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1. 日本語の《神(かみ)》は いったいどういう概念なんですか?

2. もちろん日本語学では 定義が出されるでしょう。けれども その中に
必ず《自然を超えている・経験世界を超えている》というガイネンが示される
はずです。

3. なら この《超自然・超経験》とは いったいどういうガイネンである
のか? そのようなモノ・コト・サマは この世界のどこにもありません。と
同時に 無いと人間が断定することも出来ません。

4. 神が なんで概念なのか?



5. 《絶対》という概念で説明されることがあります。けれども この《絶
対》は いったいどういう現実なんですか? あるとも無いとも 人間には分
からないでしょう。

6. ぢゃあ 《概念であること》に終わらない。おさまらない。なんで概念
であると言って 平気でいるのか?

7. 二で割っても三で割ってもその答えはやはりそれ自身であるという《無
限》 この概念で説明されることがあります。神がです。

8. けれどもこのような《無限》なる現実は どこにもない。しかも ない
と証明し得たわけでもない。

9. 神を・あるいはそれを説明することばを――たしかにそれらは言葉であ
るからには 概念でもあるのですから―― 概念として使用することはできま
す。昔は 人攫(さら)いに遭ったり《蒸発》したりしたとき 《神隠し》に
遭ったと表現したごとく。

10. しかし神が なんでその概念であると言えるのか? タトヘであるに
過ぎず 転用しているに過ぎないことは分かり切っているはずなのに。

質問者からの補足コメント

  • この問いは ひとえに《神は概念である》という命題に対して断乎反対するもの
    です。何が何でも そのマチガヒ命題をはびこらせるわけには行きません。そこ
    が 落としどころです。

    ★ 定規上には位置をいくつも設定することができます。無限にです。
    ☆ たしかに 0 と 1 との間に限りなく定まった量を位置づけることが出
    来ます。あるいは 限りなく長い物指しをつくれば 限りなくその最大値は伸び
    て行きます。

    けれども 物指しの上では・あるいは物指しを限りなく伸ばすとしてもその場合
    にも 限りはあります。宇宙がつづく限りという限りがあります。

    果てがなくても その最大限のあたいになお 1 を足すなら その最大限は有
    限のものです。そのようにして どこまで行っても この経験世界では ものこ
    とは有限です。
    定規上の《無限》というのは 経験的な《可能無限》なのです。

    神なる無限は 別の次元です。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/03/29 15:37

A 回答 (12件中1~10件)

私は悪魔というものを経験したことがないので悪魔が何なのかどうなのかはわかりませんが、なぜ悪魔は「経験世界の次元に毛の生えた程度なのが」と断定できるのでしょうか。

何故なら、貴方の主張展開の手法を納得している訳ではございませんが、貴方の展開される主張の「神」なる語の位置に「悪魔」と置き換えて展開してみてください。そのまま、悪魔を同じに、ご自身で認めなければならないことになるのではと思えてしまったからです。「宇宙全体」とか「イデア」なる語で置き換えることもできます。それらは包括的な意味あいや「あるがまま」を示すだけのようでもあり、人間が尊重「すべき」とか「崇高なる」とか「尊厳」とか「救い」などの思いを向かわせる価値を内包しないようにも思えます。
「人間からは非経験の場」「非知なるナゾ」とのご主張がございました。それでも「人間がどう思おうと つねに神はある」と断定される。それも人間である貴方がということです。人間には非経験の場と主張されるその人間がなぜ「ある」と断定できるのでしょうか。
 私は、神が概念であるのかどうかという問題よりも、人間の限界(非知)から、先ず「ある」と断定してしまっていらっしゃることに注目してしまいました。信仰とは「信じる」という論理性のない断定ですから、否定はいたしません。
「私たち人間からは非経験の場、その正体は分からない」とのご主張、そして「神は痛くも痒くもない」とのご主張をもされるのですが、それではやはりどちらからにしましても互いに意味が無いことになってしまいます。人間にとって「神はある」とする意味はなくなります。神にとっての「人間」もまた然りです。
「人間の思考や行動を超えたところのことを<神>という言葉で示そうとしているのですから」という貴方の表現された思いはわかりますが、これらではその行為の必要性すら無いことになってしまいます。
「神とは、超えたもの。あるんだ」というご主張はわかるのですが、どうしてもこの展開では無理があるように感じます。
 宗教によっては貴方の使用される「神」という語に似たような表現があるのを学んだ経験がございます。そういう学びも含めまして、宗教は人の求めによって、そういう心のために構成されているようであります。誰かに利用されたりして動いてしまうこともあるようです。その宗教を邪教とするのか、良い教えとするのかは、人にとっての善悪という名の都合の判断ではないかと思います。みんなの心がそれで救われるのでしたら、良い教えとすることになるのかもしれません。益と害とを慎重に考えていかなければならないということです。そのように「考えていく」という行為に対する批判や評価もまた同じ行為となります。
 そして、神とか宗教という問題だけではございませんが、「何が正しいのか」は、きちんと分析して、正確に理解していくことを慎重に進めなければ間違えてしまうと考えております。その私たちが「考える」という手法自体についても、慎重に反省し理解していく必要があるのではと考えます。
 どのような意味に「神」と呼んでいるのかも宗教や人によって異なるようです。また貴方の示される「神」というものを必要としないで「あるがのまま」を表現する宗教もあるようです。

 貴方の批判される「人間の取り扱い」ということになってしまいますが、多くの場合「神」というと、宗教的に信仰使用されている「神」を指しているようですので、「神は概念である」という主張を否定することはなかなか難しいと思いました。神を求めたり、神を信仰されていらっしゃる方にとっては逆に「神は概念である」という主張を受け入れることが難しいとも思いました。
 これらは証明でも主張でもなく、推測でしかないことを付け加えておきます。
 何度にも渡り失礼いたしました。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ここで問うている《神》について:
★ 人間が尊重「すべき」とか「崇高なる」とか「尊厳」とか「救い」など
の思いを向かわせる価値を内包しないようにも思えます。
☆ というのは そのとおりですよ。

○ 超自然・超経験・絶対・無限
☆ これらで説明しており いわば定義のようになっています。
つまり 《崇高・尊厳・すくい》といった見方・受け留め方とは 別です。

なぜなら ひとつに《哲学として》神をあつかっているからです。
ひとつに そのあと・つまり哲学の神論のあとに 一人ひとりの心としての
主観的な神の受け容れ方があるからです。

前回の言葉を重ねて述べて 言いかえるなら:
☆☆ (№10お礼欄。編集しました) 人が神を褒めようが貶そうが 神
は死んだと言おうと何と言おうと 神は痛くも痒くもない。
☆ という神――普遍神――について語ろうとしているからです。

こういう神なら その神という言葉に代えて《あくま・うちゅう・イデア》
と別の名づけをしてもかまいません。

もっとも 《悪魔》はそれとして 経験世界における何ものかという意味が
あるとすれば 困ります。アクマという発音だけを用いるなら だいじょう
ぶです。《うちゅう》もおんなじです。

《イデア》は まさに《超自然の何ものか》を言っていますから ほとんど
《神》と同じようなたぐいの言葉です。ただし そこに尾ひれをつけてたと
えば《この世は イデアの影であるに過ぎない》といった規定をそえてしま
うと おかしくなります。経験世界と超経験の場との関係を 影とその本体
といったつながりとして勝手に規定したなら アウトです。人間のこしらえ
た神になります。

★ 人間には非経験の場と主張されるその人間がなぜ「ある」と断定できる
のでしょうか。
☆ 【Q:世界をすくう哲学――信仰としての・・・】の《2》をごらんく
ださい。《非知》として想定するということです。

経験合理性によって《絶対・無限》として説明ができる。これが 想定する
ことができるための根拠です。

そして何故そんな想定をするのかと言えば どの言語にも《かみ》という言
葉が持たれているからです。哲学は その説明をしなければならない。

さらには 善悪・正邪を超えているという想定です。

なお言葉として神は 概念ですよ。

お礼日時:2016/03/31 15:48

“神”は実感してない人はには概念と言えて、実感できる人には実在と言えると思います。


実感に、レベルは生じると思います。

No.4で、空間と音に付いて触れている所をぶらじゅろんぬさんは、いい体験をお持ちですねと、感想を述べてますが、実際このお方は禅の修行などされての体験を通しての意見のように思えます。

そこで思い出した言葉が有ります。
彼の山崎弁栄(べんねい)上人の念仏して居られた時の澄みきった心境の一端を「線香の灰が香炉の灰の上に落ちる音が、それはたいへん大きな音に聞こえます」と、仰られたようです。

なにか共通する精神の世界の事のように思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《かみ》は 日本語であり 言葉であるからには・言葉である限りで
《概念》ですよ。

それだけではない。というところが ミソです。

《精神》というとき 理性や意志として具体的に経験行為となる精神
――これらは 言葉であり概念です――とそして 非経験の場を表わ
し《世界精神》といったふうにも用いる精神とがあります。

後者の《精神》は 昔は使われましたが いまはあまり使いません。
《霊》と言いかえるのが ふつうです。



《霊》の次元は 別に《実感》するかどうかは 基本的に関係ありま
せん。
《神》は 《実在》であるかどうかも どうってことないです。

主観としては そのことを問題にすることがあってもです。

《概念》の次元も《実感・実在》のレベルをも 超えている。これが
神です。



あとは ヒラメキや《実感》は けっきょく個別の心的現象です。個
人個人がそれぞれ体験することです。

それを他人と共有することは無理です。

もし共有し得たなら それはただの概念だということになります。
概念なら 内容が説明され得ます。

霊なる神なら シルシとしての・代理としての・補助線としての説明
が成されるのみです。

ついぞその正体は 分からない。共通の理論や実感としては 分から
ない。


弁栄氏個人の体験であると見ざるを得ません。
むろん 誰かがそこから何かの理論を展開することがあるかも分かり
ません。ないかも分かりません。

お礼日時:2016/03/29 19:32

子供の頃、夜中に独りトイレに行くのが怖かった経験がございます。

知ることのできない暗闇に恐怖していました。未知の、自分の理解を超えた、対応できないと思う事柄への恐怖だったのだと思います。でも私はそれを「神」とはしませんでした。「神隠し」などという扱いは、得体の知れない事柄への不安の対応一手法として生まれた扱いなのではないかと思います。そういうある種の「扱い」だということです。魔除けも悪魔払いも、厄除け、おまじない、願掛け、祈り、拝みなどいろいろありますが、ある種同様にある手法ではないでしょうか。
「無限」が神であるというご主張ですが、私は定規を持っています。プラスチックでできた傷だらけの小さな物です。その定規上には位置をいくつも設定することができます。無限にです。でもその定規を神だとは設定しません。ハイ、屁理屈だとは思います。
「神から見れば」というご主張がありましたが、これは、「自分にとっての存在」ということと同じことです。人間との影響関係が無ければ、神にとって人間は意味を持ちません。「人間は存在する」という前提からの考え方は、人からの取り扱いでしかないのです。そして更に「神から見れば」というご主張そのものが、それを考ている者の思考(人による想定の扱い)になります。「ナゾ」も「超えたところ」も同様になります。
 未知へ目を向けて、自分を超えて歩いて行こうと思っております。ただそれを「神存在」とはいたしません。ご批判申し上げてしまいました。稚拙で不十分なものであることを自覚しておりますので、反論の必要ございません。
 それよりも、何をお求めなのでしょうか。何処かに終着「させようと」していらっしゃるようで、そんな柱に安定させようと、言葉のはしはしにそんなお心を強く感じております。思い過ごしでしたらごめんなさい。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「神隠し」などという扱いは、得体の知れない事柄への不安の
対応一手法として生まれた扱いなのではないかと思います。
☆ 神隠しという事例は 振るいませんが それでも《神》の《扱
い》をめぐって 違いを示し得ます。

なぜなら 《人攫(さら)い・子攫い》という言葉もあるからです。
つまり こちらの場合なら 人間が連れ去って行ったという認識に
なっています。せいぜいが《鬼にさらわれた》というところでしょ
う。

神隠しと表現した場合は あまりにも見事に消えてしまったという
ようなニュアンスが出ています。人間の仕業を超えているといった
意味合いです。

ですから 人間のレベルでの経験的な事柄として扱うか。それとも
その次元を超えているか。このような違いが あるのです。

★ 魔除けも悪魔払いも、厄除け、おまじない、願掛け、祈り、拝
みなどいろいろありますが
☆ これらの場合も 人間=経験世界の次元なのです。《鬼》と同
じようにその次元に毛が生えた程度なのが 悪魔などです。

けれども 《神》となると あまりにも見事な消え方なので 願い
も祈りも そっちのけにしてしまうほど 呆気に取られている状態
だと言えます。

アクト・オブ・ゴッドと言いますが 不可抗力のことですね。
悪魔なら まだ人間はそれに対抗し闘うという余地が残っているの
です。

そうではないでしょうか。

★ 未知の、自分の理解を超えた、対応できないと思う事柄
☆ について整理してみます。

○ もの・ことについての認識じょうの分類

 経験事象
  可知 
    既知
    未知(やがて既知となると推察されている)
  不可知(知り得ないと知り得た(証明し得た)こと)

 非経験の場 (経験事象を超えた場ないしチカラを想定する)
  非知(知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ)

☆ むろん 神は 《非経験の場 = 非知なるナゾ》です。

ですから 経験世界を超えた次元としては――《神から見れば》と
いう問題ですが 人間が神は死んだと言おう何と言おうと 神は痛
くも痒くもない。となります。

人が褒めようが貶そうが 神は変わらざる神としてあります。

補足欄に継ぎます。

お礼日時:2016/03/29 15:25

他の宗教の神と違うからって理由でマチガイとか決めつけるなよ


宗教が違えば神が違って当然 そもそも、ゴッドを神と訳した奴が悪い
日本の宗教としての式が式として成り立つならなにも問題無いだろ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

どの宗教であろうが何という偉い人であろうが 神は:
☆☆(№8お礼欄) 《概念である》だけではない。それだけでは マチ
ガイだ。――と言っています。
☆ 趣旨説明欄に 理由を述べています。

もしさらにくわしい説明が欲しいということでしたら 次の趣旨説明欄な
どをどうぞ。

【Q:信仰としての《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9161091.html

その中で特に神が宗教のオシへによって違うというご議論については 次
の図式的ながらの説明を参照してみてください。


  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

☆ ただし オシへは確かに違いますよ。神は 同じひとつです。

お礼日時:2016/03/29 08:31

神は宗教事に違うんだし


日本の宗教の神が概念でも別にいいんじゃねえの
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《概念である》だけではない。それだけでは マチガイだ。――と
言っています。どうでしょう。

お礼日時:2016/03/28 21:51

1. 日本語の《神(かみ)》は いったいどういう概念なんですか?


=人間の創作物

2. もちろん日本語学では 定義が出されるでしょう。けれども その中に
必ず《自然を超えている・経験世界を超えている》というガイネンが示される
はずです。
⇒自然科学でも、それらの話題に触れることがあります。要は空想科学のいう意味。

3. なら この《超自然・超経験》とは いったいどういうガイネンである
のか? そのようなモノ・コト・サマは この世界のどこにもありません。と
同時に 無いと人間が断定することも出来ません。
⇒《超自然・超経験》は空想ないしはオカルトという概念

4. 神が なんで概念なのか?
超自然・超経験を超える概念=神ならば
空想上の代物=神
神=概念となる。

《絶対》、《無限》がどのようなものであれ、
空想上の代物=神=概念 という関係には影響しない。

簡単に言うとこのような感じでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 空想上の代物=神=概念 
☆ ではないと証明します。
つまりそれを:
★ 《超自然・超経験》は空想ないしはオカルトという概念
☆ というのは間違いであると証明することによっておこないます。

☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~
5. 《絶対》という概念で説明されることがあります。けれども この《絶
対》は いったいどういう現実なんですか? あるとも無いとも 人間には分
からないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《空想ないしオカルト》だという連想は出来るでしょうが では 《絶対》
は《無い》ということは 証明できますか?

《空想に過ぎない》という証明のことです。《空想であること》を じつは超
えているのではありませんか?

☆☆ ~~~~~~~~
7. 二で割っても三で割ってもその答えはやはりそれ自身であるという《無
限》 この概念で説明されることがあります。神がです。

8. けれどもこのような《無限》なる現実は どこにもない。しかも ない
と証明し得たわけでもない。
~~~~~~~~~~~~
☆ 《無限》の半分は 何か? 《無限》ですよ。
それが 自然科学ないし科学の認識するところです。

そして この《無限》が 神です。

どうですか? 《神は お化けだ》というのなら まだましだと思います。

お礼日時:2016/03/28 21:50

真摯なる反論、ありがとうございます。


「概念」という意味をどう扱うのかは置いておきまして、存在、実在というようなことを考えます。
「現実とは何なのか」「『現実』という言葉が指し示す本当のところとは」というようなことです。そんな「現実」の内に、部分として私はいるようであることを自らの観測から推測しております。
 私の前に置かれているコップは、その物として私へ影響していることによって、それはそういう存在として私へ意味を持っていることになります。存在物として取り扱うことができるということです。私の彼女は、その変化している人間として心として、私へ関わり、私も関わっていることによって、その意味のものとして成り立っています。まったく影響関係が無ければ、それは何か(主体とするものにとっての)に対する存在として意味を持ちません。
「神」は「神」として、それを取り扱っている方のものとして、成り立っていると思います。それを否定しません。思いは思いとして、取り扱いは取り扱いとして、その意味におけるものとして意味を持つということです。
 私に色々な影響をきちんと観測できるのかどうかという問題は、また別の問題となります。
 それ以前に、私の観測認識は完璧ではないので、認識できなかったり、逆に影響関係があるかのように思い込んで判断してしまったり、憶測は憶測として存在の意味を持ってしまったりもします。
 ただわかることは、影響関係になければ、その存在意味は持たないということです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。質問者ですがわたし自身の考えを
なお当ててお応えとします。

★ 「神」は「神」として、それを取り扱っている方のものとして、
成り立っていると思います。それを否定しません。思いは思いとし
て、取り扱いは取り扱いとして、その意味におけるものとして意味
を持つということです。
☆ これが 《概念として用いられているありさま》です。
《言葉≒概念≒あるいは観念》なのですから いくらでも自由に思
考や想像のために用いることが出来ます。

ところが ではその・たとえば《神隠し》というふうに使った場合
そのときの《神》とは どういう意味か?

これは 《不思議な現象であり事件である》と言っているはずです。
どうして誰々さんが消えたか 誰も分からない。という意味を表わ
すために《神》という言葉が使われた。

つまりは 昔の人の思いとしては 《人間のチカラでどうにかなっ
たのではなく 人間の能力では何が何だか分からない》という意味
を指し示すために《神》と言っているはずです。

つまり 人間の能力や努力――つまり 経験事象ないし経験世界―
―を超えている場(ないしチカラ)のことを示唆しているはずです。

つまり そうなると 言葉≒概念としての《神》は 人それぞれに
その取扱いがあり思いもある。のですが それだけには終わらない。

なぜなら そのような人間の思考や行動を超えたところのことをこ
の《神》という言葉で示そうとしているのですから。

つまり 《概念であること》をも超えている。
その正体は分からないのです。ナゾなのです。

★ 観測認識 認識 憶測
☆ 等々一切の人間の精神および身体のハタラキを超えています。

★ 影響関係があるかのように思い込んで判断してしまったり、憶
測は憶測として存在の意味を持ってしまったりもします。
☆ という経験事象としての側面とそして同時にその次元を超えた
場でもある。

★ ただわかることは、影響関係になければ、その存在意味は持た
ないということです。
☆ 人間にとっては そうです。しかも同時に 神から見れば 人
間がどう思おうと つねに神としてある。ことになります。絶対な
のですから。そういうナゾです。

お礼日時:2016/03/28 21:40

場違いのご返答でしたら、ごめんなさい。


「基準」とか「実存」というような考える基準は、生きていて重要なものだとは思うのですが、固まった考え方に囚われて、拘束さた思考の中での、絶対とか、存在とか、概念とか、超越とか、価値とかとなります。
 創られた「枠」の中での支配されている考え方となってしまいます。概念とか、神とか、信仰とかというようなものも、人間の都合の扱いによって成り立っているようです。
 そういう求めの中で創り上げられて、そういう思いに少しずつ動かされて社会基準は構成されいるようでもあり、動いているようでもあります。思考上の事柄でしかないことを超えてしまうことになります。
 ただどこかで、そういう事柄や事件を超えて、現実への正確な理解が必要とされ、始まっているのではないとも考えています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

場違いではないと思いますけれど 神について誤解があるように
思うのですが。

★ 思考上の事柄でしかないことを超えてしまうことになります。
☆ つまり このように すでに初めに《思考上の事柄でしかな
いこと》と決めておられます。

もしそうだとしても――つまり 飽くまで言葉で表わしているか
らには それは概念であるということをまぬかれておらず 確か
に《思考上のことがら》であるに間違いないのですから そうだ
としても―― 同時にそれを《超えている》ことは 明らかです。

自然の現象や社会として人が経験することがら――つまり経験世
界――を超えていると捉えたからこそ 《かみ》と言うのですか
ら。

それに・同じくつまりは:
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~
7. 二で割っても三で割ってもその答えはやはりそれ自身であ
るという《無限》 この概念で説明されることがあります。神が
です。

8. けれどもこのような《無限》なる現実は どこにもない。
しかも ないと証明し得たわけでもない。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というように明らかに 《思考上の事柄を超えてしまってい
る》のですから。

違っていましょうか?


★ ただどこかで、そういう事柄や事件を超えて、現実への正確
な理解が必要とされ、始まっているのではないとも考えています。
☆ 初めの部分つまり《・・・理解が必要とされ》までは分かる
のですが そのあとの部分がよく読み取れませんでした。

《現実への正確な理解が・・・始まっているのではない》という
のは どういうことか? これが分かりませんでした。



あと 《思考上の事柄》は たしかに――概念としてありますか
ら―― ものごとの《基準や枠》に成っていることそれ自体は
そのとおりですけれど。

つまり その限られた枠を やはり超えたところ(場ないしチカ
ラ)を その言葉がシルシとなって同時に指し示しているという
ふうにも成っている。《神・絶対・無限》などの言葉はです。

どうでしょう。

お礼日時:2016/03/28 04:33

その通り、同時一体です。


どちらか一方しか表に現れることはありません。

時間そのものを経験することはできません。老朽化した経緯を知ることも、見ることも、聞くことも必要とすることなく、ただ存在しています。
老朽化した経緯なしに、経年劣化の結果だけを残し続けて存在しているのが今のこの瞬間です。(オとギャとアも言えるのは今です。)

空間に耳を澄ますと音の種類云々ではなく、空間を通して聴いている存在が静寂性を帯びていることに気付くようになります。耳から神経を研ぎ澄ませると、その場と一体になることが出来ます。
どんな音も去っていきます。永続するものはありません。
川の音も、虫の音も、車の音も、さほど重要ではなくなります。

本人が神を遠ざけている。その通りです。

神を捉えると本人の自覚はなくなります。神は生き物に共通する部分なのです。己を自覚した次の段階では、己が生きているというよりも、感覚的な部分で誰かに生かされているという感覚のほうが優位になります。心を越えることで、いま(空間)に繋がるのだと思います。

「われはわれなり」と確認しているのは誰か?
ということになります。

気が付く、というのは、それと一緒ではなくなるといくことです。

確認というのは、依然として「それと同じである」ことを証明していることになります。
「われがわれなり」という確認で得られるのは、心のほうが自分よりも自分らしく感じる感覚だと思います。

思考は過去に条件付けられた一定の思考パターンから来るものに過ぎない小さなもので、それを自己として認識するよりは、
「わたし」という感覚を得ようとモガク思考にしても、いまの自分を通してしか得られていない、そのことに気が付く必要があるのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~
(あ) 「われはわれなり」と確認しているのは誰か?
ということになります。

(い) 気が付く、というのは、それと一緒ではなくなるといくことです。

(う) 確認というのは、依然として「それと同じである」ことを証明して
いることになります。

(え) 「われがわれなり」という確認で得られるのは、心のほうが自分よ
りも自分らしく感じる感覚だと思います。
~~~~~~~~~~~
☆ なるほど。一理半くらいありますね。

確認しているようぢゃ まだその自覚は足りてはいない。
《われはわれなり》を そのまま生きていることにはならないと。

(い)などは 確認し得たということは その確認した内容としての《自己
の同一性》が 必ずしも確立されていないことを表わすのだと。

この確認は では どこでおこなっているか?
心か。ともかく《わたし》か。あるいは 漠然としたわれ全体としての意識
か。

まっ だけど そこにあたらしい見方を差し挟むことも出来るかも知れない。
つまり 確認したなら もうすでに・ただちに 別のものごとに向き合う姿
勢になっているのだから あまりこだわらなくてもよいのだと。

★ 「わたし」という感覚を得ようとモガク思考にしても、いまの自分を通
してしか得られていない
☆ たぶん――いま上でああぢゃこうぢゃと押し問答をしたのを承けて――
特に自分のありかを違和感を持って意識していないならば 大きく《わたし》
は 自覚が出来ている筋道をあゆんでいると思っていてもよい。かも知れな
い。

脱線したと気づいたときに 軌道修正するというくらいでよいかも知れない。
――という便宜的な方法もありかも分かりません。

★ 本人が神を遠ざけている。その通りです。
☆ とは言え 《神を遠ざけていない》ということの自覚や確認は 並大抵
のことでは つかまえにくい。とは思います。

前段で触れたように 行き当たりばったりで行くしかない。のかも分かりま
せん。

★ 空間に耳を澄ますと音の種類云々ではなく、空間を通して聴いている存
在が静寂性を帯びていることに気付くようになります。耳から神経を研ぎ澄
ませると、その場と一体になることが出来ます。
☆ いい体験をお持ちですね。ただし 理論化がむつかしいかも分かりませ
ん。

お礼日時:2016/03/27 16:03

理解が早くて助かります。


神を見つける上で「障害」になるのは、ありとあらゆる信念、物質的なモノ、とくに所有物です。
(意見も精神的な所有物です。)
所有には、私が持っているという意味が含まれていて、得るとか失うとかいう精神的な感覚に伴い感情も付随してきます。
(見解や解釈を一定に保ち維持し続けるには効果絶大です)
神は中立の中にいます。あるがままというやつです。

「色のついた」世界は、生き物によって見える色に違いがあります。

「しばしば騒がしい」と感じる空間は、音そのものではありません。
空間に音が混同されていることで「騒がしい」と感じるのです。
音が存在できる場が空間です。空間に存在する物に、自分の物・他人の物という感覚がくっ付いています。例えば、建物などは「穴の開いたコンクリートの塊」というわけです。

空間に時間はありません。時間は思考の中にしかありません。
外の世界は、すべて瞬間に物事が起きています。が、思考は過去と未来しか見えていません。物事や物質に注目しないでいれば、そこにあるのは空間だけになります。

物事がでてきましたね。物事=私に起きた物事、私の人生、です。
これは精神的なもので、自己意識というやつです。
意見や見解、解釈に信念、どれも自己意識を強化します。
こうなると、神はますます隠れてしまいます。
意識というのは既に目覚めていて、それは感覚という感覚でしかわかりません。感覚に意識をむけなければ見つけることはできません。
思考も、ただ見つめなければ神を見つけけることはできません。
思考の裏には空間があり、この世界の裏にも空間があり、そこに人は存在しています。体も物質的なものです。
空間は地球の外にも続いています。日本だけで終わり、というわけではないんです。時間は世界でバラバラの時を刻みます。
時間は、人が社会で規則正しく生きるためのツールです。地球や宇宙に暦が存在しているわけではないのです。だから、地球単位で見れば昼と夜が同時に存在しているわけです。そこには空間があります。
地球が浮いていることを意識するれば空間の広大さに気が付くかもしれません。
その空間への気づきが、あなたそのものです。
その感覚は特定の概念や定義付けできるような代物ではありません。
代用が利かないです。代わりになる物もなければ、代わりになる者もいない、そのことに気が付くかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ううーむ。まづは ご回答をありがとうございます。

★ 空間と時間
☆ 赤子として生まれ落ちたときから たしかに空間の中に身体と
いう空間を占める者として存在しますが でも おぎゃあーと泣い
たときから すでに オとギャとアとの三拍の時間が経って行きま
す。

おそらく しかもこの空間と時間――あるいは身体とその身体の知
覚を概念として認識する心(理性)とに較べられるような二者――
は 同時一体であるのでは? とは思います。

★ 「しばしば騒がしい」と感じる空間は、音そのものではありま
せん。 / 空間に音が混同されていることで「騒がしい」と感じるの
です。
☆ おもしろいと思いましたが でも《正規(?)の音》と《雑音》
とは それほど判然と区別されるとも思えません。

小川の流れる音や秋の虫の音は 雑音とは言い難いように感じます。
(大きな論点ではないかも分かりません)。

★ 色
☆ は そちらの見解にゆだねます。

★ 意見や見解、解釈に信念、どれも自己意識を強化します。こう
なると、神はますます隠れてしまいます。
☆ 司会役としては 反論を用意するのが つねです。つまり た
とえば《神が隠れる》のではなく そうではなく そのように自己
意識を強化した人間が 《背景としての・しかもどこにでも存在す
る神》を遠ざけているだけではないか。とツッコミを入れるべきで
しょうね。

★ 地球が浮いていることを意識するれば空間の広大さに気が付く
かもしれません。 / その空間への気づきが、あなたそのものです。
☆ おのれの自覚ということに気づかせてくれるように思いました
が だからと言って 時空間をそしてそれとしての経験世界を超え
た神のことを捉えたというものでもない。のではないか?

★ その感覚は特定の概念や定義付けできるような代物ではありま
せん。 / 代用が利かないです。代わりになる物もなければ、代わり
になる者もいない、そのことに気が付くかもしれませんね。
☆ 《掛け替えのない存在としてのワタシ》としては 初めて気づ
くと言うよりは 確認ということでしょうね。《われはわれなり》
という自己の同一性の。

あとは それに添える《プラス α 》としてのナゾの何ものか。つま
り もしそうとすれば 《かみ》のことなのでしょうね。

お礼日時:2016/03/27 14:23

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