NMB48のりりぽん、須藤凛々花が出した本『人生を危険にさらせ!』の中の先生役の政治社会学者(堀内進之介氏)が、次のようなことを言っています。
「実存主義はときに腐臭を放つことがある」と思っています、と。
それに対してりりぽんは、「実存主義って、変に拗らせると、悲劇に酔うナルシシズムになっちゃうよ、てことでしょ?」と応えています。
この本では、実存的思考をする(とは、"先生"の感想です)りりぽんが“生”や愛や自由や正義に付いて先生と語っていますが、実存主義的思考をする人でも、"愛"に付いてとなると“永遠”なんていう世界?に引き付けられるようです。
この本の愛に関する部分を読んでいると、そんな印象を持ちました。
「愛」とは何か、が曖昧なままの対話だからかと思いますが。
実存と永遠。
この二つは異質のものではないでしょうか。
☆ この質問が成り立つのかどうかちょっと心配ですが、そのことも含めてよろしくお願いいたします。
独り言 (『ぼくらはそれでも肉を食う』も、少しづつ読み進めていて途中で立ち止まっては哲学、しちゃうなぁ)
A 回答 (10件)
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No.10
- 回答日時:
№8をおぎないます。
○ ひとなる存在の成り立ち
〔信じる[霊我]:非思考の庭(信仰なる動態) 〕= 自然本性+α
_________________________________
〔考える[精神]:思考の緑野(本質論をふくむ)〕= 自然本性⇒実存
〔感じる[身体]:感性の原野(直感) 〕= 自然本性⇒実存
○ 《わたし》なる存在
=実存(身と心:自然本性)+α (アートマン(霊我)・ブッダター(仏性))
・ 本質論(理想・理念・規範)は 思考の緑野におさまる。思考は経験事象。
・ 実存思想は ふつう《 + α 》のことは言わない。非思考ゆえ。カッコに入れ
ておく。
本質、が問題点になってきてしまいます。
本質は議論や思考や行動によって作り出すものではなく“見つけ出すもの”ではないでしょうか。
元々「在るもの」だと思えば。
有り難うございました。
No.9
- 回答日時:
「実存は本質に先立つ」というのは
あらかじめ神に決められた運命のようなものはない
ということだと小耳にはさんだことはあります。
今という実存における無数の選択肢の中からの選択を繰り返した先のある地点で振り返ると
そこに一筆書きの軌跡ができていてそこに必然性という運命を‘感じる‘程度のことだ
という主張だという理解も可能です。
実存か永遠かの二者択一だと相反するかもしれませんが
永遠とは‘今という実存の連続的でメリハリを付けた積み重ね‘と解釈すると
素直に両立するのかもしれません。
色即是空空即是色。
永遠という‘空‘にそれぞれの実存という‘色‘が
多様に絡み合って総体としての実存という‘色‘として
時間軸の中で浮かんでいるのが実情なんだろうなと
般若心境に絡めて考えることも可能だと思います。
「実存は本質に先立つ」とは、どうやらサルトルが言い出したようですが、wikiの説明からは“本質”は元々有るものではなく、“存在するもの”から生じる、と言っているように受け止められるのです。
ここでの本質は辞書的な“本質”とはちょっと違った解釈で用いられているようなのです。
だから「色は空」と言う本質中の本質とは懸け離れているのではないでしょうか。
有り難うございました。
No.8
- 回答日時:
★(№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~
実存は本質に先立つ、と云うのは"核"と"外皮"との関係の事と思い
ます。
本質=核
実存=外皮
と捉えています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そういう立ち場をも 実存思想のひとつの形として捉える場合
があるかと思います。
ただし 《実存が本質に先行する》といった場合には やはりその
ような立ち場ではないと考えます。
《現実存在〔である我れ〕》の皮を剥いて行っても たまねぎと同
じで 中に核はないのです。そういう立ち場が そもそもの実存志
向です。
《先行する・先立つ》というのは 時間的な後先ではありません。
考え方として 先行すると見ています。
考え方として 《本質》が実存に先行することはなく その後行
する〔と見た場合の〕本質が わが実存の《核》であるなどとは思
っていないのです。
もっと言うならば 《いま・ここなる〔ほかの誰でもない〕わたし》
が そのまま存在の《核》なのです。その漠然とした・あいまいな
捉え方でよい存在が 核なのです。
《実存という核》が 時には《本質》だとか《理念・理想》だとか
の論議に加わり それとしてその相手に応じてこれら《本質論や理
想論》を表現してみせることもある。
あるいは 《理念》は 言葉として一般に用いる《概念》でもある
でしょうからそれとして とうぜんその言葉をふつうに・自然に使
います。
そういう問題であり それだけのことだと捉えます。
実存志向は 《座右の銘》であるとか《おのが志》などの問題とし
てまったく《手ぶら》です。もっと言えば《能天気》です。
▲(マタイによる福音 11:28~30) ~~~~~~
28: 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来な
さい。休ませてあげよう。
29: わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(頚木・首木)
を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30: わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 存在としての社会性 社会性としての存在 これゆえ 人は
縁起共生のもとにあって 過去の社会共同であるようなシガラミ
を連帯して負うような状態にある。
この社会性を帯びることが 《くびきを負う》ことであり《おの
が――十字架としての――荷を背負う》ことだと見ます。
かのひとの場合には このくびきが負いやすく 荷がかるい。と
いうメッセージなようです。
たとえば《人の道》という本質論を――実存に先行させて・固定
して――持つと 荷が重い。はずなのです。重い荷におしつぶさ
れそうにさえ成ります。
ただし 本質論を首に巻いていない実存志向であっても 人の道
をめぐる議論があれば それにふつうに自然に加わります。自由
自在でしょう?
すこしばかりのお勉強で思った事は、『実存は本質に先立つ』を「本質は実存から生じる」と言うことです。
この考えでは「本質」と言うものを辞書的な解釈で使っていないのだな、と思いました。
また本質とは何か、と言う処を共有するところから始める必要を感じました。
私には大きすぎる問題だから、、、大変だ。
有り難うございました。
No.7
- 回答日時:
《実存》と《理想》とは 無関係である。
――この一点の確認のみの投稿です。
▲(ヰキぺ:実存は本質に先立つ) ~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98 …
「実存は本質に先立つ」(仏« l'existence précède l'essence »)
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《本質》が 《理想・理念・倫理規範〔に従うべきこと〕》を指し
ます。(もっと言えば いわゆるシュウキョウのオシへです)。
人間の《存在》は 目に見えている現存在ないし現実存在(実存)だけ
に限られない。そうではなく 目に見えない本質があるという立ち場が
あるわけです。
それに対してそんなものは どうでもよい。というのが 実存志向です。
エッセンティア(ありつつあること)なる存在について その要素や特
徴を抜き出して――思考し内省するとか 善し悪しを思うこととか――
その抽象的な概念で定義しようという思考があります。
《人間は 考える葦である》。
《天使のごとく善ではないが 悪について獣のごとく放縦でもない》。
《真理に近づくことはできる》。
これが 本質論だと見られます。
内向的にして何ごとも内面で勝負。というイメージです。
エクシステンティア(外に立ちつつあること)は 《内から外に・ない
し前へ( ek- )》という表現が その派の人たちが捉える存在のあり方
を物語っています。
存在については 目に見えているそのもの・ないし動態として生きるそ
のことで捉えればよい。
とは言え エグジステンシアリズムという主義をつくったとしても 何
もエッセンチア派の本質論について無関心なのではない。勉強する。
中で納得し得てよさそうな考えについては 摂り入れる。ただしその時
にも その本質論が 現実存在に先行すると見るわけではない。
本質論は 飽くまで 二の次である。いくつかあり得る選択肢のひとつ
である。
*
また もしエッセンティア派の本質論が 《人ないし人びと一般》のこ
とをひとつの軸として考えを及ぼそうとしているとすれば
エグジステンチア派の実存志向は そうではなく 《その時・その場
(つまり特定の情況)における何の何某という特定の人 つまり ほか
の誰でもない〈わたし〉》を問題にしている。
《わたし》が 誰かの考えた理想論を取り上げてこれを論じることはあ
るけれど そのとき:
ひとつにその本質論は わが実存に先行することはないと知っており
もうひとつに 理想論を取り上げ論じるとは言えつねに《わたし》が考
え論議するのであって 理想〔論〕がわたしをして何らかの結論へと到
らしめるなどというわけではない。とやはり知っている。
この誰の誰べえなる《われ》に 《人びと一般についての本質や理念》
を上から覆いかぶせることなかれと。
*
したがって 実存と理想とは 無関係である。
理想などの本質論を大前提としてのごとく胸の奥にしまって持つことの
ない実存派にとって 臭いを発する元としての何の主義主張も一切ない
のであるから そこから腐臭がするなどということはあり得ない。
実存派の具体的な実存のあり方が 不幸にして間違いに満ちていたとか
情況の認識にあやまりがあったとか いろんな原因であやまちを侵すこ
とはある。それによって 《腐臭がただよう》かも知れない。
けれども 実存志向とその臭いとは 別の問題である。
だって あやまちを侵すといった問題は 本質論派や理想派にしても・
どの思想の派でも つねに起こり得ることなのだから。
実存は本質に先立つ、と云うのは"核"と"外皮"との関係の事と思います。
本質=核
実存=外皮
と捉えています。
有り難うございました。
No.6
- 回答日時:
その本は読んでいないので、何で文脈的にそうなっているとかはわかりません。
ただ、実存主義に関しては、その解釈において、永遠に到達しえない理想の匂いがあると考える人がいます。
つまり、「実存主義はときに腐臭を放つことがある」とは、実存主義がその血と肉において腐臭を発する→実存主義そのものが死んだように思えると言う事でしょう。
その根本には、人間の存在を他に関連付けない思想があると思いますが、その先に理想の匂いを放つならば、自らが腐臭を放つ場合もありうると言う事ではないでしょうか?
そういう意味では、実在主義と永遠は、理想又は到達点において、異質では無く、むしろ必然と言えなくも無いと思います。
しかし、これは「哲学」の方法論としての限界だと思います。
「永遠」を切り離したとしても、「哲学」がなんらかの思考を表現している以上、哲学者はその思考を表現した時点で、そこに「永遠」の匂いをかもしだしてしまうからです。
ヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考」の最後で語った言葉「語りえぬものについては沈黙しなければならない」についても、結果的にはそれ自体を語った時点で矛盾してしまうわけです。(実は、この矛盾は、「哲学」に語りえる事は無いという事を意味しているわけです)
実存と「永遠」は、物理的には矛盾かもしれません。
しかし、実存主義が「哲学」であるならば、そこに「永遠」の匂いがあり、実存主義が腐臭を発する場合があると言う事でしょう。
とりあえずのgood!でした。
もう少し勉強してから補足欄を使って、何らかの感想を述べて見たいと思います。
有り難うございました。
No.4
- 回答日時:
こんばんは。
ここでこんな愚痴を言っても仕方がないのですが、このところ、「それに関する知識」がないと回答できない質問ばかりで、出番がありません(苦笑)
この質問も、先ず「実存主義」についての知識が必要だし、それだけではなく、ぶらじゅろーぬさんも手こずっておられるように、
このアイドルとセンセイが実存主義哲学に対して、どのような知識(或いは予断)を持ち、その上で、彼・彼女はそれに対しどのようなスタンスを採っているかを知らなければ答えることが出来ません。
その点で、ぶらじゅろーぬさんも、わたしも、ふたつめのハードルを越えることが難しいので、
>☆ この質問が成り立つのかどうかちょっと心配
という点では、確かにyy8さんが求めている回答を与えることが出来る人は、限りなくゼロに近いのかと思います。
◇
さて、それらを無視して、勝手な推測で物を言わせてもらえば、
先ずハルさんの存在主義(?)は、おそらく「存在一般」について言われているのだろうと想像します。
であれば、個々の、「わたし」「あなた」という、かけがえのない「一回限りの存在」を、「わたし」の「個別的な存在」(の在り方)を、「われわれ」の存在よりも「上位に」措定する実存主義とは、少し違うのかなという印象です。
勿論「われわれ」も、バラせば「わたし。あなた。」という個体になるのですけれど、やはり「われわれ」と「わたし」は相互に還元できない概念であろうと思います。実存主義は「わたし」と「わたしたち」を、ほとんど対立する概念として捉えていると見做すこともできるでしょう。そういう意味では、(勝手な憶測ですが、)わたしは、ハルさにゃニャンポコさんとは一線を画しています。
(無論これはスタンス、或いはポリシーの違いで、優劣を云うものではありません)
>実存と永遠。
この二つは異質のものではないでしょうか。
これは単純に、「あらゆる存在は有限である」という前提でお話しされているのだろうと思います。
また人の思いは転変して、これとても永遠とは言えないという意味も込められているかもしれません。
それでもなお、人は「永遠」という観念を捨てては生きることが難しいのでしょう。
「この愛は永遠のものだ」「この思いは永遠に変わらない」という気持ちは、恋をすれば誰でもが持つものだし、或いは逆に「一瞬の中に永遠がある」という見方も出来るでしょう。
更に『「永遠」という観念には「時間」は存在しない』という見方もあります。「永遠の今」だ、と。
尚「ナルシシズム」云々に関しては、そのように観ようと思えばどのような思想でもそう言える、という感じにしか受け取ることが出来ません。
「主観的観念論って、結局ナルシシズムじゃないですか」
単純に言えば、客観的なる事柄は主観的な事柄よりも勝ると云っていることと変わらないのではないでしょうか?
「客観性」には「溺れる」ことはできません。
しかし往々にして、客観性を重視すると嘯いている人たちって、そういう「自分の冷静さに」酔っていたりするんですよ(苦笑)
PS.
>独り言 (『ぼくらはそれでも肉を食う』も、少しづつ読み進めていて途中で立ち止まっては哲学、しちゃうなぁ)
そのための読書です(笑)
No.3
- 回答日時:
★(№2お礼欄) ~~~~~~~~~
ここで"先生"が使う実存主義とは、主観主義と置き換えられる
ように思いました。
この解釈ですと、ナルシシズムにつなげることは出来ますか。
~~~~~~~~~~
☆ 《主観主義》が どうしてもあいまいです。
まづ どんな思想も・そして無思想も それはその人の《主観》
です。それ以外にはあり得ません。
そして では《主観主義》とは何か?
はっきりしません。
たとえば 《どこまでも・他人が何と言おうと自分の考えを通
す》といった行き方が 主観主義なのでしょうか?
あるいは 《世に〈客観〉という言葉が持たれ使われているけ
れど それはあくまで多くの主観についてその内容が共通であ
ると言うだけだ。自然科学で客観的な認識と言っても それも
やがて間違いがそこに含まれていたということが判明するかも
知れない。あくまで 共同主観であるに過ぎない》といったこ
とを主張するのが 主観主義でしょうか?
それとも 《何の考えも反省もしない我がままな主観》のこと
を 主観主義と言うのでしょうか?
ナルシシズムは じゅうぶんに人びとの意見を聞きそれを受け
容れてもいる人にあっても そういう知性の能力について自己
陶酔する場合だってあり得ます。
身についても心についてもいろんな内容にかんしておれは何て
すばらしいんだと思えば ナルシシズムですから。
実存思想は 主観ですが 主観主義とは別です。むしろ《情況
対応主義》です。
考えがなかなかまとまらず、ご返事が遅くなりました。
主観主義、があいまいだと言うから辞書にあたってみたら有りますね。
広辞苑のそれによると「・・・基準を個人の主観におくか、普遍的な超個人的主観におくかの別がある。・・・」
私の思い付きで使った"主観主義"は"先生"の意見をみての事ですが、この辞書の説明の「個人の主観」が強く押し出されていることを感じての事だったようです。
また、さらに辞書を見ていくと「㋑否定的には、客観的な情勢を考慮せず、自己の考えを主張する態度をいう。」とあって、"先生"の感じる腐臭とか、りりぽんのナルシシズムにつなげた考えの出どころが、ここにあるように思いました。
実存哲学に於いてブラジュロンヌさんは、実存主義とは云わず実存思想と表現するところから、独自の実存論を持っているように感じています。
有り難うございました。
No.2
- 回答日時:
《"先生"とりりぽん》との対話について正式にコメントする
ことムリのようですが まづ№1に書いたことは言えるので
はないかと思っています。
★ 実存的思考って、haru27さんやニャンポコリンさんがや
っているようなことなんだろうか。
☆ ええっと。まづ:
★ “先生”の云うところの実存的思考とは現実から導き出す
事のようで
☆ という意味は そのように《現実〔の認識〕》より前に
主義主張を持たないということを言っています。
ぶっつけ本番で思考するということです。
おふたりさんについては どうなんでしょうか?
★ ブラジュロンヌさんはそうでないように思いますが、ご
自身ではどう思っているのだろうか。
☆ わたしは 実存の思想ですよ。
主義主張を持たないと言いましたが ちょっと訂正しますと
そのような原理原則に対して 実存(現実存在)が先行する
という意味です。
定まった思想を持ったとしても それは二の次だという意味
です。
★ ~~~~~~~~~~~
本に戻って、
“先生”の云うところの実存的思考とは現実から導き出す事の
ようで、ナルシシズムに結び付けて、それが過ぎると病的に
なると云っているようです。病的=腐臭と云う事なんでしょ
う。
~~~~~~~~~~~~
☆ ナルシシズムが ここでどうして出て来るのか。よく分
かりません。
実存とは関係なく 《ナルシシズムは それが過ぎると病的
になる》と思います。甘えにおける依存のクセが過ぎると
やはり病的になります。
★ 無理に、でもいいからナルシシズムに結びつけて見た場
合、拗らせる(=自己チュウ的?)という表現は理解出来ま
すか。
☆ 実存の行き方は ナルシシズムからは やっぱり遠いで
すね。
現実がどうなっているか・その情況についての認識から入り
ますから そこで自己陶酔する余裕はないと思います。
《"先生"とりりぽん》に言い分があるのでしょうが お聞き
した限りで こういった感じで受け取ります。
いただいた回答を元に、さらに本を読み返してみればここで"先生"が使う実存主義とは、主観主義と置き換えられるように思いました。
この解釈ですと、ナルシシズムにつなげることは出来ますか。
よろしくお願いいたします。
No.1
- 回答日時:
実存思想とは けっきょく一定の《主義》にはならない行き方
です。さだまった主義はありません。答えあるいは原理原則が
定まっていないということが定まっています。
ですから:
▼ 実存主義って、変に拗らせると
☆ というときの――ほんとうは《主義》ではないのですがそ
れは措いておいて――《拗らせる》というのは まづあり得な
いと見るべきです。
《変に》も《正しく》も 《こじらせる》ということが 実存
と相容れません。《無い主義》がゆがんだり捻じ曲がったりす
ることはありません。
無手勝流のようなものですから。そのつど最良の判断を下しま
す。
▲ 「実存主義はときに腐臭を放つことがある」
☆ それは その人間の問題です。思想の問題ではなく。
★ 永遠
☆ と もし実存とが カカハリを持つとするなら それはそ
の《いま・ここなる実存としての決断》において――その一瞬
において――あたかも永遠を見るという恰好のことを言うので
しょう。
《永遠の現在》という言い方をしますから。
そうでなければ カカハリはありません。
実存によってあやまたないと言っているのではなく そのつど
の心の自由なる香りを漂わせ得るならよしとする無手勝流でし
ょう。
実存的思考って、haru27さんやニャンポコリンさんがやっているようなことなんだろうか。
ブラジュロンヌさんはそうでないように思いますが、ご自身ではどう思っているのだろうか。
こんなことを考えてしまいました。
本に戻って、
“先生”の云うところの実存的思考とは現実から導き出す事のようで、ナルシシズムに結び付けて、それが過ぎると病的になると云っているようです。病的=腐臭と云う事なんでしょう。
無理に、でもいいからナルシシズムに結びつけて見た場合、拗らせる(=自己チュウ的?)という表現は理解出来ますか。
まだまだ、説明不足ではありますが。
有り難うございました。
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感想がなかなか言葉に現れず、ご返事が遅くなりました。
難しいですね。
実存、が主義となると一般的に見る実存は薄れ、個々に於いての実存が色濃く現れると言う事かと受け止めました。
そう思うと、Grassさんは実存哲学を主義に"打ち立てて"生きようとしているように思いました。
また、実在と観念は入り混じっているんだなぁとも思いました。
愛と永遠を謳うときは、異性間に現れる愛の事なのでしょう。
世間に於いては、愛と恋との混同も常態化しています。
異性間の愛っていったい何なんでしょうね。
疑問です。
有り難うございました。
死んではいない、と云いう事ですね。
有り難うございました。
実存、を考えていると観念の世界が現れると云うことかなぁ。
あるいは実存に付いて考える、と云う事はそれを取り巻く"観念"の世界に入り込むと云う事かなぁ。
いろいろと考えてしまいます。
有り難うございました。