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ユングの入門書的なライトな本を読みました
そこには、集合的無意識とは無意識より更に深い、個人ではなく全人類共通の無意識のことで

例えば太陽をあがめる、とか土偶のようにふっくらした女性の像を見れば母親をイメージする

とか、そういったものだと書いてありました

それで、それが一体何なのか?というと

集合的無意識があるから「自分を認識できる」というのです

ここが分かりません

どう繋がるのでしょうか?

物知りな方教えてください

A 回答 (7件)

フロイドはヒステリー研究から精神分析という学問を開始した創始者で、無意識というものを想定した最初の学者です。

その無意識の根源には性的エネルギーが中心的な動力として存在するとし、彼は、それをリビドーと名づけました。誤解の無いように付け加えておくと、リビドー即ち性的エネルギーというのは別にセックスのことのみを指すわけではなく、あくまで生存本能(セックスが無ければ人類は死に絶える)の基となるエネルギーといった意味に理解されるべきと思います。
ユングはフロイドの後継者と目されていた高弟でしたが、リビドーに性的なもの以外に心理的なエネルギーも認めるべきだとして離反することになります。
リビドーについて、フロイドが個人的無意識に存在すると捉えたのに対し、ユングはそれを認めつつも、さらにそれより深い箇所に人類的記憶としての無意識も存在すると考え、それを集合的無意識と名づけました。
個人の心理や体験を超えた無意識的現象(心理)が存在すると考えたからです。
集合的無意識が個人的無意識の基になっていると考えたわけですが、フロイドにすれば、個人的無意識があるからこそ結果として集合的無意識となる、ということで、非常に大雑把に言うと、卵が先か鶏が先か、といった違いになるかと思います。
いずれにせよ、無意識というものの存在を認めている点で両者に違いはなく、その無意識というものが自己認識の土台にならざるを得ない、という点では共通しているわけです。
おそらくですが、『集合的無意識があるから「自分を認識できる」』というのも、そういった意味じゃないでしょうか。「集合的」を外して理解しても大差はないものという気がします。
  
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 No.2です。



 集合的無意識は ふつう一般の受け留め方があるという回答を寄せましたが ユングその人の思想は 成っていません。このことをつけ添えたいと考えます。


 ひとつだけ取り上げます。ユングは 神についての三位一体論に代えて 四位一体を説いたという問題です。

 よさそうな説明が見つからなかったのですが 次を挙げておきます。

 ▲ 宮下 聡子:ユングにおける宗教的倫理の可能性
 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database …

 要するに 子の父なる神と 父の子なる神と そして両者から発する聖霊なる神 これが 神の三つの位格であり また――無限を二で割っても三で割っても その商はやはり元の無限であるあるように――三つのペルソナはいったいであるという三位一体論に代えまして そこに四つ目の位格として 悪魔をユングは添えました。
 
 三位一体なる神は 人間から見て善悪の彼岸なるところ(非経験の場)を示しますが 一般にはこの上なき善であるとも捉えられています。

 だからなのか ユングは そこにさらに悪魔なるペルソナをも入れるというのです。
 言っときますが 神のペルソナとしての悪魔なのです。つまり 悪魔なる神が 三つの位格とさらに一体になっていると言い出したのです。


 ならば おそらく善と(つまり 至高の善と)そして悪とは真っ向から対立すると思われますが そんな状態でどうして一体であることが成り立つと言うのか?

 これを 地上の経験世界のこととして捉えるならば こうなります。人が善と思うものは そのまま悪でもある。たとえば人ごろしは悪だと判定したとしても その悪は いや 善と一体なのである。悪は善 善は悪であるとなります。

 阿呆らしいことを言ったものです。




 なお 精神分析関係の議論で《無意識》というのは ただ《意識していない状態 だから 意識に現われるようにもなるものごと》のことではなく それとして(ムイシキとして)脳内に言わば独立した部域があるというものです。それとしてハタラキを持つというものです。

 ブディズムでアーラヤ識を立てると言っても それは 単なる想定です。あるいはさとりをめぐる取扱説明書の中のひとくだりです。

 けれども ムイシキは 違います。何ものにも依存したり何ものかから発生したりするのではなく トラウマが出来たらそれが いつ・どこでかは知らないとしても 自由勝手に我が物顔でそのハタラキを顕在化させるという説です。

 つまりは 先ほどの悪魔と合わせて捉えるなら たとえ人殺しをやったとしても 《おれのムイシキなる悪魔が そうせよと命じたのだ。おれは ただ神にしたがって行動したまでだ》とうそぶくことが出来てしまいます。これに対して 人間は 何を言っても 通じなくなります。


 ユングは 阿呆です。
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おそらく、集合的無意識無くしては自分は存在できない、というほどの意味かと思います。


例えば樹木は、地中に根幹を持っていてそれは外からは見えません。人も同じように、無意識という根幹を持っていて、それは外からは見えないのではあるが、それがあるから自分は存在できるのです。(集合的無意識は、唯識でいうところの阿頼耶識と同等の概念であるそうです。)
また、無意識とはすなわち影の世界(普段は見えない世界)です。光の世界を意識の世界とするなら、光は影があって初めて認識されるものです。著者は、そういう意味で、集合的無意識があるゆえに自分を認識できる、と言ったのではないでしょうか。

 集合的無意識とは、要するに、原初に抱いた普遍的なイメージの世界とでも思っていればよいのではないでしょうか。
これを発見するに至った事の発端は、ユングが診ていた精神病患者の夢が、海を隔てた大陸の先住民が見るヴィジョンと全く一致していたということに始まります。もちろんその精神病患者には、先住民の精神世界の知識など毛頭ありませんから、ユングはこれを、人類に存在する普遍的なものの一つであると目をつけて、例証を幾つも集めたのです。
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こんにちは。



集合的無意識があるから「自分を認識できる」というのです?

ユングの理論は日本ではユング心理学とよんで居ます。
分析から、質問の様な結果が出て居ましたら、ユングも悩んだ
甲斐が無いと思います。
普遍的無意識(集合的無意識)+個人的無意識=無意識として
分析されています。
無意識を広く大きな意味のあるものと考えて居ます。
アリストテレスの時代以来顧みられなかった魂に光を当てた
ものがユング心理学と言えます。
無意識の中に、意識とは対照的なもう一人の自分が隠れていると
考えて居ます。
例えば勉強嫌いが、たまたま興味を持って勉強が好きな自分を
発見する。など人間の心(深層心理=無意識)には自分の知らない
自分、他人の様に独立した存在の自分が居ると考えたのです。
勉強好きな自分と勉強嫌いな自分、この様に相反する自分が居る事で
、足りない自分を補い合う事が出来、人間の心は完全になるのだと
ユングは分析をして居ます。──自分を認識できる。
ユング心理学は「意識の科学であり、無意識の心によって生み出される
ものに関する科学」と言って居ます。
神話、錬金術の体系化、普遍的無意識、コンプレックス、元型(ア~キ
タイプ)夢分析など多岐にわたる研究をしたのも、心の多様な姿を
捉えようとしたからと言えます。
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ユングはもともと精神科医で、患者を治療するために心の構造を考えて研究していました。


ユング自身も一時期、かなりおかしくなったようですね。

ユングは西洋以外の文化も研究していました。
太陽の無意識的イメージはミトラ教から気付いたことです。曼荼羅も東洋ですし、北米先住民にも会いに行っています。

ただし、彼は自分が西洋文化に育った西洋人であることを自覚していましたので、その自身の立場から発言していたようです(西洋文明が一番優れていると考えていたわけではなく、自分の立ち位置として)。

私はユングのライトな本の1つ「自我と無意識」(レグルス文庫)を読んだのですが、正直言って読みにくいし、今ひとつよく解りませんでした(笑)。

でもその前に、もう少し噛み砕いた一般向けの、河合隼雄さんや秋山さと子さん他のユング派の本を読んでいたので、一応何の話なのかは分かったのですが・・・。

統合失調症、昔は精神分裂病と言っていましたが、その患者は幻覚を見たりするわけです。それが何だかを知りたかったんじゃないでしょうか?治療のために。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90% …

自分では説明できないのでお手数ですがこちらを読んでみていただきたいのですが、個性化とか、こんな感じかな?と思います。
 ↓
「集合的無意識のイメージから自分自身をはっきり区別し、独立させた上でしっかりと受けとめる「個|性化」のプロセスが大事である。」
http://blog.livedoor.jp/brgj/archives/1916242.html

深いところの無意識があるということを把握して、それに振り回されないようにとか・・・イメージを否定したり単純に切り捨てるのでなく、取り込んで統合を目指していくんだろうと思いますが。
しかし私も理解の浅い素人なので、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

なんとか理解しようとがんばりましたが、到達しませんでした 笑

でもなんとなくは分かりました

感謝です

お礼日時:2014/08/25 12:37

  こんにちは。



 《ライトな本》にどう書かれていたか分かりませんが 《集合的無意識》なる概念は それほど理解するのにむつかしいとも思えません。精神分析という立ち場から離れても ふつうに認識しうる内容であると考えます。

 ▲ (ユング:集合的無意識) ~~~~~~~~~
 集合的無意識とは個人的な心の仕組みが顕わにされたものでは絶対にない。

 それは全世界へと拡がり 全世界へと開かれている客体性である。その中では私はあらゆる主体にとっての客体であり それは私がつねに主体であって客体を所有しているというような通常の私の意識とは正反対の状態である。

 そこでは私は世界との直接無媒介の一体感にはまりこんでいるので 私は現実には誰であるかをあまりにも簡単に忘れてしまうほどである。

 《自分自身の中へ迷い込む》という表現が この状態をぴったり言い表わしている。

 しかしそのばあいの《自分自身》とは世界のことである。というより 意識が《自分自身》を見ることができるならば それが世界だ と言うべきである。だからこそ自分が誰であるかを知らなければならないのだ。
 ( C.G.ユング:元型論 林道義訳  1999)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 感性のあり方にしろ思考の道筋にしろ 地域ごとにそれぞれ人びとは互いに同じような内容を 歴史を経て育むといったことを表わしている。だけのことだと捉えられるのではないでしょうか?

 ナラハシのようなもの(あるいは エートス) これをユングは 世界全体に広げているようですが それは行き過ぎでしょうね。それは じんるいの一員であるといった共通性を言うだけになるかも知れませんから。

 川にさしかかって一本の丸木橋を渡ろうとすると 向こうからも 人がやって来た。さて 先をゆづるか。話し合いをすることもないだろうから 強引にでも自分から先に行くか。それぞれの地域や民族によって その振る舞い方は 《世界との直接無媒介の一体感にはまり込んでいる》かたちで かなり決まっているのではないか? 

 それだけのことだと考えます。


 ★ 集合的無意識があるから「自分を認識できる」というのです
 ☆ 《自分》は すでに自覚していると考えます。そこで 現実の世界を知るというほどのことを言っているのではないでしょうか。

 あるいは 《自分は あぁ この村の一員として暮らすひとりの人間なんだなぁ》とは認識するでしょうね。
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現象的な共通性の根底には、原理的な共有があります。


猿と人間が似ているのは、比較的最近に系統が分かれ
たからであって、共通の祖先を持っているからです。
あるいは、アルミと鉄の性質が似ているのは、原子構造
による電子を共有する金属結合という原理的な共通性が
あるからです。

遺伝子を共有し、生活環境が類似であれば、潜在的判断
も共通するのも当然です。
たとえば、農耕民や冷涼な西欧では「太陽をあがめる」
かも知れませんが、砂漠の民にとって凶暴な存在であり、
緑を自分たちのシンボルとするのだ。
ユングは所詮、西欧人の狭い視野での考察に過ぎません。
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