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人間は強い自我を持ち生まれてきて、自分を中心に環境を認識し
作ってゆくものであると言えると思います。
野生の動物などにとって利他性は死を意味します。
ですから、人間にとって利己的に生きるということは自然なこと
のように思えます。

しかし、エゴのみであれば、人間社会は殺伐とした、永続性のな
いものになるでしょう。利他性(愛)により、豊かで美しいものに
なりうると思います。

人間にとって、利己性と利他性をどのように理解したらいいので
しょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

利他は利己であり、利己は利他になる、この様に考えるのが良いかと思います。



自分を損なう利他は利他にならず、他人を損なう利己も利己にならない。

他人の所為で自分が不幸になるなら恨みも起きるでしょう。自分の所為で他人が不幸になるなら、悔いが残る。その様にならないのが正当な利益ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

基本的な心構えとして、仰る通りだと思います。

しかし、利他は「自己犠牲」がともなうものだと思います。
特に現代は「人情」というものが枯れ始めているので、人にかけた
「情け」が返ってくることが、極めて少ないだろうと思います。
となれば、嫌な気持ちばかり残り、自分のためになるとも思えない
から、そんなことはせず、見返りを期待した偽善的なことばかり考
えるようになっているのが、今の世相だと思うのです。

それでも、利他の行為はすべきなのか?そうであるなら、その理由
は何なのか?
あるいは、見返りが期待できる範囲にすべきなのか?
疑問は広がります。

お礼日時:2016/06/07 06:37

こうして自分の知りたい欲求を質問することが利己性で、ボランティアで誠意ある回答をすることが利他性です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かにそうですね。
で、あなたはボランティアなんですか?

お礼日時:2016/06/07 06:42

「利他」と「利己」を対立する概念として分けて考えることは疑問です。


「政治」とは究極の「利他」的機関に他なりません。それは全ての国民の、「健康で文化的な生活」を護る義務がある。
でも実際には「人のため」「社会のため」「あなたのため」という甘言のもとに、どれだけ「排他的」な行為が行われているか?
「利他」の美名に隠れされた「利己」

「あなたの靴を履くことはできてもあなたが立っている場所に立つことはできない」存在である以上、人とは所詮利己的なものであるという身も蓋もない事実から発して、それを苦くかみしめることから何かが始まるかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

仰る通り、私は「利己」と「利他」は対立といいますか、対極の
概念であると考えます。

また、政治をはじめ国の主要な機関は「利他」の精神を失ってい
ると思います。

人間以外の自然界では、自身の命をもって「利他」の行為を、自
然の摂理によって「強制」させられている、といっていいと思い
ます。
しかし、人間はこれに関しても自由なわけで、選択できるという
こと、また、あまりやりたくないことであること、が興味深いこ
とだと感じます。

お礼日時:2016/06/07 10:11

人間は社会をつくります。



社会が無いと、人間は人間ではいられなく
なります。
社会で育たなかった人間は、二足歩行すら
出来なくなります。

人間と社会は密接不可分なのです。

この社会の存在のため、人間はある程度利他的
にならざるをえません。

利己に徹したのでは社会から排除されてしまう
からです。

つまり、利他も結局は利己の為の利他
なのです。


ちなみにですが、結婚は利他に徹するほど
上手く行くと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「持ちつ持たれつ」ですか?
これも、利他性といえるのでしょうが、私の定義では
狭義の利他性からは排除されます。
だって、これは愛ではないですもの。

お礼日時:2016/06/07 16:26

社会的生命にとっては、自己の生存は社会の順調な営為に


依存し、そこにおいて利己の過程に利他が介在する。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

tanzouさんと同意見ということですね。

お礼日時:2016/06/07 16:28

利他性は利己性の為でもある。


情けは人の為ならずですね。
動物の習性でも利他性と呼ばれるような行動はあると思います。
コバンザメが大きい魚にくっつくのも魚が群れをなし群れを崩さないようにするのも、昆虫や植物の世界でも相互補助的な事沢山あると思います。
人間が利他性と呼んでいるとだけで、それも習性の1つなのかもしれない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「情けは人の為ならず」ですか‥
確かに「持ちつ持たれつ」と同様に、環境に適応するための習性というか
知恵だと思います。
しかし、人間ですのでより高い精神性のものがあるような気がします。

お礼日時:2016/06/07 16:43

自分が得か、他人が得かと言う以外に、状況を把握する捉え方ってあると思うんですが、質問者さんは何故そのような捉え方があり得ることに気がつかないんでしょうか。

不思議です。
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この回答へのお礼

私の質問文を見て、何故私が利己的か利他的かという対比でしか
人間関係を理解できないかと思うのか、全く不可解です。

主体と環境の関係性のなかで、その主体が利己性と利他性を使い
分けているのではないかという考えがあり、その理解のための質
問でした。

お礼日時:2016/06/07 17:07

#7の追記:



文化によっては、対等な関係と言う概念が理解できない文化があるそうです。自分が相手より上か下かという認識以外に人間関係を理解できない。そんな文化では利己的か利他的という対比以外に人間の在り方を理解できないのでしょう。
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この回答へのお礼

日本の文化のことを言っているんでしょ?

お礼日時:2016/06/07 16:59

もちろん人間なのでより高い精神的なものはあると思います。


僕は利己性は本能、利他性は理性だと思っています。
理性により道徳を身につけ、ルールを守り、争う事を避ける。
性善説、性悪説ありますが、どちらも結論は正しく生きよ。
道徳的善性を生まれた時に有するか、後天的に身につけるのかの違い。
人間が利他性をもって生きてるのは人間社会の中。
自然や他の生物に対しては物凄く利己的ですよね。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

>利己性は本能、利他性は理性
非常に大まかにいえばそう言えるかもしれませんが、その人の
心の状態というものに、大きく左右されるようにも思えます。

>自然や他の生物に対しては物凄く利己的
仰るように、人間社会全体としては極めて利己的、破壊的です
が、個々の人間を見れば、動物や自然を愛していると思うので
す。
この大きな違いは何を意味するのでしょうか?

お礼日時:2016/06/08 16:19

精神分析学者の岸田秀が、「人間は本能の壊れた動物である」というようなことを言っていたと思います。

ご存知でもありましょうが、精神分析学では精神性について、本能・自我・超自我といった分類をするようです。
基本的に(非情に大雑把に)
本能⇒快・不快
自我⇒損・得
超自我⇒善・悪
といった要因に左右されるという設定。
ご質問に沿って言うなら、
利己性⇒本能
利他性⇒超自我
でしょうか。
「人間は本能の壊れた動物である」とは言い得て妙ですが、逆に言うと、本能が壊れた状態が現出したからこそ、人間は(動物とは一線を画し)人間として存在することとなった、とも言えるでしょう。
利己性(本能)と利他性(超自我)がせめぎ合う場面が必ず現れるわけですが、そのときに、「我」としての言動を最終決定、つまり選択するのが自我の役割。
「利己につながる利他」が存在するのは確かですが、それは、この自我の視点から見た場合の解釈になると思います。しかし、それ以前に、そもそも利他性(超自我)自体が芽生えなければ、人間として成立していなかったと捉えるのが自然ではないか、と私は思っています。
動物である以上、利己性を完全に失えば生きていけない。
しかし、利他性が皆無なら、人間性を喪失していると言わざるを得ない。
ということで、自我の選択という意志行為に焦点が当たると思うのですが、この場合の選択基準はその人なりの価値観ということになるでしょう。
可能性として、どのような価値観を共有していけるのか、ということが問われているような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人間の本能的な部分は、壊れているのか(退化してしまったのか)それとも
隠れているだけなのか、実は私の中では答えが出ていない問題です。

人間の精神が、イド、自我、超自我のように、階層的な存在であるという
ことは間違いないと思います。

利己性が本能で、利他性が超自我で、そのせめぎあいを自我が、その価値
観により決定してゆくーー大変明快な分析のように思えます。
考え方としては、私も同様のことを考えているように思います。

しかし、選択基準については、価値観とともに、「心の状態」というべき
ものがものを言うように思います。
高い価値観を持っていても、心が冷たい人は「利他的行為」の選択はしな
いと思うのです。

「エゴからの脱却」がなされなければ、見返りを期待するような「低い」
利他性しか発揮できないと思います。
「高い」利他性の最たるものは、人類のために自己を発揮させることだと
思います。それを発揮させるには、知性を磨くことと、精神的な「修養」
が必要だと思います。

お礼日時:2016/06/09 15:34

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