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1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。

 2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。

 3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。

 4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。
 
  4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。

  4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。

  4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。

  4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。

  4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?

 5. あらためて 問いはこうです。

  5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?

  5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?

  5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?

  5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?

  5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?

  5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?

 6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?

 7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?

 8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。


 * なおまだ熟さない感があるのですが どうお考えになりますか?

A 回答 (8件)

やっぱり《心の明け》は必要でしょう。



両者は母親と抱かれる幼子の関係なのだから。

双方見つめ合ってこそ通じるんだと思います。

心の眼が閉じられていればヒラメキは受信できないと思います。

自然界の太陽が地球を明るく照らしても、洞窟の中の蝙蝠は外の明るさを知りません。

ブラジュロンヌさんの思いの源泉は「人の持つ意力の方向性」に在ると思います。
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この回答へのお礼

そうですか。いや そうですね。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 ただ。ただ一点。
 ★ ブラジュロンヌさんの思いの源泉は「人の持つ意力の方向性」に在ると思います。
 ☆ なのですが そうなのですが いま抱いている《熟さないヒラメキもどき》によれば
  
 この意力にしても 人間の側のチカラであり問題です。
 これを上回るナゾのチカラがあるのではないか?

 この一点ですね。焦点であり 問題点にしたいのは。

 でも 答えは出ない・・・ですかねぇ。

 だって 幼子は 意識はあるけれど ほかにほとんど何も自分のチカラはない・・・わけでしょ?

 だから その甘えは 人呼んで 聖なる甘え。

 聖なる甘えと言うなら 《意力》はまだはたらいていない。
 むろん潜在しているのだから 刺激を受けてはたらく。

 その母子の関係は 人間の・人間だけの意志や心の範囲内にとどまるものなのか?

お礼日時:2015/11/03 12:09

宗教を奉じることはもちろん信仰ですが、哲学・思想を


人生の規範として信じ、実践することも私は信仰だと思
っています。
人間の自由を抑えつけるか否かが、その高低浅深をはか
る指標であると考えています。

仏教(仏教にも色々ありますが)については、どんなに暴
れても大丈夫という安心感を感じますし、分からないこ
とだらけですけれど、「矛盾」を感じたことがないんで
す。だから私は、信じています。

キリストが大嘘つきで、釈尊がペテン師とは、なるほど
えらいことですね。
仏教を信奉するものとして、釈尊の件はいずれ白黒つけ
なければなりますまい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 ★ 宗教を奉じることはもちろん信仰です
 ☆ これには 真っ向から反対します。

 宗教とは 一般に教祖をいただき教義をもって教団のもとにおこなう集団的な心的運動です。
 教典だけのことをも指すかも知れませんが 一般にその思惟と行動は オシへの問題です。
 つまりは 経験的な広義の思想の問題です。
 つまり 個人の内面における・思考を超えたところのナゾについて心に受け容れるという信仰とは まったく別です。

 極端な例をあげて説明するなら 宗教組織の一員としてそのオシへを守り教団の運動をみなと協調しておこなっていると同時に その人の内面においてはまったく別の信仰を持っているということは ありえます。

 ★ 哲学・思想を人生の規範として信じ
 ☆ ですから 広く思想を《無条件に心に受け容れる――これが 信じるです――》ということは あり得ません。それは《考える》ものです。

 信仰をもって それにもとづき得た思想を実践するということはあります。 
 要するに オシへを信じるということは あり得ません。精神錯乱です。

 ゴータマ批判については 軽いところで 次をよろしかったらどうぞ。
 【Q:美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》】
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8539819.html&isShow …

お礼日時:2015/11/05 21:53

お礼ありがとうございます。



仏教哲学の「生命論」は人類の偉大な発見だと思います。
そして、私にとって、限りないイマジネーションを与えて
くれる存在です。
尤も、私が知っていることは、ほんのちびっとで、ブラジ
ュさんの方がずっとよくご存じだと思います。

「色心不二論」がおもしろいです。これは、単なる私の我
見にすぎないかもしれませんが、私の理解は次のようにな
ります。


仏教哲学の中で、存在を「生命」と捉える考え方があります。
生命には色(物質)と心(精神)も二つの面があって、この二つ
は合一のものである、と。

これは人間だけでなく、動物も、草木、石や岩、あるいは
細胞、原子、素粒子に至るまで同じである、と。

動物の心が分かる、ムツゴロウさんみたいな人がいますし、
森の心を感じ取る詩人がいますし、木や石で作った像に何ら
かの心が宿る、ということはあると思います。

つまり、物質のある所に、必ず心(精神)が存在するというこ
とです。
人間の脳と、一粒の素粒子とでは複雑さが違いますから、単
純なものほど、単純な心であろうとは思いますが、あると思
うのです。


私が「思い」といったのは、この「心」のすべてのことです。
すべての「心」が「空間」(なのかなあ?)に均質化して溶け込
んでいる、ということだと考えています。
その、無限ともいえる情報の中から、好みの女に目が行くのと
同じで、光より速く、コンピュータより速く検索し、「感応」
する。求める心が強いほど、速度も速まるのでしょう。

こんなん書いてみましたけど‥‥
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 《生命》というときには むつかしいように感じます。わたしは よく練れていません。
 
 ひとつに 大きくすでに《非知なる非経験の場》にあてる。つまりは 神として霊として。
 ひとつに 生物を成り立たせるチカラである。非生物は 別であるとなるのかも知れない。

 したがって 色心不二を 生命論として捉えた場合にも わたしは しっかりとした内容をつかみ切れていません。

 むしろそれは 《空(シューニャター)》論として捉えます。

 つまり単純に:

   色即是空 心(受想行識)即是空
   空即是色 空即是心(受想行識)

   ゆえに 色心不二 なりと。

 つまりは 身(感性の原野)も心(思考の緑野)も 仮りにモノが集まって出来ている〔生命的〕現象であると。
 仮りの現象であるが 仮りの現象としては 現実である。



 ★ つまり、物質のある所に、必ず心(精神)が存在するということです。
 ☆ これについて わたしの持った反応としては 非生物にかんしては その物質じたいに心があるのか。
 それとも その物質を人間が認識するときに 心が・心も 現象しているとわれわれ人間が見るということなのか。
 です。

 つまりは そういった非生物だけでなく生物についても その対象に《感応》する(もしくは 感応し合う)ということだろうか。
 と思いました。

 いやぁ むつかしいです。ブディズムについては いちど途中で全部を勉強するという方針を捨てましたし(その後は むしろこの質疑応答の場でまなんでいます) その結論のようなものは 《ゴータマ・ブッダは ペテン師である》ですから これまた 大変なことになっています。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如

お礼日時:2015/11/04 23:50

>5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?



結局は自由意志とはなんだという話になると思います
というのもbragelloneさんはヒラメキと自由意志が別々なものだと前提してますが
その前提が間違っている可能性もある
この間違ってる可能性はbragelloneさんが持ち出した決定力という考え方から生まれます
ヒラメキも自由意志も決定力を持つならばこの両者を分けるものはなんでしょうか?
ヒラメキはおのれに分からないところからやって来るのだとすれば、自由意志はどこから?
もしもヒラメキも自由意志も同じものであるとすればどちらが強いということは言えません

また決定力という見方で客観的に人を見ると、その人の中で決定力を持つものこそその人の意志であると言えます
なぜなら私はこういう選択をしてますが、それは私の自由意志による選択ではなく私の中にある自由意志とは別の決定力を
持つものによって選択されたものなので私の選択ではないです
とは言えない
だってあなたの中にある決定力でなされた選択なのだから、その選択をしたのはあなたであるはずだ
なのでヒラメキと自由意志が仮に分かれていたとしても客観的に見ればそれはあまり意味をなさない
総合してあなたの選択でしょって話になると思うんです

ただ主観的に自己の内面をヒラメキと自由意志が別々であるという考えで見てみると
私にとっての意志とは自由意志のことです
その意志とはべつのヒラメキという意志よりも強い力を持つものが存在することになります
ということは私の頭の中には私とは別の意志が存在していると言えることになります
ヒラメキと自由意志のどちらが強いかという議論の以前に、私の肉体を動かし物事を選択しているのは
私だけではなく、私とは別の何かが存在しているという推論が導けます

だとすればそれは何か?
ヒラメキが自由意志と同様に決定力を持つならばそれを示せなければならないでしょう
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 19. ★ bragelloneさんはヒラメキと自由意志が別々なものだと前提してますが
 ☆ ええ。そうですね。
 
 20. ★ ヒラメキはおのれに分からないところからやって来るのだとすれば、自由意志はどこから?
 ☆ ううーん。ええっとですね。

 21. すでに75歳のとき 故郷を去って とにかく行けというヒラメキを得た。この内容をおのれの意志はどう判断するか? こういう問題を考えることになるはずです。

 22. つまり自由意志は その意志の知る範囲内で 判断をする。このことが はっきりしており 確かなことなわけです。かつてこの地を去って行こうかなぁと考えたとしてもそれは ヒラメキが言う《行け》とは別なわけです。

 23. 言いかえると ヒラメキには 自分が意識する範囲においては 《決定力》がない。それは 意志の持つチカラしかない。

 24. すなわち:
 ★ 私はこういう選択をしてますが、それは私の自由意志による選択ではなく私の中にある自由意志とは別の決定力を持つものによって選択されたものなので私の選択ではないです とは言えない。

 25. しかも仮りにもし 自分では決定力はないと思っているヒラメキが:
 ★ 〔ヒラメキが〕自由意志と同様に決定力を持つならば それを示せなければならないでしょう 
 ☆ そのとおりですね。

 26. ただわたしは 次のようなかたちの議論には成らないとは思っています。:
 ★ ヒラメキと自由意志のどちらが強いかという議論の以前に、私の肉体を動かし物事を選択しているのは私だけではなく、私とは別の何かが存在しているという推論が導けます
 ☆ なぜなら そうではなく 思惟をはこびからだを動かすのは あくまでわが自由意志であり それのみです。

 27. ということは 仮りにヒラメキにも意識され得ない決定力のようなものがあるとしたとき そうだとしても そのヒラメキがそのまま判断をくだすとは見ていません。ヒラメキは わが自由意志のハタラキを ヒラメキ自身の示す内容へとみちびくと見るわけです。

 28. でも これは このようだとすれば 答えは出ないですかねぇということになります。検証しがたいからです。ただし 赤子が母親に示す態度は むしろヒラメキの問題に近いかなとも思ったわけです。

お礼日時:2015/11/03 22:26

ヒラメキは偶然のスパークだと思います。



その偶然は
決定論的ではあるが
ブロードな精神の情報処理能力からすると
偶然としか認識できない
マクロのレベルの物質世界の無数といってもいい
選択肢の存在に由来するのだと思います。

無数の偶然の無意味なスパークの中から
たまたま意味のある普遍的な結果に結びつくきっかけをつかんだ時に
それをひらめいたというのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 (あ)★ ヒラメキは偶然のスパークだと思います。
 (い)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   その偶然は
   決定論的ではあるが
   ブロードな精神の情報処理能力からすると
   偶然としか認識できない
   マクロのレベルの物質世界の無数といってもいい
   選択肢の存在に由来するのだと思います。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 詳しくないわたしが言うのですが 《選択肢の無数の存在》があれば それらについての組み合わせとして 確率の問題になるのか。
 あるいは 何らかの――情報処理能力が追いつかないだけで実際には――必然性があって起こるのか。

 いや よく分かりません。
 ★ 決定論的ではあるが
 ☆ という点では 理論的には予測がおこなえる? 
 いや よく分かりません。

 次の《意味との結びつき》については 分かるような気がします。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 無数の偶然の無意味なスパークの中から
 たまたま意味のある普遍的な結果に結びつくきっかけをつかんだ時に
 それをひらめいたというのだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あくまで具体的なひとの主観として意味のある出来事として起きるのであるだろうと。

 さらになお みなさんからの投稿をも待ってみます。

お礼日時:2015/11/03 17:25

この質問を読んで、ヒラメイタことを述べてみます。



私はこの世は、あらゆる生命の「思い」というものが飛び交
っているものだと考えています。電波のように。
その無数の情報を、瞬時に判断をして「応じる」ーー
これがヒラメキだと思います。

人と人の出会い、いや、仕事、趣味、宗教、思想等あらゆる
ものとの出会いが、この原理に当てはまるのではないかと思
うのです。自分の中にあるものとの「感応」ということなろ
うかと。

落雷するときには、地面からも稲妻が出るといいますが、そ
れと同様に、応じるところに、電波が飛んでゆく‥‥

「応じる」のですから、その時点でその人の「自由意志」で
あって、その後否定に至ることもあり得ますが、その瞬間は
受け容れているはずだと思います。

ブラジュさんの直近の質問に三つほど応じませんでしたが、
四つ目にヒラメイタのです。
私なりの答えと、「非思考の庭」が分かるかもしれない、と。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 《真空》は 何もないのではなく 電子だか粒子だかが詰まっているとか言います。

 けっきょく 《場》があって この場がすでにモノでありコトでもある。
 場が 部分的に揺らめきを起こし モノになったりその運動をつづけたり。

 電磁相互作用は マクロの世界にも現われるのだとか。

 そのユラギは 霊ではありませんが 霊は そういったモノ・コトをとおして伝わることがあるのかも知れない。(いや ご承知のように自然科学でわたしの言うことは 分かりませんが)。

 もしたとえモノやコトを受け留めて何かヒラメキを得たとした場合にも その意味というものは モノゴトとは別だと思われます。
 ひとの心ないし意志にかかわって 意味が生まれる。捉えられる。


 ★ あらゆる生命の「思い」というものが飛び交っている
 ☆ という見方をする場合というのは 基本として全体的にその生命ないし特には人間存在にとっての意味を言っているのでしょう。《生きる よく生きる ともに生きる》といった《思い》なのでしょう。

 わたしが上で言ったことは 生活の中でいろんな問題を扱うときにその具体的な解決へ向けての考えを あたかも飛び交うモノの刺激を受け留めて 意味を持つヒラメキとして受け容れる。そういう場合を言いました。


 ★ 落雷するときには、地面からも稲妻が出るといいますが
 ☆ へええ。そうなのですか。

お礼日時:2015/11/03 16:35

《聖なる甘え》に付いてはまた別の機会に意見が述べられるようなっていればと、思います。



今回の私の感想はここまでにしておいた方が賢明でしょうから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 分かりました。承りました。

 では そのときに。

お礼日時:2015/11/03 12:31

よく霊感と云いますが、その霊感が有るとか無いとか、強いとか弱いとか、云って受信できない人もいる様で・・・


もしかすると、ヒラメキ電波?(霊電?)は空気のように飛び交っているのかも知れません。

大きな大きな受信機があれば、その電波を洩らすことなく受信してうるさくてしょうがないかもしれません。
でも幸い普通人の受信機は凡ようだから、感じないんでしょう。

その電波をキャッチしてヒラメキとかんじたその"受信"は経験?意志?思考?。
受信した時点で"ヒラメキ"と判断してるんですよね。判断したと云うのは、判断できた、とも解釈できますね。
判断したとなれば、それはもう思考の働きと云えそうですし、判断してしまっている、そう受け止めてしまっている、と云う反応であれば"非思考"の持つ働きと云えるかと思います。

ヒラメキなるものを喩えてみます。

さざ波の立つ湖水の水面に小石を投げ入れても石の波紋は定かには表れないでしょうが、明鏡止水と云った心境の時に小さな小さな砂粒が一つその心に飛び込んできたなら、きっとその波紋にびっくりすることでしょう。

ヒラメキを受信するためにはその機能が働く時に限ると思います。

こう考えてくると、限りなく邪念のない心境の時に"ヒラメキ"はヒラメキとして受け止める事が出来るのだと思います

よく学者が研究の成果を上げる切っ掛けにインスピレーションの有った事を云いますが、そんな時は得てして何も考えないでリラックスして居る時だったようです。

後がまだ続かないのでこのままで・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 9. まづここで(1)として ヒラメキを霊感に限ったというのは あくまでその人の主観の内における神との関係の問題のことです。

 10. ★ その電波をキャッチしてヒラメキとかんじたその"受信"は経験?意志?思考?。・・・
 ☆ ここんところを わたしの言い方でも述べてみます。

 11. まづ 《受信》としての経験です。
 《わが心なる非思考の庭》がアドレスであって ヒラメキはあたかも神から送られるメールのごとくやって来ます。

 12. 受信した内容を とうぜん読み 《思考》します。
 思考の結果 その《読み〔としての判断〕》を 意志において決定しますし 必要なら行動にも――やはり意志行為として――移します。
 ――でしょうか。(エエカッコウシーですので)。



 13. ★ さざ波の立つ湖水の水面に小石を投げ入れても石の波紋は定かには表れないでしょうが、明鏡止水と云った心境の時に小さな小さな砂粒が一つその心に飛び込んできたなら、きっとその波紋にびっくりすることでしょう。
 ☆ なるほど。アドレスはあっても 雑音でメールの声が聞こえない。場合がある。ですか。言い得て妙ですね。

 14. いや ここでもイヂワルをすれば いやいや非知なるナゾの何ものかは さざ波も嵐やツナミをも何するものかそれらを突き破って 愛するわが子にはメールを受け取れるように送ってくる。かも知れない。
 
 15. つまり
 ★ こう考えてくると、限りなく邪念のない心境の時に"ヒラメキ"はヒラメキとして受け止める事が出来るのだと思います
 ☆ というのが 通常の捉え方でしょうね。なるほど。
 
 16. そして 明鏡止水うんぬんからも自由な――《上級》の(へっへっ!)――場合には 《邪念》をも突き抜けてヒラメキをあたえてくれるかも知れない。


 17. つまり問いの焦点はそういったように ヒラメキのちからは 受け取るちからも あっち側から来ている。のではないか? にあります。

 18. 人間たるこっち側の状態や条件にかかわりなく メールは来る。のではないか? ――《心の明け》が必要なのかなぁ。

お礼日時:2015/11/03 10:53

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