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第二次世界大戦終了前に満州に住んでいた日本人は、日本のどの地域から移住された方が多かったのでしょうか?
また、当時の日本の特定の地域と中国の特定の地域の移住関係の繋がりが強かったケースなどを教えて頂けますでしょうか?

A 回答 (5件)

たびたび、すいません


当時の日本の特定の地域と中国の特定の地域の移住関係の繋がりが強かったケースについて、書き忘れていました。

有名な所では長野県旧・大日向村(おおひなたむら)
1938(昭和13)年、村を二分して移住する「分村移民」を全国で初めて本格実施し、「満州大日向村」(吉林省)をつくった。http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-26 …

昭和の恐慌から疲弊した農村を救済するために、国は満洲への分村移民政策を進めます。
分村移民とは、村のリストラ計画ののようなもので、黒字農家は国内に残し、赤字経営の農家は満洲へ行って下さい。
そのかわり補助金と、満洲の農地を提供しますと言う政策です。

長野県以外では、和歌山村、紀州村などの県出身者で集落を作った例もあります。
女優の藤原紀香さんの祖父は満洲の和歌山村に入植され、戦後苦労して引き上げてきました。
(昨年、NHKで放送された)

変わったところでは.宗教団体の天理教が、ハルピン近くの辺境の地に「天理村」という入植地を作っています。
匪族や共産ゲリラが出没するため、村全体が城塞都市のような作りになっていました。

日本人入植者は、日本人だけの集団を作り、現地の人たちとの交流が少なかったため、中国語が理解できない人も多く、満人の動向や価値観、生活様式が理解できない状態でした。
関東軍と満州国の安全保障が消滅した後、中国語が聞き取れたり、彼らの考え方を理解できたら、少しは犠牲者の数も減ったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

詳細な情報ありがとうございます。完璧な回答です!大変勉強になりました。

お礼日時:2014/10/04 10:21

満州に住む日本人農民は寒さに耐えうる地域の出身が多かったのはすでに記述されています。

その一方で商売をするために満州に渡った人もいました。私の親戚にも居たのですが、彼らは満州の状況が悪くなると商売が上手く行かないので引き上げていました。聞いた話ですが、親戚は金の延べ棒を複数本も持ち帰ったそうです。それほどに利益があったのです。
土地に最後までしがみついた農民と儲けて早々と引き上げた商人とで大違いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、色々な苦難があったことが偲ばれます。

お礼日時:2014/10/04 10:23

長野県出身者が多かったと思います。


終戦までに開拓農民として満州に渡ったのは全国で約27万人。 うち長野県出身者は義勇軍を含め、約100団/ 37,859人。

開拓団で言えば
トップが長野県、山形、宮城、熊本、福島、岐阜、新潟と続きます。http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/110533aee0f93 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます、こちらのご回答でもよかったかと思いますが、別途追記頂きました方を「ベストアンサー」とさせて頂きました。大変勉強になりました。

お礼日時:2014/10/04 10:24

多数は地方の農民だったそうです


農業開拓が満州の目的の1つでもあったので
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この回答へのお礼

ご回答頂きありがとうございました。別回答の方には商人の存在を示唆するものも頂いております、よろしければご覧頂ければ幸いです。

お礼日時:2014/10/04 10:26

>第二次世界大戦終了前に満州に住んでいた日本人は、


日本のどの地域から移住された方が多かったのでしょうか?<


農家の二男坊三男坊が多いと聞いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。なるほど、長男だけ残されたわけですね。

お礼日時:2014/10/04 10:27

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