するファイルみたいな感じのとらえ方ができると思います。

 それは個人の存在から派生したエッセンスとしてのたすきに過ぎない。あくまでもその人自身の存在にはなりえないでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《成り得ない》が結論なのですね。

 《飾り》は 個性を発揮したそのものだと見られる反面で それによっては 人間が成り立つというものでもない。――こういうことですね。


 この見方については 質問者としても見解を同じくしています。



 

 それと ただし《意志行為の特徴的なあり方》 これは 一生の果てをも超えて 後世の人びとに影響をあたえることがあり得るのではないか? こういう問いをも問うています。


 質問への回答を受けていて その途中で問い方を変えてしまったのですが みなさんには よろしくお願いいたしたいと思います。
 

お礼日時:2014/06/26 21:51

ぶらじゅろんぬさん、ご返事ありがとう。


まだ質問の意味が分からないんだけど。


特に芸術作品を創ったり大金持ちになったり
法律を創ったり自分が法律になったりしなくても
自殺されるよりはいいです(飛び過ぎかもですが)。

もしかしたら人間の生自体が
創造的でいつも斬新な作品なのかもしれない。

あとは隣人の話をまぢめに聴いているか、
訊かれたことにまぢめに答えているか、
まぢめに人と向き合っているか。

_______________


肉体と精神を分けたり、さらに精神を本能やら自我やら超自我と
便宜的に分けて都合よく言い訳や弁解をするのは、
前世紀で終わりました。全部まとめてその人です。
足したり引いたり掛けたり割ったりしない。
                                    
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この回答へのお礼

 あっ。これは どうも。ありがとうございます ご回答を。


 ★ まだ質問の意味が分からないんだけど。
 ☆ じつは 直前のNo.5のやり取りにおいて ちょっと見方を変えました。

 《あとに遺す作品が わが生きることであり わが人間なり》という見方から 少しずらしました。
 意志行為こそが 人間そのものなり。と言えないか? です。

 意志行為の型――または 文体―― これが 後世にも生き延びるかも知れないという見方です。
 
 すなわち:

 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 意志行為またその型(文体) これが 人間そのものだという見方が成り立たないとも限らない。

 つまり 早い話が そのいさぎよさ。これが 後世の人間たちにとっては まなぶべきコトだと受け留めることがあるなら それとして 〔平家の・いさぎよい態度を採ったところの〕忠度はあたかもその人間が生きている。まだ生きている。


 生きた人間と同じように ほかの人たちに その存在の中軸としての意志行為をとおして影響をおよぼすことがある。

 そう考えるなら イエスなる男もそうであろうし ゴータマなる人は ひとを煙に巻くほど 後世に影響をおよぼしていて あたかも亡霊が生きているかのようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 すなわち:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 あとは隣人の話をまぢめに聴いているか、
 訊かれたことにまぢめに答えているか、
 まぢめに人と向き合っているか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような《どのように生きるか》という意志行為の形式が のちのちまで生き延びるかも知れません。
 《作品や業績》にしても そこにおける意志行為の特徴的なあり方 これのことを言うのがよいと思うようになりました。

 作品を読んで感動を与えるといったことよりも 生き方・行き方が ずばり人びとに影響を与える。微妙にずらして 捉えることとしました。


 ★ 足したり引いたり掛けたり割ったりしない。
 ☆ そうですね。その生きっぷりです。全体の。



 ▼ (kotobank > 死せる孔明生ける仲達を走らすとは) ~~~~
 http://kotobank.jp/word/%E6%AD%BB%E3%81%9B%E3%82 …

 死(し)せる孔明(こうめい)生ける仲達(ちゅうたつ)を走らす

 《「蜀志」諸葛亮伝・注から》 中国の三国時代、蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)が魏の司馬仲達と五丈原で対陣中に病死したため、軍をまとめて帰ろうとした蜀軍を仲達はただちに追撃したが、蜀軍は孔明の遺命に基づいて反撃の構えを示したため、仲達は孔明がまだ死んでおらず、何か策略があるのだろうと勘ぐり退却したという故事。
 生前の威光が死後も残っており、人々を畏怖させるたとえ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というときの《生前の威光が死後も残っており、人々を畏怖させる》こととは 微妙に違うかも知れません。これは 生きているかどうかで 相手の判断が違ってくるといった事例であるようですから。


 死んだあとも それでも 意志行為のあり方が 人びとに影響をおよぼすこと。これなら 人間そのものだと言えなくもない。

 ねこさんは これを採らないと言っていますが それほど明確な反駁でもないように見られます。・・・

お礼日時:2014/06/26 21:15

こんばんは。




☆いえ ヲなる補充用言(助動詞)でしょうか?
◇日本語の文法で言えば、
この「ヲ」は、接続助詞ですよね。
「確定条件の逆接」を表わしている。
ですから、
Moodであるんでしょうね。

そして、接続助詞の「ヲ」は、格助詞の「ヲ」から生まれたんでしょう。
対格を表わしていて、動詞が欠落しているんじゃないかと。

ひょっとしたら、間投助詞の「ヲ」かも派生したのかもしれませんけれど。
「ヲ~、すごい」
とか(笑い)。


☆☆ というときの意志行為またその型(文体) これが 人間そのものだという見方が成り立たないとも限らない。
◇そういう見方も可能だと思います。
否定はしませんが、わたしはそうした見方を取らない、ですかね。
わたしは、人間をもっと広く考えたいですね~。
飾りの部分も含めて、その人の生の表われと考えたいですね。
でないと、人間の今ある《生》の部分が蔑ろにされるんじゃないか、という気がしますので。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ というときの意志行為またその型(文体) これが 人間そのものだという見方が成り立たないとも限らない。
  ◇そういう見方も可能だと思います。
 否定はしませんが、わたしはそうした見方を取らない、ですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あたかも生きている人のように 意志行為の問題としてひとに影響をあたえる。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは、人間をもっと広く考えたいですね~。
 飾りの部分も含めて、その人の生の表われと考えたいですね。
 でないと、人間の今ある《生》の部分が蔑ろにされるんじゃないか、という気がしますので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ カザリというのは カザリがなくても 人間は成立するという意味で持ち出しています。
 ◇ その人の生の表われ
 ☆ がなくても 《にんげん》は成立するのだと。
 
 そしてふつうは 《樅の木 + カザリ》として人間は存在しています。そのことにマチガイないはずです。

 ◇ 人間の今ある《生》の部分が蔑ろにされるんじゃないか
 ☆ この部分というのが 後天的な生の軌跡とそれに対するカザリだとすれば この部分はなくても にんげんは成立するという命題です。その意味では 要らないと言っています。ふつうは あります。ついています。








 ○ ヲ格

  ・ 空ヲ行く
  ・ 道ヲ歩く
  ・ 舞いヲ舞う
  ・ 舞台ヲ降りる

 ?

お礼日時:2014/06/26 20:27

こんにちは。




確か、プラトンの『饗宴』に、
「人は死すべき有限な存在だから、不死性・永遠性を求めて生産(生殖)をする」
といったような内容が書いてあったはずです。
このことは《エロース》と深く関係している。

そして、
アリストテレスも、お師匠さんであるプラトンのこうした考えを継承し、De Animaに何かを書いている、という話を、本で読んだ記憶が・・・。


ところでところで、
日本の歌詠みは、勅撰和歌集に自身の歌が収録されることを目指して、己れと己れの歌を磨いていた。
勅撰和歌集は、歌詠みが生きているときに作られるとは限らない。
天皇が「新しい歌集を作ろう!! 相応しい歌を集めて、作れ!!」といわない限り、作られることがない。
これが何時になるかは、分からない。
その歌詠みの死後、100年くらい経った時になるかもしれない。
でも、その時のために、歌詠みは、せっせと歌を詠み、歌を残す。
勅撰和歌集に自身の歌が収められるというのは、それほど、凄いことなんですよ。
歌詠みの全生涯をかけても値するほどのものなのですよ。
権力や財産、今受けている地位や名誉は、その人が死んでしまったら、失われてしまう。
でも、勅撰和歌集に歌が採録されれば、その歌は、人がいる限り、残り続けるので。

一番、いい例は、平忠度なんでしょうね~。
平家の都落ちの際、藤原俊成のところにコッソリと赴き、
「なんか勅撰和歌集が近々作られるそうですね。平家の運命は既に決まったようで、わたしは、このまま死んじゃうんでしょう。海の藻屑になるかもしれない。まぁ、それは仕方がないとして、でも、わたしの歌がわたしとともに朽ち果ててしまうのは、嫌なんです、心残りなんです。ですから、これはと思うものがありましたら、勅撰和歌集に是非載っけてください!!」
とお願いする。
俊成は、「よっしゃ」と彼の書き綴った歌を受け取った♪
忠度は、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ憂き世に思ひ置くこと候はず。さらばいとま申して」
と言って、その場を去っていきます。

 さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

ですね~。

ですが、
こうした歌詠みとしての忠度は、彼の一つの姿にしか過ぎないんですよ。
彼には、武人として、政治家として、そして何より、日常人としての姿もある。
歌詠みとしての忠度は、彼の有する数多存在する一つのペルソナに過ぎない。

このことを忘れてはいけないのでしょうか。

そして、
形見というのは、その人を思い出す一つの切っ掛け、縁(よすが)に過ぎないと思うのですよ。
その縁を、その人と考えるのは、ちょっと筋が違うんじゃ~ないですかね。
死後なお生きつづけられるとすれば、私たちの心の中にではないですかね~。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 ▽ さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
 ☆ 月並みとも思いますが このヲ格が けっこう分かりづらい。

 いえ ヲなる補充用言(助動詞)でしょうか?

 したがって 法活用(法判断 = mood )を持った述語だろうか。

 《荒れにし》なる体言を ヲ格で承けている?




 忠度については その作品が人間そのものだというよりは やはり生前における意志行為 つまり意志行為の型が 後世にも生きて遺っている。かも知れません。

 少し見方を変えました。
 すなわち 勅撰和歌集に載るほどのうたを遺すことが その人間であるというよりは その時あの時 これこれの判断をもって意志行為をおこなったということ。これが わが人間そのものである。と言う人が現われないとも限らない。

 どういうことか?
 つまり 和歌集に自作が載る可能性を確かめてそのあと もう思い残すことなく
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 忠度は、
 「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ憂き世に思ひ置くこと候はず。さらばいとま申して」
 と言って、その場を去っていきます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というときの意志行為またその型(文体) これが 人間そのものだという見方が成り立たないとも限らない。

 つまり 早い話が そのいさぎよさ。これが 後世の人間たちにとっては まなぶべきコトだと受け留めることがあるなら それとして 忠度はあたかもその人間が生きている。まだ生きている。


 生きた人間と同じように ほかの人たちに その存在の中軸としての意志行為をとおして影響をおよぼすことがある。

 そう考えるなら イエスなる男もそうであろうし ゴータマなる人は ひとを煙に巻くほど 後世に影響をおよぼしていて あたかも亡霊が生きているかのようです。



 単純に こういう問題は どうですか?

お礼日時:2014/06/26 17:51

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



ひとは何者の奴隷もなりません。当たり前です。
いくら仕事が好きでも仕事の奴隷にはなれません。
誰でもそういう能力を持っているのとちがいますか。
オレの存在の主人公はオレでありオレの仕事や作品ではありません。

そういえば昔DTM(デスクトップミュージック)をやっていて、
機械打ち込みで曲を作っていたんですが、
相棒の手違いで全部データを消されちまったことがあって
そりゃもうショックでした、けどおいらが消えたのではありません。

>思い出が いくらなお記憶の中に生きているからと言って
:あ、はい。
おばあちゃんと話をしたりメシを食ったりできるのは
おばあちゃんが生きている間だけです。
まだ生まれていない人もすでに亡くなった人も存在とは言いません。


ただ目の前にいなくても想像できるというだけです。
今5時間目。娘は数学の授業中に睡眠をとったりしていないかしらん、
という具合に。うんと遠くの人も昔の人も想像できるというだけです。

これから学校行事に行ってきます。
おいらと息子で脚をつないで二人三脚をするのだそうです。
前回の授業参観をすっぽかしてしまったので(苦笑)
今日は15時に来るようにとしつこく言われました。ほぢゃ。
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この回答へのお礼

 にゅうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうだとしますと ぢゃあ 誰かが《わたしは 自分の仕事に生き作品の中に生きるのだ》というふうなことを言った場合には
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ひとは何者の奴隷もなりません。当たり前です。
 いくら仕事が好きでも仕事の奴隷にはなれません。
 誰でもそういう能力を持っているのとちがいますか。
 オレの存在の主人公はオレでありオレの仕事や作品ではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と答えてやればよい。でしょうか?


 どうもこの質問は 評判がよくないのですが 心配要りませんかねぇ。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  
  >思い出が いくらなお記憶の中に生きているからと言って
 :あ、はい。
 おばあちゃんと話をしたりメシを食ったりできるのは
 おばあちゃんが生きている間だけです。
 まだ生まれていない人もすでに亡くなった人も存在とは言いません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という前提に立ってしかも 《人生の軌跡としての仕事ぷりなどなど》にその人が生きているといったふうな表明を聞いたなら どうしますか?

 気持ちの上でのことですよ。と答えるのですか?

 理屈以上の・あるいは以外のことが からまっていませんか?

 放っておけばよいですか?



 あぁ。でもお答えは またの機会でしょうか。それでもかまいません。

お礼日時:2014/06/26 14:42

人の生きる目的が、お金や物質的豊かさではなく、


心の豊かさ(認識の深まり&その充足)である時、
唯一の評価基準は、自己の内の満足度(認識の
深さ×社会的貢献の意志×その達成度)である。
もちろん、それは二次的には環境に反映されるが、
それが社会的評価や地位につながるとは言えない。
一介の大工が、お客様の難し要求に応えて最高に
住みやすい家を建てたとしても、マスコミに取り上
げられる訳でもなく、大儲けする訳でもない、ただ
本人の満足感は世界最高度であるだろう。
(死後には何も残さないが)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 例によって 考え方としての情報を こちらからも ぶつけてみます。


 ★ 人の生きる目的が、お金や物質的豊かさではなく、/ 心の豊かさ(認識の深まり&その充足)である時、
 ☆ まづこの命題について 分析・検証してから 議論は始まると考えます。

 (あ) ひとにとって生きるときに《目的》があるのか?

 (い) 目的とするかどうかを別として ひとは生きるとき 一般によく生きることをよしとしている。このよく生きるには 身と心とからなる自然本性にとってのよさ・ゆたかさ・あるいは広くしあわせが想定されている。

 (う) 精神と身体とをことさら分ける必要や理由があるか?

 (え)  心にとって《よい》のは 身にとって《よいかわるいか どうでもよい》とはならないのではないか? 

 (お) 身やモノをめぐる生活においてゆたかなことは 一般に心もゆたかになることとつながっているのではないか?
 
 (か) もしモノのゆたかさが心のしあわせにつながらないのなら それは ゆたかでもなければ よくもない。という考えに落ち着くのではないか?

 (き) よさ・ゆたかさ・またしあわせについてのそれぞれ主観にとっての物差しが決まって来るなら おおよそ人びと一般にとっての物差しもが 或る程度の有意さにおいて 決まってくると考えられる。この一定の水準や判断基準が――むろん決定的ではなく流動的でさえあるが―― そのゆたかさなどについての過不足を決める目安となる。

 (く) 物差しが目安となるなら モノと心とのゆたかさについて だいたい人びとは互いにその過少や過剰についても分かるようになる。

 (け) このような人びとの思わくの状態や社会の情況にあっては 
 ★ お金や物質的豊かさ
 ☆ と
 ★ 心の豊かさ(認識の深まり&その充足)
 ☆ とをことさら分ける事由も必然性もない。のではないか?


 (こ) したがって
 ★ 唯一の評価基準は、自己の内の満足度(認識の / 深さ×社会的貢献の意志×その達成度)である。
 ☆ についても まづおそらくそれぞれ《主観の満足》が――わたしゃあ 他人より少なきを憂えずかえってそれにて満ち足りるものであるという場合などをもふくめて―― やはり物差しになることに違いない。

 (さ) けれども それは 初めからの議論にもとづき 《身と心 あるいは モノやお金をふくめた生活全体を捉えた精神による判定》を中身とするにちがいない。と考えられる。

 (し) ちなみに 
 ★ 社会的貢献の意志
 ☆ というのは 基本として《主観の満足》を判定するその主観における知解ならその知解によっている。すなわち その意味で
 ★ 認識の深さ
 ☆ の問題がかかわっている。主観における知解が《社会的貢献》の内容を規定する。

 (す) あるいは そのおのれの思いや考えとして規定した貢献内容は それだけでは決まらない。一般に貢献を受ける相手があって その相手との関係や交渉においても内容が決められていく。

 (せ) さらにあるいは 主観意志による実践のあり方も 貢献内容を規定する。たしかに
 ★ その達成度
 ☆ も問題とされる。

 (そ) こうして 早い話が 主観の・自己のハカラヒやそこにおける満足に沿って 意志行為は実行されるはずだ。

 (た) けれどもそれにもかかわらず 《主観の満足》という物差しは おのれの貢献内容について 他人(ひと)からの判定をも 考慮に入れないこともない。

 (ち) ここでもすでに見たように 《主観としての物差し の一般化・共同化》が或る程度において成り立って 有効であるように考えられる。





 (つ)
 ★ もちろん、それは二次的には環境に反映されるが、 / それが社会的評価や地位につながるとは言えない。
 ☆ ん? (ち)と同じ内容を言っているのであろうか? 次を見てみよう。

 (て)
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 一介の大工が、お客様の難し要求に応えて最高に
 住みやすい家を建てたとしても、マスコミに取り上
 げられる訳でもなく、大儲けする訳でもない、ただ
 本人の満足感は世界最高度であるだろう。
 (死後には何も残さないが)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは:

 (と) 《主観共同 としての物差し》にしたがった社会的貢献ないし《仕事》というものも それを見事に果たした場合にも
 ★ 社会的評価や地位につながるとは言えない。
 ☆ でしょうか? 

 (な) 共同主観としての一般的な物差しに従ったおのれの意志行為も その仕事が 人びとから有効の内によく評価されるかどうかは 一般にはうたがわしい。でしょうか?

 (に) ★ マスコミに取り上げられる訳でもなく、大儲けする訳でもない
 ☆ 仕事に成りがちだ。ただし

 (ぬ) ★ お客様の難しい要求に応えて最高に住みやすい家を建てた
 ☆ のなら
 ★ (死後には何も残さないが)
 ★ 本人の満足感は世界最高度であるだろう。
 ☆ ということでしょうか?
 


 (ね) あとは その仕事その作品が 満足のもんだいを超えて 《人間そのもの》になるか? ですが それは そこまでの問題ではないと分かっているであろう。ということでしょうか。

 (の) 《仕事における満足》というものが 《存在の存在たる理由》になるかなどと思う場合は もう無い。こう言い切ってよいでしょうか? これが なぜか心配になったので設問しました。

お礼日時:2014/06/26 11:53

こんばんは。




どうしたんですか、
何か変なものをでも食べました?
拾い食いとかなさいましたか?


その作品が立って歩き、さらに、ご飯を食べウンチをし、人と会話をすることができて、さらに、涙を流せるのであれば、
その人その物ではないにしろ、
その人と同じような存在と見なしますかね、
わたしならば。


作品は、その人の思想やイメージなどの一部を表現したものに過ぎません。
その人の思想などのすべてを表現したものではない。
全人格的なものではない。

たとえば、モーツアルトの曲。
上品にして洗練されていますよね。耳障りも非常によい。
ですが、
こうしたモーツアルトの曲から、彼の人格を知ることができるのか?

実在したモーツアルトは、下ネタ好きのお下劣野郎ですよ♪
おしゃべりで浪費家、無計画で、計画的な生活をすることのできない人。
彼の楽曲から受けるイメージとは、真逆な性格をしていた。

モーツアルトの書いた曲が、彼の人格や人間性を表わしているとは考えられないのですよ。

まっ、そういうことで。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですかねぇ。

 そういう心配は要りませんか?

 なら いいのですけれど。


 つまりたとえば第三者だとか本人とは別の人間から見て 作品がそのひとであるといった見方ではなく そうではなく 本人じしんが そう思うことがあるのではないか? 

 つまり おれの人間は この作品にすべてあるとか わたしの生涯は死で終わるのではなく 作品がなお生き続けるのだとか そういったふうに《業績が 人間である》といった見方をする場合がありませんか?



 そういう心配はなければ よいのですが。・・・



 

お礼日時:2014/06/26 06:33

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