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1. ひとつの見方でしょうが すでに《無意識》という領域については 批判が
終わってもいるようです。
 
▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F …
§ 5 広義の無意識

フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在
は、結果的に実証されないものであることが判明したが、

20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与え
たことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. とにもかくにもこのムイシキという概念は ひじょうに厄介な分析道具であると
考えられます。脳細胞の中に独立した《無意識》という領域を設定したというのは い
わゆるトラウマが――つまりそのような心の傷が果たしてほんとうにあるのかどうかさ
え疑わしいと思っていますが それが――自分の努力によってはついぞ癒えないといっ
たかたちになります。ムイシキさまの虫の居所によってなおる場合もあるとなっていま
す。


3. 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外に
ある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと
考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。その過去の秘密や
瑕のようなものも わたしの人格の一部だと受け留めればよい。それが 人格だ。

4. なぜなら 意識していず意識の先を越して――ということは 意志による判断を
通さずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為
であると見なせばよいわけです。

5. これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思
ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分か
らないチカラがあるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているは
ずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の
・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ているはずです。
(ワタシを超えたところのハタラキは ヒラメキです)。


6. すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが
引き受けることになるのは 自然でふつうです。意志行為は精神の中軸ですが 《わた
し》がむろん存在の全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与し
ていなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしていま
す。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為
として引き受け これにそれとして責任を持ちます。

7. すなわちエスやリビドーというムイシキのほかにもそれを抑制するという超自我
やあるいはそれら両者を取り持つという自我を設定し これらのパーツを取り出して人
の思いや行ないについてそのパーツのハタラキだと言いそれらの所為にする。ここに間
違いがあると考えられるのではないでしょうか。


8. わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上
げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 

9. 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》の
中で単独分立していると設定したときから もうひとりのわたしといった観念が生まれ
その横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかの
ような扱いを受けてしまいました。
無意識を持ち出すのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされまし
た。

10. 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体と
しての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべ
きです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢それぞれの内
容をそのときの判断において把握すればよいわけですから―― 要らないと見られます。
区分が要らないということは それらが独立したハタラキではないとなるはずです。

11. 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因
やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総
合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。


12. いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみで
はないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。
 
13. 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語
は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたしが》のことです。《これこ
れが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言
いません。言えません。そういう分裂が成り立つかのようにわざわざそういう別の性質
のハタラキとして 日本語ではワタシやオノレのほかに《自我》という概念をつくって
しまった。

14. なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 
学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありません
か?

15. 《自我》とは 《わたし》の・そしてその意志行為などの一部分をわざわざ取り
出したものである。しかもそうだとすれば 要らない。
《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は
《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのではないでしょうか? みな《わたし》の欲
動や思惟や判断です。

質問者からの補足コメント

  • №2です。

    ★ 「エス」、「自我」、「超自我」の機能が、精神活動の連続的動作の
    一部として仮定できる
    ☆ という側面も 仮説に入っていましたか? 

    でも《精神活動》は思惟や判断の《自我》のみでしょう。
    超自我も それが意識されたならその思惟の内容が 自我の中におさまり
    ます。

    むろんそれら三つの動きは 《わたし》の知解行為が取り扱います。 
    そのハタラキをわざわざ《自我》と言うのは エスと超自我とを取り持つ
    からだと言うのでしょう。

    けれども エスなる感情的な動きも そして良心のハタラキ〔を受け留め
    るの〕も 《わたし》でありその知解および意志の行為です。

    ワタシが それら三つの領域やウゴキに分割されているというものではあ
    り得ません。つねに 人格・実存として総合的であり ワタシはワタシの
    全体として生き動き存在しています。


    ★ 観察主義の場合
    ☆ は除外しましょう。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/20 18:21
  • この№5のお礼欄は ユングの精神分析として説明していただいた内容を
    別の観点からも――つまり ふつうに《心の探究》といった作業において
    も――出来るのではないかと 実証しようとしたものです。


    ご回答№2の《観察主義》について もう少しおしえていただけないでし
    ょうか?

    わたしの見方は すでに極端です。:
    ★★(№2) 精神機能について、・・・一人称を排除して、あくまで観
    察対象として説明する
    ☆ というのは いわゆる実存として生きていないことになると見るので
    すが どうなのでしょう? 哲学として道半ばに終わってしまうのではな
    いかと。《現実》に迫っていないと。

    ★★ 哲学的ゾンビ
    ☆ というのは あくまで《思考実験》としておこなうに過ぎないのでは?

    あと りゅぱん344さんは 要するに《無意識》説についてどうお考えな
    んでしょう?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 06:13
  • うーん・・・

    りゅぱん344さん。けっきょく《観測主義》なる哲学態度が問題なので
    すね。

    いまごろ気づいたのですが 《自我》を持ち出して議論をするかぎりで
    それは ただただ自称(一人称)つまりワレを置き去りにしてしまってい
    るのではないか?

    《超自我》も 良心一般では じつはなくて ワレの良心であり わが精
    神が良心から享けてそのハタラキを発揮しているものです。

    《エス》が いかにその欲動としてゲスの極みを尽くしていたとしてもそ
    れはほかでもないワレの自然本性もしくはそのユガミから出ているものの
    ほかではない。

    この実存する姿勢が 欠落している。のではないでしょうか? 

    ですから 《無意識》だって もしそれがそうだとしてもぜんぶ丸ごとワタ
    シの身と心とにおさまっているはずであり ワタシが引き受けるものです。

    手に負えなければ お手上げですと言えばよい。わたしがわたしであればよ
    い。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/21 09:44
  • №3への補足で 用語を間違えました。

    x 観測主義
    ○ 観察主義

    でした。

      補足日時:2016/03/21 09:56

A 回答 (9件)

お礼ありがとうございます。


日本の神々については、普遍神の現れと考える方法と、素直に神産みで生まれたと解釈する方法があると思います。
ユダヤ同祖論者などは、普遍神の現れと解釈して、ユダヤ教と日本神道は同祖であると説明する場合もあります。(これ自体は、時代考証的に難しい問題があるので、俗説と言ってかまわないと思います)
山間部と臨海部で違う神を信仰する事は、充分有りうるわけですから、本質的に別の神格が存在している事も否定出来ないと思います。
中央集権的な国家形成の過程で、それらが普遍神として統合された可能性は充分あるでしょう。
日本の場合は、山間信仰は、そこに神が存在するとも言えますが、海洋信仰の場合は来迎神です。(鳥居などは、神の通り道なわけです)
御神体自体は、基本的に依り代ですね。
神社についても、仏教伝来以後に建立されたと言われていますから、本質的には日本の神々は居場所を定めていなかった可能性はあります。(そういう意味では、全て来迎神とも言えます)
日本神道に関しては、明治以後に、社格の整理・統合が行われているので、由緒ある神社以外は、先史時代の形態を探るのは困難です。
信仰自体は、どの神を信じようと、同じと言う事は言えると思います。
親鸞に関しては、その信仰心はかなりの物と言えます。
法然の他力本願に関しては、たとえそれで本願出来なくても、かまわないとまで言っています。
そこまで強い信仰心であれば、念仏した瞬間にすでに、信仰自体が完成していたと言えるでしょう。(もはや疑うと言う雑念は無いわけです)
法然自身は、完全他力の立場は取っていません。(念仏するのは自力と考えています)
親鸞は、念仏する気持ち自体が阿弥陀仏のはからいなわけですから、もはや全てが阿弥陀仏のはからいになってしまいます。(これは、阿弥陀仏との関連として、はからいと表現していますが、親鸞の信仰は完成しているので、すでにはからいは無くなっています)
「義無きを義とする」は、いろいろ解釈が可能ですが、意味としては念仏せざるを得ない、もしくは念仏してしまうと言う境地を意味しているんでしょう。(法然も実践としては同じで、念仏出来るかぎり念仏してしまうわけですから、その信仰心は強固なものでしょう)
「不可称・不可説・不可思議のゆゑに」は、親鸞にとっては付け加えなんだと思います。
親鸞自体は、絶対的な信仰で念仏してしまうわけですから、理屈は不要だったわけでしょう。
他者に説明するとしたら、それは「不可称」→言葉で表現出来ない、「不可説」→説明が出来ない、「不可思議」→理屈がつかないという事だったと言えます。
その境地を、「非知」もしくは「不可知」と呼ぶことも可能でしょう。
親鸞自身にとっては、「不可知」もしくは、逆説的な「既知」(阿弥陀仏で本願出来る事は既知なわけです)かもしれません。
さすがに、私は、そこまでの信仰心を持てるようにはなれないでしょう。
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この回答へのお礼

肝心なところを外さずに お応えしてまいります。ご回答をありが
とうございます。

★ さすがに、私は、そこまでの信仰心を持てるようにはなれない
でしょう。
☆ つまり 信仰は 向こうから(アミターバ・ブッダのほうから)
やって来ます。

やって来たものをこちらは受け取る。のみです。領収証を発行する
のみです。

信仰心を強めるとか固めるといったことでもなく アミターバ・ブ
ッダという名をわが心に受け容れた・・・それだけでやはりわが心
に《非思考の庭》が成ります。それだけのことだと思います。

こちらに・つまり人間の側には 何のおこないもハカラヒもありま
せん。受け容れるというのが ただひとつおこなう意志行為です。
しかも あちらからやって来なければ受け容れられません。そうい
うものだと思います。



親鸞は 師匠の法然やあるいは一般論としてはゴータマに遠慮して
います。だから おっしゃるように本人の心としては すでにブデ
ィズムを突き抜けて やはり普遍神とわれとの関係というきわめて
シンプルなかたちの信仰に到っていたと捉えます。



神々が必ずしも同質ではないのではないか?
ナラハシは 山の民と海の民とでは違って来ているでしょうね。
でも けっきょく《やまつみ と わたつみ》ですからね。ワタは
海で ミは 霊ですね。

たま・たましひ のほかには ち・ひ・み が霊ですね。

いか(厳)づ(ノ)ち(霊):雷
かぐ(光・閃光)つ(ノ)ち(霊):かぐつち(火の神)

へ(竈)つ(ノ)ひ(霊):へっつひ(竈の神)
むす(生す)ひ(霊):むすひ(神産みの系統ですね)

ですから 系統やその文化(ナラハシ)が違うかも知れませんが
基本的に神々は 互いに通じているのではないでしょうか。

ヤマトタケルは アヅマに来て海神にも・そして伊吹山で山神に
も会っています。それぞれの神に相い対するに 特に違った接し
方や感覚はないように思えます。

お礼日時:2016/03/21 21:53

お礼ありがとうございます。


私が「良心」と記載したのは、普遍的なものでは無く、所謂「矜持」などのもっと低次なものです。
人間としての姿勢とでも言うべき物で、「心」の中の存在です。
あくまで、自らが持つ「良心」だけに限定されるものです。(他から与えられる物ではありません)
もっと普遍的な「良心」は、人間の認識を超えたレベルに存在しうるとは思います。
それが、「非思考の庭」と呼ばれる部分にあるのはかまわないと思いますよ。
「非知」なる存在はあるわけですから、そこに何かが存在する可能性は否定されません。
究極的には、それが「善」と呼ばれる物である可能性はあるでしょう。
実際問題、低次な「良心」であっても、それがある以上はどこからかやってきたとも言えます。(自然に発生する可能性も否定は出来ないですけどね)
語りえない事は、文字通り「非知」も含みます。(人間が認識出来ない事はすべて含みます)
何故ならば、「非知」は、理性によらない選択でしかないからです。
「不可知」は、存在自体は語れると言う事です。
例:キリスト教徒にとって「神」は存在するが、その全てを認識する事は、「不可知」である。
私にとっては、「神」は「非知」ですが、キリスト教徒にとって「神」は「不可知」です。(これは、論理的に両立します)
キリスト教徒は、「神」の存在(あくまで存在のみで、その全貌ではありません)は語りえますが、私は「神」を語りえません。
実を言うと、人間が「神」を求めたと言うのと、人間が「神」を作ったと言うのは、同じ事を意味しません。
何故ならば、「神」に絶対性を求めた瞬間に、「神」は一人歩きをはじめるからです。
絶対的存在が持つべき特性を、人間が「神」に求めてしまうからです。
アブラハムの宗教でも、ユダヤ教以前、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で「神」のイメージが違っているのは、その為です。
宗教として、発展していく過程で、「神」はどんどん理想化されていくと考えられます。
ユダヤ教ではラビが、キリスト教では、法王などの聖職者が、イスラム教ではウラマーなどの指導者が、「神」の言葉を厳密に解釈していくわけです。
一神教の絶対神である「神」は、矛盾を持ってはいけませんから、勝手な解釈をしたら、すぐに批判される可能性があります。
そういう意味では、時代によっての違いは出てきても、それぞれの宗教での本質的な「神」のイメージはそれほど変化しない事になります。
ただし、解釈が違えば、同一宗教でも宗派が分かれる事になります。
当然、「神」が人間を似姿として作ったというのは、宗教的論理の整合性を取るための喩えと言えます。
日本のように、人間の創造神話を持たない国(何故か、神産みと国造りの神話しかありません)の場合は、人間は勝手に発生した事になってしまうので、神との関係性が微妙なわけですが、基本的には自然信仰の多神教なので、神は自然現象に作用するだけで、個々の人間に何かを求める存在では無いと言う事でしょう。(大乗仏教伝来後は、輪廻思想などがそこに加わったと言う事です)
カントのように、「神」を「非知」と捉えて、人間が「善」なる存在となるように条件付けられるのならば、それを保証する存在として、「魂」の永遠と「神」の存在が要請されると言う発想などは、トリッキーではありますが、そのような方法でしか、「神」が定義出来ないと言う事ではあります。(これは、結論から前提を生み出しているので、詭弁だと言う批判も受けています)
どちらにしろ、「理性」では理解出来ない事項であるのは確かでしょう。
精神構造自体も、「私」がその全体を把握出来ないのであれば、それは「不可知」もしくは、「非知」と言えます。
これは、非常に内面的な問題なので、その分析は容易では無いと言えます。
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この回答へのお礼

りゅぱんさん ずいぶん踏み込んでもらっていますね。
まづは ご回答をありがとうございます。

今回は ズラシたお応えです。
二点持ち出します。


○ シントウの神学と世界観

 (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~

 モノ(物)―――もの(者)―――――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓        ↓            ↓
 自然・社会・・・・ひと・・・・・・・・・・・かみ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

○ ヒトコトヌシの神が 神でありつつ現実の姿になったところを 
雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりですが
そのとき神は こう名乗ったという。

  《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
   言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》
                        (古事記)

ワカタケルは まさか神がうつつ(現)の姿に成るとは知らなかったと
言っています。

○ ですから やほよろづの神々は 普遍神の分身です。ほんとうには 
神の本体ではなくその依り代であり 神なる正解ではなくその補助線で
あるというのが 神学の前提です。
オホモノヌシの神は 実際上は 蛇ですし。



▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~
1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはから
ひなきを申し候ふなり。

2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく 
とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候
はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべか
らず候ふなり。

3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。

4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可
説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。
~~~~~~~~~~

☆ 《絶対》については 《真理 あるいは 至高の善》と言ってもよ
いと思いますが 説明としてやはり《善悪の彼岸 あるいは 義・不義
を超えたところ》というのも 適切ではないかと思います。

人間の価値観は 相対的なものだからだと思います。
《義無き。ハカラヒ無き》・・・。

お礼日時:2016/03/21 18:16

お礼ありがとうございます。


ご指摘いただいたように、哲学もしくは思想の中の共通的な原理を俯瞰する立場でありたいと思っているのは確かです。
ただ、そのフィールドはあまりにも広すぎます、したがってそれが理解できるかどうかはわからないですね。
フロイト・ユングに関しても、集中して考察していたのは、35年以上前の話で、その理解も充分だったとは言えないでしょう。
「元型論」に関しては、神話的構造などには、興味を持っていたので、かなり神話系は読んではいました。
やはり、科学的な探究を原則にしていたので、客観性を重視しているのは確かです。
そういう意味では、観察主義的な発想は多いと思います。
哲学的に考えるにしても、やはり理性などの客観を元に思考する事が多いでしょう。
科学自体が、客観だけで成り立っているわけでは無いですが、手法としては客観的に観測事実を分析する事になります。
ただし、科学者自身は、個人の主観によるバイアスは常に持っているはずです。
ギリシャ哲学なども、本来は「神」などの、絶対存在から離れた、純粋な思索実体である理性を元に「真理」に到達する事を目的としていたと思います。(表現としては、「理性」を「神」に置き換えた場合もあるでしょう)
スコラ哲学などは、「絶対神」の視点をよりどころに、「真理」や人間を理解しようとした行動だったと思います。
近代では、より科学的、論理的な方法で、人間や世界を認識する手法が取られてきたと言う事だと思います。
この段階で、人間の解明は、哲学の手を離れて、別の科学へと分化していったと言う事なのでしょう。
この事によって、哲学的命題としての、人間の捉え方の手法が変化しているのが現状だと言えます。
個人的直観で言えば、「哲学」そのものが、人間の本質なのではないかと思います。
「哲学」の遺産は、人類が作り出した、思考の産物であり、それが人間の思考方法を指し示しているとも言えるからです。
「時間」の概念にしても、それを人間の認識から思考すれば、何故「時間」があるかと言えば、人間が認識するからとも言えます。
では、何故、人間が認識するかと言えば、物理現象がそのような過程で変化していくからと言う事に他なりません。
因果律にしても、人間が現象を因果関係で認識して、はじめて生じる事です。
同様に、何故認識出来るかと言えば、物理現象が因果律(原因→結果)で変化するからでしょう。
これは、トートロジーになりえますが、人間の認識が外界の現象をきちんと反映していると考えれば、それは「真理」と言えます。
極論すれば、それは「人間原理」的な思想になりえますが、人間が環境に適応して変化していく存在であれば、それはきちんと外界を認識し、それに適応した思考方法を取ると考えられます。
人間の思考が因果関係(一般的な論理構造は因果関係を元にしています)を元にするとすれば、それは外界の現象を「心」に投影して、学習した結果と言えるでしょう。
哲学的には、思索によりきちんと検証しないと、言説としては発表できません。(過去の哲学者は、独自の検証により、それを言説してきたわけです)
「神」などの概念も、それが存在するかどうかより、人間が何故「神」を必要とするのかというアプローチもあります。
また、「神」を擬人化する過程についても、思索する事は可能でしょう。
一つの考えとしては、「神」が人間に作用するのであれば、それは「言語」によると言えます。
ならば、必然的に、「神」は言葉を話さなければならないわけです。
直接、「思考」を伝えると言う発想もありますが、人間はそれを言葉として認識しますから、結果的には同じ事です。
ここで、擬人化がすでに行われているわけです。
一神教の場合は、ここで発想を転換して、「神」が自分に似せて人間を作ったと説明します。
つまり、「神」は言葉を話せるわけです。(擬人化から、人間が神の似姿という風に、発想を変えます)
原始宗教の場合は、「神」の擬人化は不要ですが、「神」が祈りを受け入れる為には、人間の言葉を理解しなければいけません。
一神教が分離して、多神教になったか、多神教が統合されて一神教になったかは、結論は出ていませんが、そこに「信仰」と言う形態が存在する以上、区別する必要は無いとは言えます。(区別するのは、それぞれの「宗教」でしょう)
信仰が何かを信じて、それを拠り所にする事に変わりはないわけです。
哲学的であるためには、それが直観から誘発されても、きちんと検証すべきと言うのが、私の発想です。
検証しきれるかどうかは、保証されませんが、それが一定の境界を明らかに出来るのであれば、哲学としては正しい思索と言えると思います。
重要なのは、まずは思索すると言う事と、語りえない事は語らないと言う事でしょう。(それが、いわゆる「良心」なのではないでしょうか?)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

自然科学の世界認識を基礎として 検証しうべき世界観を地道に
洗練した理論において哲学する――となりましょうか。
語の意味そのものにおいてオーソドックスなんですね。


ちょっと議論を端折り過ぎかとも思いますが 煮詰まって来たお
話としては わたしの側からは 次の存在観を持ち出します。

◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~

 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
 どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
 ないしはこれを 我慢できないであろうが 
 この矛盾を持ちこたえることができるのが 
 人格(* ――もしくは《わが固有時》――)の高さである。
  (法の哲学 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
 ~~~~~~~

☆ 《無限(非思考の庭) ‐ 有限(思考および感性の経験世界)》
なる構造として 人ないしわが存在は成り立っていると。

★ 重要なのは、まずは思索すると言う事と、語りえない事は語
らないと言う事でしょう。(それが、いわゆる「良心」なのでは
ないでしょうか?)
☆ 《良心》は――そしてヒラメキなども―― 有限の世界を超
えたところの問題であると見るわけです。

人間が良心を知ってこれに従う(もしくは さらかう)という人
間史観には 人間は限られないのではないか。

良心が 人間を見ている。人間は 良心の関数である。
こういう――想定としての・まぼろしの――大前提を持ちます。

言いかえると 《語り得ないこと(⇒ 不可知?)》というより
は 《語り得るか語り得ないかが 人間には知り得ないナゾ》を
良心のみなもととしてのごとく 想定しています。つまり普遍神
です。

ここまで・つまり問題提起として お伝えしてもよいと思いまし
た。
あとは ツッコミがありましたら さらに問い求めて行きたいと
思います。

人間が神をつくったのなら その人間の知性が神をあやつれるは
ずです。
神が人間をつくったというのは タトヘだと見ます。無限が有限
に先行するという想定事項を 文学的に表現したものだと。

今回のご議論は 結局こういったお話に帰着するものと考えまし
た。

★ 個人的直観で言えば、「哲学」そのものが、人間の本質なの
ではないかと思います。
☆ プラス α です。

お礼日時:2016/03/21 15:41

補足ありがとうございます。


フロイトとユングに関しては、精神分析もしくは、分析心理学の研究者なので、哲学的に精神構造を解明しようとしていたわけではないです。(ユングに関しては、当初は哲学的に分析しようとした事もあったようです)
哲学の場合は、人間の本質の探究が主流であり、内省的に精神の本質を解明し、その外延との境界として、他我もしくは、外界を認識する手法が多いと思います。
この場合は、「私」又は「自我」の境界もしくは、存在が重要になる場合が多いでしょう。
別の方法として、「私」が「他者」を「他我」として認識する手法から、人間の本質を解明しようとする立場も取れるわけです。
この場合は、哲学者によっては、一人称を排除して、徹底的に客観的対象として、理論構成する場合があります。
この場合は、「他我」を反転して、「自我」を解明する事になります。
このような研究手法は、科学が対象を観察するのと同じになるので、対象を一種のブラックボックス(入力と出力のみしか判断できない存在)と見なして、その内部構造を推定する事になります。
フロイトとユングは、臨床精神分析研究者なわけですから、自ずと客観的に対象を観察する事で研究を行ったわけです。
ユングは、自身の体験も踏まえて、精神構造の分析を行いました。
フロイトの場合は、主に対象の観察により、精神構造の分析を行いました。
その違いが、「無意識」の解釈の違いになったようです。
ユングの場合は、現在、統合失調症と呼ばれる精神疾患の患者を主な研究対象にしていました。
つまり、元々精神の統合が不完全な対象を研究対象にしていたわけです。
この場合は、外部から観察した場合は、あたかも複数の人格が一人の人間に存在しているように見えてしまうわけです。(正確には、反応が毎回変わってしまい、統一性が無くなっている状態です)
オカルト的に考えれば、悪霊が憑いたなどと考えられるわけですが、ユングの場合は、発現する「自我」がサーチライトで照らされるような精神構造の一部分であると考えて、この矛盾を解決しました。(同一の人間でも、発現する「自我」が揺れ動く場合があると言う事です)
ユングは、このような研究から、分析心理学の理論構成を行い、人間の精神構造を解明しようとしました。
フロイトの場合は、無意識もしくは、抑圧による精神の混乱から、精神疾患(主にヒステリー)を解明しようとしたわけです。
もちろん、精神分析の実践としては、これらの手法が有効な場合も多かったのでしょう。
個人的に「無意識」をどう考えるかと言えば、文字通り、意識に上がらない存在であるとしたら、それは理性では認知できません。
認知出来ない以上それは、語りえない存在となります。
つまり、有るか無いかはわからないと言う事です。(ユングの場合は、無意識は意識に投影されると考えるので、それが意識に認知されなくても、外部からは見える可能性はあるでしょう)
要は、「私」自身には、それは認知出来なく、「他我」として外部にしか認識されないと言う事だと思います。
いわゆる「心」の存在は、誰にとっても疑いようのない事だと思います。
当然ながら、「心」が存在しない「私」は認識しようが無いわけです。(そのような状況があったとしても、それは記憶されないでしょう)
つまり、現在は「私」がある状態しか認識出来ないわけです。
「意識」と身体の運動が一致しない場合は、ありえます。(原因はわかりませんが、行動したと思って、行動していない場合はあります)
これを「無意識」の作用と考えるか、誤認もしくは、物忘れと考えるかは、判断が難しいわけです。
精神活動のノイズと考えるか、認識機能が複数あるのかは、自分自身では、判別不可能とは言えます。
「哲学的ゾンビ」とは、「他我」としては完全ですが、「心」の無い存在です。
観察主義からは、これと「心」を持つ人間は区別できません。(「他我」としては完璧であり、「心」の存在は対象内部の問題となってしまうからです)
同様に、「クオリア」も、観察主義者からは、その存在は意味を持ちません。
個人的には、内省的に「心」が存在する事しか認識しえないと言うのが、理性的判断です。
そういう意味では、「心」は、現在一つであると言う事です。(認識主体は単一と言う事です)
同時に、「心」自体が誤認等の無い、完璧な存在とは考えません。(誤認などはありえると言う事)
フロイト、ユングに関しては、「自我」は、「自己」を完全に認識出来ないと考えているはずです。
キリスト教的なバイアスがある場合は、人間の精神は信仰により、完璧な人格になると言う思想があります。
そういう意味では、精神(もしくは、「自我」は単一でなければなりません)
宗教的に言えば、それは「魂」と呼ばれる存在でしょう。
仏陀の場合は、精神はうつろいやすい存在であり、刻々と生成死滅を続ける存在であると考えました。
精神の同一性を保証するのは、縁起であり、その動きは十二縁起で説明されました。
キリスト教的なバイアスの場合は、理想的な人格が宗教的に設定されている、もしくはそうある姿が宗教的に探究されていると言えます。
フロイトは、そのあるべき姿に対する、本質の抑圧が精神疾患を生むと解釈したと言えるでしょう。(「無意識」などの説明は、その為のものです)
ユングも同様のアプローチを進めましたが、「集合的無意識」や、「コンプレックス」などの概念により、精神構造の発現自体が、部分の連続であり、「他我」としては、同一性を持たなく見える場合があると解釈しました。
ユングは、発現する「自我」のバランスを曼荼羅と関連付けて解釈したようです。(そういう意味では、仏陀や大乗仏教の思想を取り入れてます)
実を言えば、精神構造や「心」を解明したとしても、それは科学でしかありません。
科学は、事実を説明するだけで、それが人間の生きる道を指し示すわけではないからです。
「心」がどうありたいか、どうなりたいかのよりどころを哲学的に探究するか、宗教にそれを求めるかは個人の問題でしょう。
そこで、初めて「善」・「悪」の概念が生まれてきます。
それは、哲学の倫理的問題であり、宗教の進む道なんだと思います。
限定的な問題と言えますが、人間が幸せになる道を「善」と考えれば、カントの「神」の存在証明が導き出されるでしょう。
仏陀は、「解脱」に至る道を「正道」としました。
ユングは、それを「集合的無意識」や「元型」に求めたと言う事ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ううーん。まづは ご回答をありがとうございます。
お尋ねしてよかったと思っています。

○ 観察主義に終わらない場合でも したがって主観を重んじる場合でも
なおまだワタシという主体を考察の対象にふくまない場合がある。

☆ のでしょうか。それに対して主観を主体たるワレに立ってこそ哲学す
る。これは 実存志向でしょうか。

善悪の問題ないし倫理については 実存思想にあっても 世の中でナラハ
シや思潮として持たれている限りでのみそれらを扱うという態度も採れる
はずです。

りゅぱんさんは 差し詰め 最大限に広く捉えた哲学を前提としてさまざ
まな思想をつらぬく共通の基礎事項を捉える。といった立ち場でしょうか。

哲学および倫理にとって結論を出す志向性をめぐっては 次のように交通
整理します。

ゴータマ・ブッダは 十二縁起説について明らかに逆観を推し出しました。
もう再びは《苦》の生には生まれて来ないという――従って世の中の善悪
の彼岸としての――さとりなる境地を。

これが 観察志向に終わらないためには 《ブッダ》の手本が実際に必要
でしょう。

ユングの元型は 元型の筋をたどるような人間類型がいくつかあり得ると
知ることによって心のやすらぎを得るのでしょうか。

フロイトは ヒステリー疾患についてお付き合いし何とか寛解へとみちび
くことに努めたでしょうか。

クリスチアニズムの人間の道徳的な理想像というのは けっきょく旧約の
律法主義の異種だと見られます。イエスが 揚棄し得ると伝えたところを
継げなかった。

でも その律法志向の時代にあっても 律法を守ることが出来るのは あ
くまで神の霊によってみちびかれるのでなければ無理だと分かっていまし
た。

ということは イエス・キリストは ユダヤの神を外に開いて(揚棄して)
普遍神として指し示した。

普遍神なら 善悪の彼岸をも難なくつつみ込める絶対であり得ます。そう
想定し得ます。想定のかぎりで やはり普遍です。

そして 人の世では 相対的な善悪の世界が繰り広げられます。

この――無限と有限との――構造が ひとの自然本性としてのあり方なの
では?

りゅぱんさんの哲学は 経験世界における了解事項の最大公約数を説明し
ておられる。

わたしはそれに《非思考の庭》というまぼろしをつけ添えたい。ヒラメキ
の庭です。

お礼日時:2016/03/21 13:21

ユングの理論で、一部不適切な部分がありました。


「意識」をスコープで比喩しましたが、ユング理論では、サーチライトの方が適切のようです。
サーチライトから逸れた、影についても言及している為です。
したがって、スコープはサーチライトに置き換えて解釈してください。
スコープでは、覗かれた部分が「意識」となりますが、サーチライトは、光が当てられた部分が「意識」となります。(スコープでは、覗く主体が存在するかの印象が与えられてしまいます)
精神分析の臨床では、分析者が対象の表象を覗くので、スコープでもかまわないとは言えますが、対象にとってはサーチライトで照らされる事により表象するので、意味合いが違ってしまいます。
ユングの臨床では、サーチライトから逸れた「無意識」が表象する事を観察するのが重要なので、何回も臨床を行って分析する必要があります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

▲ 《いかなる国語にも属さないこころの言葉》は 
もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけである
かも知れない。

ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についての言葉では
なく  疑いそのことについての言葉がある。

《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っているわたしの思考としての言葉。そし
てその言葉とは別にわたしは 《わたしが今疑っている》と知っているそのこ
とについての言葉がある。

それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるか
も知れない。
それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければな
らないという義憤でありうる。

そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心
の奥に動きを見せるときがある。

これらは そうとすれば 移ろいゆきあやまちうる存在である人間にも みづ
からに得られる真実のことばであるかも分からない。


けれども――問題は―― この真実の言葉が いかに ナゾとしての真理の
言葉から遠いかを わたしたちは まなばなければならない。

今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからで
ある。

《疑いを持ったゆえ思考すること》に用いる言葉と そして《その疑いや思考
をあたかもそのさらに奥にあって見守りつつ別の思惟をかぶせるように及ぼす
こと》としての真実の言葉とがある。

後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにし
て いづれかの国語において意味を取るかたちである。

そもそも言葉はどちらも 或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動す
る》かのようである。
 
旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 
解は もはやどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実の言葉が
控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。

《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》
とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の
一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。

もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の
真実の言葉をも超えてさらに窓を 開かねばならない。

お礼日時:2016/03/20 22:53

お礼ありがとうございます。


ユングに関しては、フロイトも仏教も研究しつくして、自分の理論を打ち立てているので、一筋縄ではいかないんですよ。
巧妙に、論駁されないように理論を組み立てています。
ユングの理論では、全てが精神構造内なので、反証が難しいというか、出来ないんですよ。
シンクロニシティーなどは、比較的論駁しやすいとは思いますけどね。
「無意識」と「意識」の関わりも、スコープ(もしくはサーチライト)論で説明がついてしまいます。
原則的に精神構造は「無意識」であり、その一部をスコープとして「意識」が発動すると考えれば、説明としては成り立ってしまいます。(いつまでもスコープが当たらなければ、それは「抑圧」されていると呼べるわけです)
ユングの場合は、精神構造を曼荼羅と関連付けて考えていたようなので、「意識」がその全てを認識できるとは考えていません。
ユングの思想では、「自己」も「意識」されない可能性があるわけです。(これがいわゆる「自己」を探すと言う行為が成り立つ理由です)
仏陀の場合は、12縁起によって、精神構造と「意識」の動作を説明したわけですが、ユングの場合は、広大な精神構造の中を「意識」のスコープが移動している事で説明しています。
これは、いろいろな説明が出てきます。
「意識」はスコープの動きを認識できません。
したがって、スコープの動きそのものも「無意識」になります。(こうなると、スコープを動かしているのは何かと言う疑問も出てきます)
ユングの場合は、「自我」は固定されないので、実在していません。(あくまで、「意識」のスコープの中心に存在するだけです)
位置が動かないのは、「自己」だけです。
この場合に問題になるのは、「私」は、どれなのかと言う事です。
表象する「私」が「自我」であるのは、この理論では、当然の帰結です。(他我として捉えられるのは、表象する「自我」のみです)
それとは、別に「自己」が存在しうるわけですが、これが成り立つかどうかが、検証として重要になります。
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この回答へのお礼

ううーむ。弱ったな。ユングについて無知な部分があったみたいです。

まづは ご回答をありがとうございます。

カール・G.ユングについては 例の《四位一体》説でかれを見下し
ました。

絶対者が 相い対立する善神と悪神(悪魔)とに分かれるなどという
のは ナンセンスです。これでは 善神が絶対なのか悪魔が絶対なの
か 分からなくなります。しかも《一体》だと言うのですから あた
まがおかしいと思わないほうがおかしい。

でも 《巧妙》なのですか。

★ シンクロニシティー
☆ も お恥づかしいですが 初耳でした。でも 元型の影だかある
いはアニムス・アニマなどが 夢であったり思いであったりするその
心理現象に現われると想定しているのなら 同類の出来事が離れた場
で同時に起きても それほどおかしくありません。とは考えます。

★ 意識とスコープまたはサーチライト
☆ これは 或る意味 当然なのではないのですか? 意識の棹を投
げ入れて わが心――精神構造――をその到達範囲で知る。これは
当たり前ですね。

ですが そのときなおまだ意識されなかった部分が 《無意識》なる
領域だと規定するのは これもおかしい。そのあとにでも 意識のミ
サイルを打って認識を伸ばせるかも知れないのだから。

フロイトのトラウマにかかわるムイシキは あくまでそれとしての独
立した部位だと理解します。そうでなければ 《そのときどきにおい
てただ単に意識しているか・していないか》で区別したに過ぎなくな
ります。

★ 曼荼羅
☆ についてまともな説明を聞いたことがありません。

★ 原則的に精神構造は「無意識」であり
☆ これについてうなづける部分はあります。すでに触れて来ていま
すように 《良心・信教の自由》というとき 自由も良心も概念とし
て 論証抜きで公認しあう公理だと見られるからです。

そして ヒラメキ・直観・インスピレーションのたぐいも そうです
ね。

あるいは 良心にかかわって 赤面したり呂律が回らなくなったする
ヤマシサ反応 これも ワタシの意志や意図でそうするものではない
かぎりで 精神を超えています。

ただし これらを《無意識》と呼ぶのは あまりふさわしくないと思
います。意味がなおまだあいまいです。

わたしは 《非思考の庭――信仰――》という場に押し込んでいます。

お礼日時:2016/03/20 22:34

お礼ありがとうございます。


前提については、とりあえずの仮定ですから、他の方法があるならば、別の仮定をされて問題無いと思います。
仮定しているのは、それが存在するかどうかを検討する為ですから、別のものとして捉えられるならば、そういう論証を行えば良いと思います。
前提は、論証の為の仮定なので、反証する為に、その定義に近い形にしています。
検討しているうちに、その特性が明らかになり、最終的にそれが仮定として残るかどうかがわかるわけです。
ですから、質問の回答が増えていくにしたがって、前提が成り立たないと推定されれば、それらは仮定されない形になると思います。(認識主体として仮定出来ないとする為に、最初は認識主体として仮定して、認識主体が持つべき特性を持たない事が検証されれば、前提が間違っていたと言う事になります)
実は、この前提はフロイト流の定義で、ユングの場合はまた違う定義が必要です。
ユングは、「無意識」が精神構造の全体であり、表象する「意識」はそのスコープであると考えていたようです。
一般的な説明では、「自己」は精神構造の中心であり、「自我」は「意識」の中心であるとされています。
つまり、精神構造で「意識」のスコープの中心に「自我」があり、精神構造の本質である「自己」が精神構造のフィールドの中心であり、「意識」のスコープから外れた部分が「無意識」となります。
ユングの場合は、精神構造の中に「意識」・「無意識」・「自己」・「自我」が内包されているので、それらを別の「実在」とする必要が無い事が相違点です。(「集合的無意識」の場合は、精神構造の外との関わりがあるので、難しい面がありますね)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ですから、質問の回答が増えていくにしたがって、前提が成り立たないと
推定されれば、それらは仮定されない形になると思います。
☆ これにも 従います。質問者は 趣旨説明の初めから 少々(あるいは 
露骨に)精神分析論の《精神》の定義はダメだと言っていますが。

★ (認識主体として仮定出来ないとする為に、最初は認識主体として仮定し
て、認識主体が持つべき特性を持たない事が検証されれば、前提が間違ってい
たと言う事になります)
☆ そうですか。

確認ですが。:
エス・無意識は それが何かを認識しているかどうかは ついぞ分からない場
として設定されていると理解します。

超自我は エスの発動に対しておのれのチカラを発動するわけでしょうから
エスのウゴキについては認識しているのでしょうね。

ただし 人間が・つまりワタシがものごとを知解するという意味での認識では
ないはずです。つまりは 良心やヒラメキが作用する場合と同じように ワタ
シを超えたところからその直感(ないし直観)が来るものと思います。

自我は 認識の作用そのものを言っているはずです。選択肢から選択し判断を
おこなう意志行為をも 越権行為のおそれがあるのに 仮説ではふくめていま
す。

★ ユング
☆ ですか。ユングは 鵺(ぬえ)です。

★ 「集合的無意識」の場合は、精神構造の外との関わりがある
☆ これは 割り合い分かりやすく 《記憶》と置き換えればよいと考えます。
世界の歴史のすべてにわたる情報が ひとりの人の記憶におさまっています。
ただし 意識にのぼることのある潜在意識と言うべきでしょう。

★ ユングの場合は、精神構造の中に「意識」・「無意識」・「自己」・「自
我」が内包されているので、それらを別の「実在」とする必要が無い事が相違
点です。
☆ いえ これは知りませんでした。
ということは 無意識は 意識のスコープ外としての狭義の無意識とそしてそ
れらを 精神構造として全部含む広義の無意識があるのですね。

ただし:
★ 精神構造で「意識」のスコープの中心に「自我」があり、精神構造の本質
である「自己」が精神構造のフィールドの中心であり、「意識」のスコープか
ら外れた部分が「無意識」となります。
☆ こんなにややこしいのでは 身動きが取れなくなりそうです。

お礼日時:2016/03/20 18:59

他の質問でも、記載しましたが、やはり、用語を限定された方が良いと思います。


前提
エス(無意識)→人間の精神活動で、最終統合として発現される「意識」以外の、認識主体として仮定されるもので、「意識」では認識されないもの。 不随意運動や、意識以外で動作する身体安定機能の恒常性は含まない。(ただし、身体作用に対して作用する事は仮定される)
自我→上記の「意識」の内部に存在する認識主体と仮定されるもの。(知覚作用の前処理機能のみは含まず、あくまで認識主体としてのみ仮定する)
超自我→上記の「自我」より上位もしくは、根源的に存在する認識主体として仮定されるもの。(上記と同様で、あくまで認識主体としてのみ仮定する)
上記の前提は、「エス」、「自我」、「超自我」の機能が、精神活動の連続的動作の一部として仮定できる事を排除しない為です。(精神活動のプロセスとして、認識主体の一部である事は可能であり、それ自体が独立して動作する場合のみを仮定すると言う事です)
用語については、哲学者の一部には、精神機能について、内省的に考える人と、観察的に考える人がいて、観察的に考える人の場合は、一人称を排除して、あくまで観察対象として説明する人もいるみたいです。
観察主義の場合は、他者に対する対応のみで、精神活動を判断するので、いわゆる「クオリア」などの概念や、「哲学的ゾンビ」などの思考実験は無意味と判断するようです。(当然、「自我」、「超自我」、「エス」なども検証不能と考えます)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ やはり、用語を限定された方が良いと思います。
☆ 従います。

せっかく定義をやっていただいたのに コメントでケチをつけるかも分か
りません。

★ 超自我→上記の「自我」より上位もしくは、根源的に存在する認識主
体として仮定されるもの。(あくまで認識主体としてのみ仮定する)
☆ 《超自我》は けっきょく《良心》だとわたしは考えます。

 くわしくは 良心そのものは ヒラメキと同じようにほとんどそれこそ
 無意識において・おのれの能力や知性以上の場から現われると思います。
 つまりは 良心が示唆したところのイメージや概念から得た思惟 これ
 が 超自我の中身であろうと捉えます。

ケチとしましては 《認識主体》はあくまで・どこまでも《わたし》であ
るとも考えます。

★ 自我→上記の「意識」の内部に存在する認識主体と仮定されるもの。
☆ そういうハタラキがそなわっていると理解しますが それはあくまで
《わたし》の精神のチカラでありその内の《知解(認識)および意志(判
断)の行為》だと見るべきではないでしょうか?

★ エス(無意識)→人間の精神活動で、最終統合として発現される「意
識」以外の、認識主体として仮定されるもので、「意識」では認識されな
いもの。
☆ これが 困りものなのです。

まづ 《認識主体》ではないはずです。意識され得るものは すでにリビ
ドーとして現われるようなそのウゴキだけなのでは?

この《無意識》は 意識され得ません。いわゆる潜在意識とは 問題が別
です。後者は 意識野に通じています。

無意識なる領域があると仮説されているのですが そのようにも・どのよ
うにも認識されることはありません。

それでも エス(それ・あれ)がはたらくと言うのでしょう。

▲ Es gibt das Unbewusste. 
☆ というように(独文に自信はないのですが) 《偉大なるエスさま》
が無意識をあたえる。というようにだろうと思います。

そこから欲動や衝動が 結果としては現象するので それらがひとつの証
拠だと言うのでしょう。

つまり 《精神活動》ではないでしょうね。精神外のうごきでしょう。

補足欄に継ぎます。

お礼日時:2016/03/20 18:07

~~~~~~~~~~~~~~~~~~



利己的遺伝子論(りこてきいでんしろん)とは、進化学における比喩表現および理論の一つで、自然選択や生物進化を遺伝子中心の視点で理解すること 。遺伝子選択説もほぼ同じものを指す。1970年代の血縁選択説、社会生物学の発展を受けてジョージ・ウィリアムズ、E・O・ウィルソンらによって提唱された。イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に、『The Selfish Gene』(邦題『利己的な遺伝子』)で一般向けに解説したことが広く受け入れられるきっかけとなったため、ドーキンスは代表的な論者と見なされるようになった。

利己的遺伝子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%B7%B1 …




~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ミーム(meme)とは、人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり[1]、例えば習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる様々な情報がそれにあたる[2]。
1万年前と現代では文明が大きく進歩したが、それはヒトの脳が生物学的に進化した結果ではない。その間は、脳はほとんど進化できておらず、文明を進歩させたのは、脳内の情報である。また文明を進歩させるだけでなく、反社会的な集団やデマも、情報が人々の脳内へ拡散され、共有された結果である。あらゆる情報は会話、人々の振る舞い、本、儀式、教育、マスメディア等によって脳から脳(心から心)へとコピーされていくが、そのプロセスを分析するため、それらの情報をミームとして定義し、分析することにこの概念の意義がある(ただしミームとは何かという定義は論者によって幅がある)。ミームを研究する学問はミーム学(Memetics)と呼ばれる。
ミームは遺伝子との類推から生まれた概念である。それはミームが「進化」する仕組みを、遺伝子が進化する仕組みとの類推で考察できるということである。つまり遺伝子が生物を形成する情報であるように、ミームは文化を形成する情報である。遺伝子は子孫へコピーされる生物学的情報であるが、ミームは人から人へコピーされる文化的情報である。遺伝子が「進化」するように、ミームも「進化」しており、それによって文化が形成され、変化していく。
さらに遺伝子の進化とミームの進化は無関係ではなく、相互に影響しあう。

概要[編集]


もともとミームという言葉は、動物行動学者、進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが、1976年にThe Selfish Gene(邦題『利己的な遺伝子』)という本の中で作ったものである[3][1]。ドーキンスはまずギリシャ語の語根 からmimemeという語を作った。mimは「模倣」を意味し(mimic「まねる」, mime「物まね」,mimesis「模倣,擬態」などに含まれている)、-emeは「…素」を意味する名詞を作る接尾辞である(言語学用語のphoneme「音素」,morpheme「形態素」などと共通)。しかし彼はこれを遺伝子 (gene、ジーン) のような一音節の単語にしたかったので、むりに縮めてmeme「ミーム」 とした。彼はmemeをmemory「記憶」やフランス語のmême [mɛːm]「同じ」と結びつけて考えることもできるだろうと述べている。ドーキンスは、ミームを脳から脳へと伝わる文化の単位としており、例としてメロディやキャッチフレーズ、服の流行、橋の作り方などをあげている。
その後、ミームはドーキンスやヘンリー・プロトキン、ダグラス・ホフスタッター、ダニエル・デネットらにより、生物学的・心理学的・哲学的な意味が考察されるようになった。初めてミーム学についてまとめられた本が出版されたのは、リチャード・ブロディのViruses of the Mind:The New Science of the Meme(邦題『ミーム―心を操るウイルス』)であり、その後スーザン・ブラックモアがThe Meme Machine(邦題『ミーム・マシーンとしての私』)でさらにミーム学を発展させた。

ミーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC …

~~~~~~~~~~~~~~~


ブラジュロンヌさんが輪廻転生を批判するときに
DNAの話をして不思議だと思っていたのですが、さきほど
そういえば、『利己的な遺伝子』とか昔に流行ったなあと思ったのでした。
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