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武士はどんな教養を身に付けていたのでしょう?
もちろん時代や身分や個人によって違うと思いますが。
知ってることを詳しく教えて下さい。

あと、どういう本を読んでいたか詳しく知りたいです。
孫子は読んでいましたよね。江戸時代ならあと論語とか。

お願いします

A 回答 (5件)

>孫子は読んでいましたよね


戦がなくなって百年も二百年も経った太平の世の中で、こんなものを読んでいたのはマニアだけです。
この手のものであれば、軍記物と呼ばれる書物が沢山ありました。
源平の昔から関ヶ原までの合戦の物語りです。
本によっては、自分のご先祖の名前がポンポンでてきます。
舞台も自分が生まれ育った場所がポンポンでてきます。
実際に戦いに参加して手柄を上げた人達の子孫です。
現代のサラリーマンの子供とは訳が違います。

牛窪記 永禄美濃軍記 越後軍記 越州軍記 奥羽永慶軍記 大友興廃記 蒲池物語 河中島合戦記 関八州古戦録
清正記 九戸記 黒田長政記 謙信軍記 国府台戦記 惟任退治記 佐久間軍記 里見軍記 賤岳合戦記
柴田合戦記 島津家記 島津高麗軍記 上州治乱記 勢州軍記 太閤記 中国兵乱記 長宗我部元親記
東奥軍記 堂洞軍記 土岐斎藤軍記 中村一氏記 那須記 南北山城軍記 等々
各藩にまつわる合戦記も沢山ありました。

太平の世の中、武士だからといってしゃっちょこばっていたわけではありません。

日本は歴史的にも中国や朝鮮で行われていた科挙制度を全くとりいれませんでした。
何かの試験に受からなければ、家を継げない、とか役職に就けないなどということはありませんでした。
江戸にあった幕府の学問所である昌平黌で素読吟味、とか学問吟味とか言われるものをやってはいました。
資格試験や採用試験ではなく。成績優秀な者を表彰することで、学問を奨励することが目的でした。

江戸時代の武家は藩士や幕臣であれば、基本給は親子代々保障されました。
下級武家はそれだけでは生活ができませんでした。
何らかの役職について昇給してもらうか、役職手当を貰うことでやっと生活していました。
藩にせよ、幕府にせよ、軍事組織ですから、平和な時代に必要な仕事は限られていました。
その上世襲が原則ですから、あぶれた連中は親子代々食うや食わずの貧乏暮らしでした。
武家には、町人とは違い、職業選択の自由はありませんでした。
何らかの事情で役職の空席が出るのを当にしてセッセと就活をやっていました。
このときに、万が一昌平黌の素読吟味や学問吟味で良い成績を残していれば多少有利でした。
この程度の話です。
時代小説のような訳にはいきませんでした。

武家は生まれた時から武家に成るべく教育を受けます。
内容は武家としての一般常識です。
儒学者になる訳ではありませんから、論語だのなんだのは閑な奴がやっていました。
基本的には、実語教、今川状などというものを子供のころに、父親などから教わりました。
実語教や今川状の現物をネットで読めます。トライしてみて下さい。

「実語教(じつごきょう)」・・・日本人の心はこれで育った! - 世界遺産の ...
blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/61801398.html

今川状原文
shizuoka.veritas.jp/imakawa/imajyo.htm

現在の中学生ぐらい段階になると千字文という書物を徹底的に書き写させられました。
漢字の書き取り、書道の練習が目的です。
千字文も現物をネットで見れます。

千字文 原文
www.geocities.jp/qsshc/cpoem/qianziwentate.html

ほぼ同じころから、四書五経と呼ばれる儒学書の中から大学とか中庸とか呼ばれ本を学びました。
この際に、公立である昌平黌へいったり藩校へ通ったりする人もいましたが、私塾と呼ばれるものが無数にありました。
しかも儒学だけではなく、国学、医学(蘭学、漢方)和算 天文学等 専門のものも沢山ありました。
熱心な人は、家を離れてこの私塾へ留学する人もいました。
これ等の私塾で学んで後世に業績や名前を残した人は沢山います。

とは言え、義務教育ではない上に勉強が好き連中ばかりではありませんから、今の大学生と同様に遊びほうけている連中の方が多かったようです。
いつの時代も変わりません。

実際に武家の子供がどんな日常を送っていたかという実録があります。

八丁堀与力の暮らし ~お稽古と手習い~ - nifty
homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/84kai.html

原胤昭という実在の人物です。
役職も与力ですからお奉行様のすぐ下の役職で、同心よりも上でした。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん
いつもありがとうございます。
返事遅れてすみません。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:48

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

☆武士の必須科目
もちろん、文武両道であるが、五歳~七歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。七歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。八歳ぐらいになると師のもとに通い、十歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。

☆武士にも国家試験?
武士の子息が十二歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。これに合格すると「番入り」(=役所勤め)ができた。逆に、合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。けっこう、厳しい世界であった。

☆地方の武士
ある程度の大大名になると、大概は「藩校」を開設していて、そこへ通って「四書五経」などを素読できるように努力しました。

また、小大名ふたりでは、個人の「塾」があり、そこへ通いました。

>>孫子は読んでいましたよね。江戸時代ならあと論語とか。

残念ながら、「孫子」や「論語」は正式には学びませんでした。
あくまでも、個人の趣味の範疇でした。

また、犬公方で有名な5代将軍綱吉は「朱子学」が大好きで、暇があれば読書をし、政務は柳沢吉保ほか老中に任せっきりでした。
柳沢吉保はこの綱吉に好かれようと、自らも「朱子学」を勉強し、綱吉の弟子と称して止まなかったのです。
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この回答へのお礼

こんちにはbungetsuさん。

返事遅れてすみません。

やっぱり儒教が教養なんですね。
武士なのに兵法を学ばないのは以外でした。

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:42

江戸時代は江戸の藩邸で働くために地元から江戸に出てきていた人もいます。


そういう人は地元にいれば地元の藩校で勉強できたかもしれませんが、江戸には藩校はありませんし、かといって寺子屋で庶民の餓鬼どもと一緒に手習いそろばんを学ぶ訳にもいかないし…といった感じで勉強できなかった人もいたと聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

なるほど武士としては、そんな恥かけませんよね

返事遅くなってすいません。
回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:44

昌平坂学問所の影響を受けて、漢学(儒学特に朱子学)を中心と


した教養でした。

儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』です。
孝経は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、
国民道徳に深く影響を与えた経書です。

『四書』とは『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指し、
『五経』は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の
最も基本的な五つの経典のことです。

四書五経の学習は、江戸時代後期には下級武士や庶民の間にまで普及し、
君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識が浸透させていった半面、
読書能力を養い教養を身に付けるなど、
人民の文化水準の向上に果たした功績は大きいとされています。

素読の学習が終了すると、教材の内容の意味を
理解・解釈することを学び始めます。
朱子学派の藩校においては、道徳訓話を要約した『小学』や朱子により
「道学者」の著作や語録を編纂した
『近思録』が 朱子学への格好の入門書として広く読まれました。
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この回答へのお礼

返事遅れてすみません。

なんか学んでることは儒教ばっかりですね

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:47

    天莫空勾践時非無范蠡



    14世紀の武将なら、上記ぐらいの詩が書ける教養の人もいたようです。下記等をご覧下さい。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6% …
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この回答へのお礼

まるで中国人ですね。

回答遅くなってすみません。
ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:36

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