プロが教えるわが家の防犯対策術!

科学上の偉大な諸発見は、論理的な用語による表現や実験による
検証が可能なものであり、最終的にはその形をとっているにせよ、
元をただせば、未検証で非論理的な直感によってなされたもので
あるといえると思います。
また、偉大な芸術家の創造も、この直観によるものでしょう。

この直観とは、意識下から意識上へ湧き上がってきたもののよう
に私には思えます。
本能的なものといえるのでしょうか?

人間にとって、直観力、あるいは直感力とはいかなる能力といえ
るのでしょうか?
あらゆる視点からのご回答をお待ちしています。

質問者からの補足コメント

  • 三行目の直感→直観の間違い。大変失礼しました。

      補足日時:2016/06/13 05:11

A 回答 (10件)

どの方の回答も共通するものを感じます。


特にhakobuluさん、lupanさんの回答は深みがあって勉強になりました。

これから、思ったことは直観は本能の内にあり、と云う事です。
蟻の行動を本能によるとすれば、危険と感じる事も直観という本能の働きであると。


これが人間になると、知的な事柄にも現れるのだろうと思いました。(理性という働きも人の能力としては本能の内、とした場合は、です)


生れ出たのは母の胎内から。
生命は地球上から。
地球は太陽から。
太陽は宇宙から。
宇宙は神、或いは如来から。

母の生みの力、
宇宙の、神の、或いは如来の生みの力、

人間の心に意志、感覚、理性という働きがあるのは
生みの親である宇宙の精神にこの働きがあるから。
如来(絶対の霊体)の意志の力の現れがこの我々の住む宇宙。

人の心は宇宙の心と同質。
同質故に他者の気持ちが分かり、ペットの喜びに感じ、神仏に思いを馳せる。
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この回答へのお礼

宇宙、神、如来、同じですか?

>如来の意志の力の現れがこの我々の住む宇宙

私もね、宇宙って「仏」の意志に満ちていると思うんですが、

何とも、理解できないんです。

お礼日時:2016/06/20 16:51

#6です。



>人間の「直観力」とは、自分の胸に手を当てて考えれば、「論理的な結論によ
らないで、結論を出す力」ということになります。
成人男性はあまり用いない、女性や子供がよく使う力、こういう言い方も可能
かと。

「直観」の対象にもよると思うのですが、「成人男性はあまり用いない」という要素に特定した場合、それは本能の一種と思います。
「女」であること、「子供」であることの、種の保存に対する役割や感覚、あるいは庇護されるための方便など、アプリオリに備わっている能力の延長線上にあるものではないでしょうか。

>「膨大な記憶データの処理、活用」には違いないと思いますが、一瞬にしてそ
れを見抜く(間違いもあるでしょうが)「洞察力」のような力が理性とは別にあ
るような気がします。

「理性」と言ってしまうと紛れが生じますので「論証的思考」とでも表現してみたいのですが(意図が違うようでしたらご指摘ください)、「瞬間的洞察力」というのは「超瞬間的な論証的思考」の結果ではないだろうか、というのが、あの番組を見て感じたことです。
ナレーションのひとつが印象に残っています。
「 A I も人間も、突き詰めれば原子にすぎない」
A I の構造は時間さえ掛ければ検証できるわけですが、たとえば、人間が毎日10局づつ打ち続けた場合8200年ほど要する3000万局の囲碁の対戦場面から A I が導き出した結論(次の一手)を検証することは、(8200年後でなければ)実際問題として不可能。
このように、たとえ論証的思考であっても瞬間的な洞察力であるように見えてしまうのが直感なのではないだろうか、という気がするわけです。
つまり、発現状況に個体差はあるわけですが、人間にも A I に比肩するほどの「瞬間的洞察力」が潜んでいるのではないか。
ただ、それが論証的思考であるにもかかわらず、それと認識する能力までは備わっていない段階。
つまり、
>本能的なものといえるのでしょうか?

に対してはノーと申し上げておきたいですね。
>「膨大な記憶データの処理、活用」には違いないと思いますが、

とおっしゃるわけですが、私としては、
「膨大な記憶データの処理、活用」のみだと言って良いように思っています。
この「処理、活用」において、何らかの選択をする必要があるわけですが、では、その能力はどこから来るのか、とおっしゃるかもかもしれません。
それはおそらく、「膨大なデータ」が記憶から引きずり出される際の、言ってみれば神経細胞間を移動する神経伝達物質同士の「摩擦」のような作用によって必然的に生み出されるのではないか、と思うわけです。
「ほんの些細なきっかけ」で我々は「次の一歩」を日常的に決定しているのではないでしょうかね。
たしかに「何か特別な力」が働いている、と考えたくなることもありますが、それは、おそらく違うのではないか、と。
さらには、こうしたことから神が捏造されていくような気もしますね。

>蜂や蟻などの昆虫は、見事な組織的活動をします。昆虫の単純な脳の組織の中
にその情報があるとは思えないですし、短い生涯のうちに学んでいることも考
えにくいです。情報は「共有」されているという「仮説」が浮かんできます。

これこそ本能ではないでしょうか。
人間でも、全く何も教えなくてもセックスできるのと同様です。
芸術家の例なども、ほぼ本能的な資質が関係していると思います。どの程度みがくか、という問題はあるでしょうけれども。
とりとめもない感想のつづりで失礼しました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

「直観知」を「瞬間的洞察力」と表現することは賛成ですが、それが「超瞬間的論証的思考」
の結果とすることには、どうも納得ができません。しかしながら、明快に反論することもでき
そうもないです。

「直観」には「論証的思考」が付随することがあるが、本質的に別物であろうということです。

子供のころは論理性が未発達なので、理屈ではなく「何か分かっちゃう」ということがあると
思います。
例えば、切れないハサミで紙を切るやり方が「わかっちゃった」ことを覚えています。これは
言葉で表現することは難しく、理屈は今では分かりますが、当時は分からなかったことです。

私は自慢ではないですが、手先が器用で、本立てを作ったり、絵をかいたり、彫刻したりする
ことが得意でした。ああいった作業は論理的思考の集大成の側面があると思います。しかし、
理屈は分からずとも、「分かってしまう」これが人間の持つ「直観」という能力だと考えるわ
けです。

そして、ここで私の言う「直観」を本能的なもの、「論証的思考」を意識的なものと立てわけ、
後者をやや上位に考えるという見解であるならば、これも納得できません。
では、本能とはいかなるものか、ということにもなりますし、「論証的思考」の大元は本能と
言えないのかとか、考えてしまいます。

「直観」も「論証的思考」も人間の持つ能力という点で同格であり、「直観」というものがよ
く分からないものゆえに、そのまま神秘化をしないで、明らかにできないものかと考えている
次第です。

お礼日時:2016/06/19 00:30

私の投稿への感想を見て、考えて見ました。



動植物は自然的に備わっている性能(能力)のままに生きることで"生"を全うする、または全う出来ると言えると思いますが、そう思って見ると人間は、持って生まれた自然的"生の意欲"に意味を持たせたいらしく、だから持たせようと考えます。
この事は、自然的な生に疑問を感じる事から起きるのだと思います。

なぜ、そうした疑問のような心境を持つのでしょう。

母親の御胸にい抱かれる幼子は"安心状態"ですが、いったんそこから離れると不安になって泣いて母の胸を求めます。
そのように、われわれ人間がこの地球上に誕生したと云う事は"元の世界"からはじき出されて、孤独になって不安になっての無意識的"恐れ(ブラジュロンヌ流用法とはちょっと違うかも)"がこの疑問の出どころだと思うのです。

そして、この事は「神」とのつながりを示唆しています。
このつながりは、発信者と受信者と云う関係であると思えば、この理由から"妙観察知"という働きが現れるのだろうと考えているのです。

☆直観は《能と受》の関係が有る事により現れる。

・・・・・と、してみました。
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この回答へのお礼

解説の投稿ありがとうございます。

>人間は持って生まれた自然的生の意欲に、意味を持たせようと考える

ふむふむ。

>それは、自然的生に疑問を感じるから起きる

これは否定できないと思いました。

>疑問の出どころは、「元の世界」からはじきだされたということの「無意識的恐れ」

生れ出たことによる「無意識的恐れ」というのならわかる気がしますが、
「元の世界」というのは何でしょうか?
また、仏教徒であるyy8さんにとって「神」とは何でしょうか?

お礼日時:2016/06/18 16:24

表現は難しいですが、直観で得られる結果は「本能」もしくは、「アプリオリ」なものではないですね。


つまり、「直観」と言われる機能が、「本能」もしくは「アプリオリ」かと問われれば、そうでしょう。
哲学的に考えても多分、答えはみつからないと思います。
仮に、「記憶」から「意識」が生じると考えた場合は、「直観」とは、「記憶」のうち、「意識」で何回も思い出したパターンが複合的に合成された結果と考える事ができます。(これは脳神経科学が発展すれば、ある程度は実証可能でしょう)
脳神経のシナプスは、その興奮の頻度が高い場合は、その結合により興奮のしやすさが上昇します。
そのように、結合されたシナプスは、頻度が高い興奮に対して、より感受性が高まるので、より「直観」につながると考えられます。
本能は、生物の脳もしくは、神経機能がその発生において形成される結合の結果と考えられます。
獲得形質は、遺伝しませんが、自然淘汰により、遺伝的に生存に有利な「本能」をもった神経結合を持っている個体は、自然淘汰を回避できます。
そのように、形成された「本能」が、「直観」に特化した場合は、より自然淘汰を回避できると言えますから。
「直観」は、「本能」の一部となるとは言えるでしょう。
質問文にある「意識下」をシナプスによる「記憶」と読み替えて、その複合的興奮を「意識上」と読み替えれば、それを「直観」と呼ぶことも可能ではないでしょうか?
「本能」だけで動く生物は、ワイヤードプログラムで制御される機械と同じです。(ワイヤードプログラムとは、神経をシーケンス回路の配線に置き換えた表現です)
そこには、「意識」は存在する必要はありません。
「意識」は、「選択」の機能です。
脳が、「選択」の機能をどのように実現しているかは不明です。
「精神」が存在した方が、生存に有利だとしたら、それを獲得した個体が生き残ったと考える事は可能です。
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この回答へのお礼

科学的、哲学的見地からのご回答ありがとうございます。
科学をよく知らない私にとって「思索の基準の一つ」になるものです。

仏教徒として、宇宙の本質とか、人生の意味などの根本的疑問にドグマ
チックな回答を受け取ってきた私は、その厳密な検証性ゆえに信頼され
ている科学の世界において、その答えがどうなるのかということを考え
始めた訳です。

しかし、現在の科学というものは、「本質」ということには向かってい
ないということを教えていただきました。限界があるということを知り
ました。
また、宗教というものも間違いを生じやすいということも認めざるを得
なくなりました。

「直観」と「理性」というものは、もちろん対立すべきものではなく、
相互補完的存在であろうと思うようになりました。

お礼日時:2016/06/18 08:06

#4さんへのお礼で触れられている羽生さんの番組に関連して、少し振り返る形で余談を交えつつお邪魔致します。


「直観」の定義が多様である点と、かの番組で使われていたのが「直感」だったことも合わせ、一応「直感」という表現を使わせていただきます。論証的思考ではないという点では共通しているわけですが。

囲碁の世界最強棋士(韓国人)に挑んだ人工知能が紹介されていましたが、結果は4:1で人口知能の圧勝。
「AlphaGo(アルファ碁)」と名づけられた人工知能はグーグル傘下のディープマインド社が開発したものですが、その製作過程が興味深いです。
一手あたりの選択肢が最も多い(10の360乗通り)囲碁では、いくらコンピュータでも、すべての手を検証している時間がないため、開発者のハサビスは、「アルファ碁」に直感を組み込もうと考え、まず、人類の過去15万局の対局画像を記憶させたそうです。これによって、「アルファ碁」は、「勝ちにつながる石の動きパターン」を自ら学習していった。
ここからが興味深いのですが、その次の一手を考える際、すべての選択肢ではなく、そのいくつかあるパターンに絞り込んで、その先の展開を予測するようになった。
すべての選択肢を論理的に検証しないまま選択が行なわれるわけですが、考慮時間は大幅に短縮される。これを A I が直感力を持った瞬間であるとしています。
ハサビスは、さらに、「アルファ碁」同士で3000万局の対戦をさせます。(人間が毎日10局づつ打ち続けた場合8200年かかるそうです)
これによって、「アルファ碁」は未だ見つけられていなかった未知の勝ちパターンも学習していった。

さて、実際に人間と対戦した際、こうしたデータを元に次の一手を決定するわけですが、元となっているデータが膨大すぎるため、傍目には論理的検証がなされた上での決定とは認識できなくなるのだと思います。
つまり、「アルファ碁」は直感で指しているように見える。
しかし、先述いたしましたように、実際には、勝ちパターンを絞り込むという作業を行なっているわけで、「(膨大な)勝ちバターンを知っている」ことが、その直感の基礎になっているはずです。
羽生さんの場合も似ていて、盤面のすべてを検証するのではなく、ほんの一箇所に限定して次の一手を探るそうです。
なぜ、その一箇所を特定できるかというと、これも膨大なデータの蓄積が基本にあるように思います。
彼は、「ほとんどの手は考えていない」と言います。
また、「将棋が強いということは、たくさんの手を読めることではなく、(見た瞬間に判断できるので)たくさんの手を読まなくてもよくなることだ」とも。
見た瞬間に判断できることを直感と呼んで良いのでしょうが、AI の場合は、記憶されている膨大なデータから絞り込んでいった結果として「見た瞬間に判断できる」という能力を身につけていることになる。つまり、過程を検証することが可能でしょう。
しかし、人間の場合、その過程を認識することが難しいのだと思います。
人間の脳内では AI が行なっているのと同様の作業が、神経細胞間同士、シナプスを通した神経伝達物質の移動という化学作用によって実行されているはずですが、その過程自体の認識が難しいため、論証的思考ではないように受け止められてしまう、ということ。
羽生さんの頭の中でも、目前の局面と同じようなパターンを、記憶から瞬時に引きずり出すことで次の一手を選択しているのでしょう。
全くの当てずっぽうや、単なる感覚とは異なるはずと思います。

少し逸れるかもしれませんが、たとえば、他のひとにとっては何でもない、ある音がどうしても好きになれないような人は、幼少時に、その音と関連して極めて嫌な体験をしているというパターンもあります。
おそらく、なぜ嫌いかはわからないのだが直感的に嫌いだ、と認識すると思うのですが、しかし、原因は記憶されている過去の体験であり、無意識下にあったそれが意識下に浮上してくる過程を認識できないだけ。
これに似ているような気もしますね。
あの番組から受けた印象としてですが、直感は膨大な記憶がその大元にあってこそ生まれる、ということでした。
そして、それを活用するために必要なのが、創造力と柔軟な思考なのでしょう。
「アルファ碁」は、互いに3000万局もの対戦を重ねることで、勝ちパターンの幅を広げると同時に、勝つためには自分で好きなように発想してよいのだ、ということも学習していったようで、それが(一応)彼にとっての創造力になっているのだと思います。
・直感力=創造力と柔軟な思考による膨大な記憶データの活用力
と、とりあえず考えます。
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この回答へのお礼

興味深いお話をありがとうございます。

仰る通り、「アルファ碁」の思考と、羽生名人の思考は同じものに思えます。
しかし、AIの場合、純然たる論理的思考であって、プログラミングの通り動い
ているだけで、人間同様の直観力を持っているのではないはずだと考えます。

人間の「直観力」とは、自分の胸に手を当てて考えれば、「論理的な結論によ
らないで、結論を出す力」ということになります。
成人男性はあまり用いない、女性や子供がよく使う力、こういう言い方も可能
かと。

ですから、AIの持つ、直観力のような脳力は、本質的に人間の持つそれとは違
うといえると思います。

「膨大な記憶データの処理、活用」には違いないと思いますが、一瞬にしてそ
れを見抜く(間違いもあるでしょうが)「洞察力」のような力が理性とは別にあ
るような気がします。

蜂や蟻などの昆虫は、見事な組織的活動をします。昆虫の単純な脳の組織の中
にその情報があるとは思えないですし、短い生涯のうちに学んでいることも考
えにくいです。情報は「共有」されているという「仮説」が浮かんできます。

お礼日時:2016/06/15 20:45

彼のお坊さんの一文を紹介して見ます。

「無辺光」からです。

『自然界。
他の刺激によりて自性を開発する性。
宇宙は一大霊智に開示せられたる自然的方面とすれば、自然界は相対規定なるも元同体より開展せられたる両面なれば、相互の感応作用行われざる処なし。

太陽より分娩せられたる地球なるも元同一の物質が今日にしては太陽と地球とは陰陽その性質を異にす。(陰陽とはしばらく俗にしたがう)この陰陽両動の交感孚応によりて地球に於いてすべての有機物即ち動植物を養生す。陽道が発する能力を陰動なる地はこれを受けて、炭酸水窒等を化合して植物を養う。

陽春陽気に感応して爛漫として百花麗しきを呈するが如き、またすべての動物に於いても植物によりて栄養を求め無数億兆の生育する、みな此の感応作用によらざるなし。もし天体陰陽両動の自然的感応なからんか地球に一の生物なきに至らん。

偉哉蔵性妙観察の性。わずか一方面の自然界に於いてすら是の如し。
ニュートンが物理の法則を発明したるも同じく精神察知にあらずや。』

※なんとなくですが、質問や回答を補足するような感じがするので写してみました。
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この回答へのお礼

弁栄師の文を引用していただきましたが、よくわかりませんでした。
yy8さんの解説が必要です。

お礼日時:2016/06/15 20:09

直観力とは


脳の情報処理回路において
意識の閾値以下の偶然性を左右する要素から
普遍性へのきっかけとなるような影響を受ける傾向の強さで
それは先天的な枠組みをベースに後天的に鍛えられるものだと言えそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

うーむ、難しいですね。

昔、将棋の羽生名人の対局中の脳の状態を測定するという企画の
テレビ番組があったのを思い出します。
はじめ右脳が動き、そのあとに、左脳が猛烈に動き出すというこ
とだったそうですが、打つ手を直観的に探し出し、そのあとに検
証をしているのだろうという解説でした。

お礼日時:2016/06/13 17:15

宗教的には「妙観察智」という心の働きになるのかなぁと思います。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

四智のうちのひとつ「妙観察智」、よく知りませんでした。

お礼日時:2016/06/13 17:04

第六感というやつだな。

五感についだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

いわゆる「第六感」、なるほど。

お礼日時:2016/06/13 05:22

>未検証で非論理的な直感によってなされたものであるといえると思います


私はこの部分は否定的な考えを持っています。
私の経験では、感というのは、実は経験やデータに裏打ちされているように思います。
ですが、画期的なものは普通の人には判らない、発想がそこまで到達しない、それは経験やデータが無いからだと思います。
画期的な事を思いつくのは、試行錯誤を繰り返して経験やデータが沢山ある状態で、悩みに悩んだ末、出てくるように思います。

そういうことでは、
>直観とは、意識下から意識上へ湧き上がってきたもののよう
というのはその通りだと思います。
無意識の中でそれまでの経験やデータの中から必要な部分が朧げながら判っていって、
意識出来た時に画期的な事が解明されたりするのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

誤植がありました、申し訳ありません。

直観といっても、「思いつき」といったものから、思索の果てに出てくるもの
まであって、様々だと思います。
悩みに悩んだ末に出てくるものとは、「理性」による「検証」がなされたもの
といえるのではないでしょうか?

お礼日時:2016/06/13 05:21

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