プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても
神に変化はない。

変化する神なら それは AI としての神でしかない。

だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんで
おのれの神を持てばよい。

質問者からの補足コメント

  • ★ ここで、「信仰論」として、これを語るのであれば、それは
    意識せずとも、「宗教」になってしまいます。
    ☆ 信仰の定義また説明が 人間だれしもに当てはまるとすれば
    そう《教えている》と受け留められるという意味でしょうけれど
    これは それとは別のオシヘがあるといった問題ではありません。
    オシヘなど じつは無いのだという場合もあるといった問題でも
    ありません。

    宗教ではなく 人間論です。

    ★ 誰もが、何を「信仰」してもかまわないと言うならば、そこ
    に「非知」を出さずとも可能です。 / 人間が何に対しても「自由」
    だと言えば良いだけなんですよ。
    ☆ いえ。《非知=無根拠=絶対=非経験の場》ゆえに その諾否
    いづれでもかまわないということです。そしてその名を・つまり神
    の名を何と呼ぼうがかまわないという意味です。

    ★ 人間本性に根源的な同一がある
    ☆ 人間の置かれた条件が 互いに同じです。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/22 02:14

A 回答 (21件中1~10件)

誰もが 知ってる・・



そして そうやって 歴史も動いてる・・

あなたが言う程の事では無いだけ・・
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この回答へのお礼

つまり 無神論も 人間の思考を超えたところの神とカカハリを
持つ。

つまり 無神論も 思考にあらざるところの信仰の一形態である。

これで よろしいのですね?


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/20 09:55

日本語でぐだぐだ行っているから分かったような錯覚に陥っているが、それをドイツ語かフランス語に直してみろ。

実質、中味がまったくないことがよく分かるから。
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この回答へのお礼

そうは言わずに 日本語で その:
★ 実質、中味がまったくないこと
☆ を論証してみてください。

うまい逃げ道を考えずに。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/20 09:57

きみの問題提起は意図的に難解に書いて、高尚な装いをまとっているが、実質的中味は高校2年生から大学1年生レベル向けなんだな。

笑っちゃうよ。
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この回答へのお礼

その:
★ 実質的中味
☆ を実際に具体的に取り上げ 論じてください。

★ 装い
☆ だけの投稿は みっともない。





ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/20 10:27

なんで私があんたのつまらん議論に付きあわなければならないのか?その必要がない。



ただ、きみの、あいかわらずの、自己満足で内容の乏しい議論に、アホだなーと感じているだけで。

生き方を変えたら? 身体を動かすような仕事をした方が、実質的に真理に近づけるよ。

教えてgooに「一見、高尚そうな質問ばかりして得意になっている」あんたの姿が、みじめで貧乏クサいと言っているんだよ。
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この回答へのお礼

余計なお世話だと言ってんですよ。

かまって欲しいのなら よそを当たってくれたまえ。

お礼日時:2016/11/20 10:54

このadvice~なる人物は相手にしない方がいいですよ(^^)



自分を高みに置いて、アドバイスもしないし、答えも書かない。

相手を見下すためにイチャモンを付けてるだけだから。

相手にする意味もないし、価値もない。
情けない人物だ…

私の考えは追ってまた書いてみますね。
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この回答へのお礼

これはこれは ていねいにありがとうございます。

そのひとのアイコンは しゃれてるようなのですが。


ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/20 13:47

今回は唐突と言うか、前提としての、【神】=[非知]が抜けていますね。

(普遍的な単一の人間の知の超越存在を【神】としてます)
人間の言語化できる概念を[知](その対称概念である[非知]は除かれます)とした場合は、[非知]を【神】と名付ければ、それは【有神論】、何も名付けなければ【無神論】とは言えるでしょう。
単一神教(唯一絶対神教)を前提とした、人間の世界認識をラカンのトーラスとして考える場合、その中空部分である[非知]が何かで充填されているとしたら、それは【有神論】でも【無神論】でも同じです。(【無神論】は、【神】と名付けない、何かで充填している事になります)
中沢新一氏の、原初対称性としてのメビウスの輪の中心線での切断による、[知]と[非知]の分断を再縫合して、原初対称性を復活させる存在としての精霊(スピリット)を多神教の[神]とする場合は、それは絶対的な[非知]では無く、結合する存在ですから、ニュアンスが変わってきます。
質問の回答とは、離れますが、キリスト教の場合は、イエス・キリストがメビウスの輪の切断の縫合存在なのか、[非知]の[知]への侵入なのかで、完全な単一神教なのか、不完全な多神教なのかの判断が分かれるでしょう。(キリスト教の教義では、当然ながら、三位一体の単一神教なわけですけどね)
「耳なし芳一」を、メビウスの輪の切断と再縫合、そして再切断の物語として、解釈している人がいました。
http://tdykiksm.exblog.jp/13125129
「耳なし芳一」の全身に経文([知]のオマージュ)が、芳一を現実界に定置させるはずが、「耳」(現実界と[非知]とのインターフェース)だけに書き忘れた為に、それを奪われる事によって、芳一は現実界に定置されます。
キリスト教においても、イエスを縫合存在と考えれば、「言葉」=「知」と「非知」の縫合存在であるイエスが、人間にもたらされ、再び切断された物語とも考えられるでしょう。
この場合、人間がトーラスになったとすれば、それは「知」を絶対視する思想につながりそうです。
まだ、「精霊」≒「聖霊」で縫合されていると考えれば、それは「知」と「非知」の結合を意味します。
現在のキリスト教徒がどう考えているかはわからないですけどね。
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この回答へのお礼

うううううーーーーむ。
ご回答をありがとうございます。
わたしは ちょっと違う見方です。

   *

絶対なる《非知》:経験世界(下記の特徴)を超えている。(聖霊=神)
__________________________________
相対なる《知+感》:この世(生きている) + あの世(生きていない)
  ・この世:有無・因果・性差・言葉・科学・倫理・法律・価値
  ・あの世:形のないアニミズム(精霊=お化け)

   *

★ 耳無し芳一の耳
☆ = 〔そうとすれば〕あの世への出入り口

▲ 原初対称性
☆ これはただ 世界=経験世界 の時空間が成る前の状態(?)

★ 原初対称性を復活させる
☆ これは 物理学の研究するところ。であって あくまで経験世界の内に
属している。

△ 無からの創造とは何を言うか?
☆ この場合の《無 nihil 》とは あくまで《有無を超えた非知》のこと。
《原初対称性》のその以前が 《非知》とかかわる。のかも。

△ イエス・キリスト
☆ 非知なるキリストは 《有る無し》を超えています。そういう意味です
でに単純に 《有る神》でもあり得 《無い神》でもあり得ます。人間イエ
スは 同じ意味でキリストとは別様に 生死にわたっており いないいない
ばあを行ない得ます。

では キリストとイエスとの関係具合いは どうなっているか?

性差を超えた神キリストが 人間イエスとして男なる性である。
生まれて生きて死ぬという因果律にしたがいます。キリストはそれを超えて
いる。

イエスは言葉を語っている。キリストはそれを超えている。
人間イエスは ひょっとすると お化けに成り得る。だが キリストはそれ
を超えている。生死を超えている。

ナザレ出身のイエスという男が 自分はキリストであるという大嘘をついた
おかげで人間は 《非知とは絶対の隔たりのある経験知の世界が 非知を―
―その背面を見るかの状態で――まぼろしとして知ってしまった》。

この《まぼろし》が まぼろしとして じつに人間の《現実》と成ってしま
った。《お化け=精霊》を超えた《聖霊= 神のうしろ姿》として。

▼ 無限なるものと有限なるものとの一体性〔という矛盾〕(ヘーゲル)

お礼日時:2016/11/20 18:10

念のため、ラカンや中沢新一氏は、哲学と言うより、精神分析学や文化人類学としての解釈として、発表しています。

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この回答へのお礼

つづいてご回答をありがとうございます。

★ メビウスの輪
☆ 使えそうに感じるのですが うまく行きません。譬え方の問題な
んでしょうが。

★ トーラス
☆ は わたしには なお馴染み得ません。知らないという事情もあ
ります。


★ ラカンや中沢新一氏は、哲学と言うより、精神分析学や文化人類
学としての解釈として、発表しています。
☆ このことは 意味がおおきいですよね。

やはり中沢は 基本的に馴染めません。『チベットのなんとか』以来
つまり最初から わたしとは相性がよくありません。

ラカンは けっきょく何を読んでも・何度読んでもまったく分かりま
せんでした。

それでも言いたい放題すれば 存在論として精神を扱うのではなく 
その現象あるいはつまり ただその時その場での心の動きである心理
の分析に終わるのではないか。

幼児や小児の問題などなど わたしには分からない領域があるのです
が。

★ 「言葉」=「知」と「非知」の縫合存在であるイエス
☆ №6でお応えしたことが わたしの基本です。

つまり:
★ 縫合
☆ というのは 使えそうですが ちょっと表現がうますぎるかも。

《絶対の隔たり》が基本であることは そのままどこまでも そうあ
り続けます。といった細かいところにかんがみて。



いやぁ この質問は 提出のありさまのように 単純でよいと思って
いたんですけれど。・・・

お礼日時:2016/11/20 18:27

お礼ありがとうございます。


ラカンのトーラスやメビウスの輪は、ラカンの精神分析学の概念上の精神モデルを幾何学的に表現しただけですから、実際の精神の構造がそのようになっていると言うわけでは無いでしょう。
要は、世界(これは、人間が認識できる現実界と、言語化された言語界、形而上の想像界、非知界で構成されます)と人間の関係性を、幾何学的な位置関係で表現しただけです。
その思想性の強さから、ラカン自体は現在の精神分析学の中では、理論的な重要性は少ないみたいですね。(むしろ、哲学者の方がその思想に有意義な面を認めているようです)
メビウスの輪は、そのねじれにより、表面と裏面と言うものは存在しません。(空間的にはねじれがあるので、見る場所によっては、裏表はありますが、その上を移動すれば、裏表を通過できます)
これは、現実界と非知界がどこかで接合されている事を表現できます。
中沢新一氏の原初的対称性は、この状態であり、現実界と非知界はどこかで接合されます。(文学的に表現すれば、その接合点は「彷魔が刻」かもしれません)
これを、「知」と「非知」が未分化だったと見るかは、解釈の問題でしょう。
トーラスに関しては、ドーナッツ状のトーラスの表面を言語界、中空の部分を非知界として、抽象化したものです。(ドーナッツの内面は、個人の精神界と言えるでしょう)
人は、自己と他者の関わりに言語界しか使えないので、それが自己と他者の境界(又は接触点)であり、中空の非知界が言語化出来ない事から、非知界との境界を含まない境界となります。
自己と他者との関わりを表現するには、不十分ですが、個人の精神構造の幾何学的表現としては、それなりに表現できていると言えます。
モデルとしては、それぞれの位置関係が表現出来れば良いと言う事でしょう。
ただし、この形態の場合は、非知と個人の精神界は、言語界を境界としているので、非知から精神界への侵入は言語界を通じてしか出来ません。
たとえば、「非思考の庭」があるとすれば、精神界から言語界を経由しない経路が必要になります。(それは、別次元を通過するか、言語界に亀裂が入る必要があるでしょう)
これが、このモデルの持つギャップになります。
ここで、もう一つの3次元化したメビウスの輪であるクラインの壺(これは、内面と外面が連続化しています)ならば、言語界で無い、精神界が外部と接触する事が可能となります。(ラカンの場合は、これを言語界への精神界の流出と捉えています)
「非知」が、ここで精神界へ流入したとしても、それは言語界では表現できないので、個人の内面的問題となります。
これも、また一つのギャップと成りえます。(言語化出来ない事に変わりは無いので、他者へ説明できないわけです)
これは、言語化した「理性」では、説明不能な事になります。
これは、非常に難しい問題であり、哲学の言語化された「理性」を根拠に出来ない事になります。
「信仰」が個人的領域にある事だけは、言えるでしょう。
ただ、他の回答者の人の回答にあるとおり、それは「自明」と言うか、個人の「自由意志」を認めるだけで済む話とは言えます。(「自由意志」の存在可能性については、また別の検討が必要でしょう)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「信仰」が個人的領域にある事だけは、言えるでしょう。
☆ ということで この信仰すなわち非思考の庭は もし経験世界とつながり
・または接触があるとするならそれは ヒラメキをとおしてだと これまで 
見て来ました。
 
あるいはつまり 良心といった領域ですね。

良心は ヤマシサ反応を起こす・またはそのような経験事象とかかわっている。
と見ています。

すなわち:
★ 「非知」が、ここで精神界へ流入したとしても、それは言語界では表現で
きないので、個人の内面的問題となります。
☆ というとき 内面において 非知(非思考の庭)と経験事象との接点が:

 ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応

として 現象する。とこれまで見て来ました。

ヤマシサ反応は 胸のドキドキとして その今やろうとしていることはよくな
いことだとか あるいは単純に初めての体験のようだがしっかりやりなさいと
いった意味で緊張を起こしているといったふうにして 《言語化》にみちびか
れ得ます。

ヒラメキも やがてエウレーカと言って 言語化しうるかに思われます。




ううーん。わたしはやっぱり 単純派ですね。
と言うか 精神分析等のモデルは なお抽象的すぎますね。

いま述べました或る種のモデルは どう からまりますか?
音程が 外れていますか?
 

なお 良心・ヒラメキ・ヤマシサ反応は 
★ 自由意志
☆ をも超えていると見ています。

自由意志は ヒラメキからみちびき出した概念を理論や判断に用いるというか
たちでハタラキを持つ。こう捉えているわけです。

簡単すぎますか?

お礼日時:2016/11/20 21:40

お礼ありがとうございます。


実を言えば、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」が「非知」からの侵入であるかどうかをどう判断するかを、「理性」では説明するのが難しいと言えます。(宗教的には、それを疑い続けて、探求するのが「信仰」と考える人もいます)
ここら辺が、哲学が信仰を扱う難しさにつながります。
仮に、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」が最終的に言語化されるのであれば、それが「教え」でも良いことになりませんか?(「教え」が「非知」からの侵入を言語化したものと言われたら、拒否できません)
「教え」より上位(優先的)に「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」を置くのであれば、個人間の同意は、同じ「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」によらなければなりません。
「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」に起因する、個人の行動(言語化)が、それぞれ別のものでも、結果が一致する場合もあるでしょう。
でも、それは誰もわからないと言うか、人間は言語化でしかコミュニケーション出来ない事から、共有できない事になります。
スピリチャルな考え方ならば、言語化以外のコミュニケーションが存在するという事も言えるのかもしれませんが、哲学では難しいような気がしますね。(難しいというのは、本質を言語化だけでは説明できないと言う意味です)
哲学自体が、言語でなされる限界と言うのは、やはりあると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」が「非知」からの侵入であるか
どうか
☆ 何か良からぬことを頭に思い浮かべ さらにそれを行動に移そうと
すると 胸はドキドキ 舌はシドロモドロ 顔は赤らみます。

これが わが意志――自由意志――のハタラキによるものかどうか? 

あらかじめのわがハカラヒによって そのようなヤマシサ反応を起こし
ているのか?

否。だとすれば そのハタラキは 思考や意志によるものではないと考
えられます。

つまり 良心によるのだと。良心というものを証明抜きに公理として想
定するのだと思います。

ヒラメキは 霊感と言うかぎりで やはり理性であらかじめ思考したも
のではなく またその内容に経験事象として対応するものごとがないと
ころに起きるのだと捉えられます。

★ 「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」が最終的に言語化されるのであ
れば、それが「教え」でも良いことになりませんか?
☆ たぶん 稀には そのようなオシヘがそのままヒラメキとして得ら
れる場合があるのかも分かりません。

《なんぢ ころすなかれ》というオシヘは しかしながら 直接にヒラ
メキとして得られるとは考えません。

仮りに啓示と言うとしても 最初の・第一次のヒラメキは 次のようだ
と見ます。

 わたしは わたしがわたしであるとき――自然本性のわれに還ってあ
 たかも天与の自由であるとき―― ひとを亡きものにすることも お
 のれをころすことも しないであろう。

といった内容なのではないか。つまり そのあとこの命題を 倫理規範
として・オシヘとして ととのえるのだと。

つまり オシヘの形成には 思考がかかわっているのではないかと。
間接的には つながっているわけですが。

★ 個人間の同意
☆ も オシヘの成り立ちと同じように――ヒラメキを得てそこから導
かれるとしても―― 必ず思考と意志とを介在させている。こう考えま
すが どうでしょう?

なお人間は ヤマシサ反応をものともせず良心にさからうという自由度
をも 自由意志が持っています。

そういう場合の言動が交じっているからには 同意や合意が ズレをと
もなっている場合があり得ると考えられます。(ほんとうの意向や狙い
を隠している場合もあります)。

お礼日時:2016/11/20 23:30

お礼ありがとうございます。


説明できないと言うのは、他者に対してです。
個人が、個人的根拠で、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」を理解できるのは、かまわないんですよ。
「教え」は、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」が言語化出来ないならば、成立しないんですから、単純に言語化出来ないと言えば済む話です。
つまり、この場合は「無根拠」としか説明できないわけです。(他者への説明としての「無根拠」です)
要は、「無根拠」で相手が信用するかどうかの問題ですから、基本的には信用されないと解釈するしかありません。
その際には、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」から生まれる感情から生じる行動の一致でしか、「合意」が得られないと言う事です。
その過程は別として、結果的には、共通の行動原理だけでしか、「合意」は得られません。
これを、当事者以外が見た場合は、当事者同士が「合意」した結果しかありません。(その説明は、「無根拠」ですから、理由はわからないけど、「合意」したんだと言う事です)
単純化すれば、「合意」という言葉の定義の状態が得られたとしか言えないと思います。
「無根拠を根拠とする」と言うのが、この状態を意味するかどうかは、宗教的な問題なので、わからないです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

これは コモンセンスの問題ではないのですか?

共通感覚および常識ないし共同主観。

★ 個人が、個人的根拠で、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」を理解
できるのは、かまわないんですよ。
☆ という主観がまづ起こります。この主観の内容が あなたもそうで
あるのか わたしもそうである そしてかれもそうであった・・・とい
うふうにして 共通であると認め合ったときには 主観が共同化されえ
ます。

ひとりの個人に起きていることが ひとの自然本性として生まれつきそ
なわった能力やハタラキであると想定し得た上では 感覚が共通であり
得るし その主観(思考や判断)のハタラキのありようについても 共
通であり得ると 経験的に分かり認め合えるならば 共同主観は それ
として成り立つように思われます。

そして その程度の確実さでよいのではないか。
もともと 良心は 証明抜きで想定しています。

この真実らしさといったあいまいな根拠による交通と対話と合意なのだ
と考えます。そのことは:
★ 要は、「無根拠」で相手が信用するかどうかの問題ですから、基本
的には信用されないと解釈するしかありません。
☆ という事態とおおよそひとしいと捉えられるものと思います。

すなわち 取りも直さず:
★ (その説明は、「無根拠」ですから、理由はわからないけど、「合
意」したんだと言う事です)

☆ つまり この程度の現実を互いに共有したということは:
★ これを、当事者以外が見た場合は、当事者同士が「合意」した結果
しかありません。
☆ ということなのですが よく考えてみると その《当事者以外》の
人たちも 当事者に成るときには 同じように捉え同じように振る舞う
ものと思われるのです。

基本的に同じ自然本性――身と心(精神の能力がある)――をそなわっ
た生物であり動物であるという人間の条件から そう成るのではないか
と思われるのです。

そして その《無根拠》が ヒラメキの言わば源泉であるはずなのです
が これを推理してみると いわゆる神として人間にとってけっきょく
普遍神であるということ。

有る神としていだく場合も 神は無いとみて無い神を持つ場合も 無根
拠としては同じひとつの無根拠〔なる根拠〕であることが さいわいし
ているようなのです。人間の条件として。

お礼日時:2016/11/21 00:30

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