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神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても
神に変化はない。

変化する神なら それは AI としての神でしかない。

だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんで
おのれの神を持てばよい。

質問者からの補足コメント

  • ★ ここで、「信仰論」として、これを語るのであれば、それは
    意識せずとも、「宗教」になってしまいます。
    ☆ 信仰の定義また説明が 人間だれしもに当てはまるとすれば
    そう《教えている》と受け留められるという意味でしょうけれど
    これは それとは別のオシヘがあるといった問題ではありません。
    オシヘなど じつは無いのだという場合もあるといった問題でも
    ありません。

    宗教ではなく 人間論です。

    ★ 誰もが、何を「信仰」してもかまわないと言うならば、そこ
    に「非知」を出さずとも可能です。 / 人間が何に対しても「自由」
    だと言えば良いだけなんですよ。
    ☆ いえ。《非知=無根拠=絶対=非経験の場》ゆえに その諾否
    いづれでもかまわないということです。そしてその名を・つまり神
    の名を何と呼ぼうがかまわないという意味です。

    ★ 人間本性に根源的な同一がある
    ☆ 人間の置かれた条件が 互いに同じです。

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/11/22 02:14

A 回答 (21件中1~10件)

哲学的な論争はともかく今の見え思考が有益か0理論を考える私としては無に始まり無に終わる。

たかだか20万年のホモサピエンスでは神なんぞ語れんよ。
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この回答へのお礼

★ 今の見え思考が有益か0理論を考える
☆ について なお分かりづらいのですが:

★ 無に始まり無に終わる
☆ という命題についても まだ説明をお聞きしたいです。

つまり
★ 無
☆ とは何か? から始まる主題(問題)です。

もしそのことが 目に見える・あるいは人間の認識し得る経験的なことがら
であるとするのなら それは ほとんど何も語っていないことになります。

あるいは 人間が有限の存在であり 移ろい行かざるを得ないということを
言っているに過ぎないように思います。


★ 神を語る
☆ のと 《神について 共通の定義を得ておく》こととは 別です。後者
を問い求めています。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/30 06:30

お礼ありがとうございます。


質問に対する回答としてのやりとりが、哲学や科学であってかまわないんですが、質問の趣旨がわからないと、多くの人が参加できる可能性を排除してしまうと思います。
例えば、同意する回答であっても、それがどういう意味での同意かはわからないですよね?
そうであるならば、質問の趣旨はきちんと述べた方が良いと思いますよ。
もちろん、過去の質問を見れば、その趣旨は推定できると思います。(ただ、初見の人には、質問の趣旨を読み取るのは難しいでしょう)
下手をすると、それは質問では無く、箴言や格言(アフォリズム)と捉えられてしまいます。(箴言や格言(アフォリズム)を利用する「哲学」も確かに存在しますけどね)
それ自体が、「呼び水」であると言う考えは確かにあるとは思います。
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この回答へのお礼

ううーん。まぁ――という言い方は 乱暴ですが―― 一方では
過去のわたしの質問の積み重ねがあって しかも他方では まだ
知らない場合にはそれでもかまわない・・・といった気軽な構え
での問いかけでした。

つまりは・要するに《有る神》派とともに しかもそれと同等の
《無い神》派もあるのだということ。このことを再度 提起して
みておくことに 狙いを置いたものでした。

このご回答は おおよそおっしゃるとおりだと思うと同時に ひ
と言 それでも言えるとしたら 上のようになると思います。

アフォリズムは 念頭にありませんでした。


でも このように主題をしぼって気軽に問うた質問の場合でも
あんがい議論ははずみました。

と添えると 言いすぎになりましょうか。

でも 回答のしづらい問いかけだったとしたら おゆるしを願っ
ておきたいと存じます。

二度としないとは 必ずしも約束しがたい思いも正直に言えばあ
ります。つまり 問い求めは 情報交換でもあり 互いに批判し
つつ すすめて行ってよいと思うんですが どうでしょうかねぇ。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/23 21:03

お礼ありがとうございます。


日本語で神という表現をした場合は、その言葉に絶対と言う意味はありません。(あくまで日本語の神です)
ですから、「神が神である」と言うのは、単なる同語反復なので、後の意味が日本語では通らなくなります。
ですから、神に絶対と言う概念を持たせて語っているなら、きちんとそのように表現する必要があると言う事です。
同様に、絶対を保証するのが「非知」ならば、それも述べておいた方が良いでしょう。(神がシルシであるなら、それも記載した方が良いでしょうね)
そうしないと、質問の趣旨がわからず、後段の「ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。」に対する機械的な回答になってしまいます。(制限されないから、それで良いと言う機械的な同意を求めるのが、質問の趣旨では無いですよね?)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日本語で神という表現をした場合は、その言葉に絶対と言う
意味はありません。
☆ たとえば普遍神の分身と言える八百万の神々の場合には そ
うです。

ですが 基本的に《超自然》という意味を持っています。これは
絶対のことです。

それに ここで使っている神という語は あくまで哲学の議論と
してのものです。


★ 絶対を保証するのが「非知」ならば
☆ 違います。いちばん初めには 《経験世界を超えたところ》
を想定するわけです。

《非経験の場》のことです。これは 人間の認識にとっては 経
験事象についての可知(既知・未知)や不可知ではない。

それは 《知りうるか知り得ないかが知り得ないナゾ》である。
これを《非知》と呼ぶ。・・・このように説明します。

非経験の場=非知なるナゾは もっと分かりやすい概念を当ては
めるなら 絶対や無限や不可変性などとして説明できる。うんぬ
んとつづきます。

★ 保証
☆ の問題ではなく 《想定する》問題です。

経験世界における有る無しを超えたところ。因果関係から自由な場。
性差を超えている。などなど。・・・

ということは 経験事象に対応するものごとが無いからには 想定
です。

★ 神がシルシであるなら・・・
☆ それは 誤解です。あらゆる言葉は シルシなのです。

★ 質問の趣旨がわからず
☆ この質問にかぎっては そういうふうな恰好で互いのやり取
りをすすめて行っても構わないと承知の上です。

そしてひとつには 互いに・そして一般に人はそれぞれ 《有る
神》派か《無い神》派かのどちらかであるということが 認め合
われるなら それをひとまづのゴールにしようといった見通しの
もとにありました。

りゅぱん344さんには あらためてこの質問ややり取りは 初
めからどこまでも科学であり哲学であるとうったえます。

お礼日時:2016/11/23 20:08

お礼ありがとうございます。


質問の趣旨から、大分逸脱してしまって、申し訳ありません。
実のところは、質問の趣旨は、「信仰」の対象に対するものであり、これ自体を説明するのは、難しいと言う事です。
「絶対」と言う言葉を使用した瞬間に、それは「定義」になってしまい、「反証可能性」が排除されます。
この時点で、それを前提としたら、検証の対象外になってしまいます。
ですから、それは、その対象が、「絶対」か「絶対で無い」の議論にしかならない事になります。(これは、「定義」からは、不毛な議論、もしくは「不能」です)
質問文では、神と言う言葉で「絶対」と神を同一化しているようですが、これは混同を招きます。
正しく言い換えれば、「神が「絶対」であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても(「絶対」である)神に変化はない。」でしょう。
同様に、「だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持っても(持たなくても)、神=「絶対」に変化は無い。」と言い換えられます。
この段階で、人間がどう考えようと、神が変化しないんですから、どう考えても良いと言う事しか言えません。(人間と神に直接的な作用が無いなら、これでかまわないわけです)
ですから、これは「不毛」な議論になります。
次に、質問の趣旨からはずれてしまった、「信仰」とは何かと言う問題です。
これは、信仰対象を検証する必要がなければ、形式科学では扱えそうです。
ただし、これが人間の「精神世界」に属するとしたら、形式科学では扱えない可能性も留保します。
これは、人間の「精神世界」が形式科学の論理だけでは構成されていない可能性があるからです。
ただし、近代科学では、人間の「精神世界」に形式科学の論理構造を持つ「理性」が内包され、それは「言語化」されて表象(表現)されると考えられます。
ただし、「言語化」自体が、一定のルール(言語ゲーム)なので、それが完全な「意志伝達」を保証しないのも事実です。
たとえば、「ヒラメキ」は、神(もしくは「非知」)からの作用として言語化されていますが、そうは解釈されない場合もあるでしょう。
明確化するには、「神(もしくは「非知」)からのヒラメキ」と表現するのが妥当です。
「ヒラメキ」は、「精神世界」の一つの現象でしょう。(「ヒラメキ」が単一からの作用である保証はありません)
だとしたら、それが神(もしくは「非知」)からの作用と言えるのかと言うのが、問題になります。
「ヒラメキ」が何から起因するかを、どう判断するかが「良心」や「ヤマシサ」にあるならば、それは人間の問題になり、「ヒラメキ」自体が、人間の行動に絶対性を持ちません。
そうなれば、人間の行動を規制するのは、「人間」そのものにあり、神なる絶対性を考える必要が無くなります。(普遍性のある妥当性ならば、こちらの方が合理的な感じもします)
ここで、「人間」とはどのように行動するかを考えれば、人間論です。
人間の行動原理を「信念」と呼べば、それは何らかの「信仰」と言えるでしょう。(一般的には、それが何かの対象を持たない場合は、「信仰」とは呼びません)
かなり、質問の趣旨からは逸脱してしまいました。
問題としては、さらに検証が必要なようです。
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この回答へのお礼

ご回答謝謝。

★ 「絶対」と言う言葉を使用した瞬間に、それは「定義」になって
しまい、「反証可能性」が排除されます。
☆ そんなことはありません。絶対も無限も神も シルシです。

そうでないとしたら 《かみ》という言葉を言ったら それがほんと
うに神なのだとなってしまいます。あくまで神本体を指し示すシルシ
です。

シルシを用いて 仮りの説明を人間はおこないます。

★ 神が「絶対」であるなら
☆ と《神が神であるなら》とは 同等です。後者は わづかに無限・
不可変性・真理といった言い換えをもふくみます。

★ この段階で、人間がどう考えようと、神が変化しないんですから、
どう考えても良いと言う事しか言えません。
☆ そうですが 後のほうの《考えても》は 神について規定するこ
とを含むときには 注意が必要です。

神にふさわしく定義しなければなりません。

★ (人間と神に直接的な作用が無いなら、これでかまわないわけです)
☆ ところが 大きな問題があります。

《非知なるナゾ⇒ 非思考の庭なる動態(信仰)》としては 人間一般
は別として 《個別のわれとそして神とには 直接的な作用があるとも
無いとも 分からない》というのが 精確な定義です。

主観内では 神を見たとか神の声を聞いたといった体験が じつは あ
るかも知れないのです。あると断定することが出来ないと同時に 無い
と決めつけることも出来ません。

そういう非知なるナゾです。絶対というのは そういうものです。

★ (普遍性のある妥当性ならば、こちらの方が合理的な感じもします)
☆ この普遍性なる概念内容として言語化しえたヒラメキは 非思考の
庭で実を結んだものと捉えるということです。
(自分でそのヒラメキを得る前まで 得た内容を実際に考えていたんだ
というのなら わざわざヒラメキと言う必要はないわけです)。

★ 人間の行動原理を「信念」と呼べば、それは何らかの「信仰」と言
えるでしょう。(一般的には、それが何かの対象を持たない場合は、
「信仰」とは呼びません)
☆ 質問から外れていませんが ここでは 信念・信条は 何がしかの
言葉で表現されているからには 思考に非ずの信仰とはカテゴリとして
別です。

《何かの対象を持つか持たないかそれが分からない》のが 信仰です。
神はそういう対象です。科学です。

お礼日時:2016/11/23 16:30

回答に質問を書いてしまって、申し訳ありません。


宗教的な「教え」に対して、問題があるとしたら、それは「信仰」の中に言語化出来ない「体験」が必ず必要だとしたら、それは言語化された「教え」で教化する事は不能ではないかと言う事です。
要は、「信仰」の真実を言語化する事が、「信仰」に「体験」が必要だとする宗教にとっては「欺瞞」になってしまうと言う事です。
もちろん、「教え」が「体験」を語る事では無く、「体験」に至る道を示唆する事であれば、それは「欺瞞」ではありません。
ただし、その言語化は、「禅問答」に近い形になるでしょう。(それは、「体験」するまで、「答え」が無い事を意味します)
無条件に信じざるを得ないと言っても、人間は無条件には信じられません。
ですから、この命題自体が「禅問答」なわけです。
親鸞の「無義を持って義とする」も、もしかしたら、「禅問答」なのかもしれません。
同様に、「非知だから絶対である」も、その真意は「禅問答」だと言えるかもしれません。(それが、「信仰」に至る道であるとすればです)
最初から、そうおっしゃっていましたね。(それは、「ナゾ」である)
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この回答へのお礼

いえいえ。わたしは 自論について批判を受けつつ述べたいです。
ご回答をありがとうございます。

★ 言語化された「教え」で教化する事〔は不能ではないか〕
☆ おっしゃっていることは分かります。しかし ここも微妙です。

《教化》するということが もし人の自然本性からその潜在能力を
引き出すという意味であるならば 思想としてのオシヘをその教材
にして教育することは できるはずです。

神秘思想であっても構わないはずです。効果が薄いだけです。
★ 「禅問答」
☆ となった場合も 効果がゼロだとは言えません。

問題は そのような《教育》を通り越して言わば主観の押しつけに
なる場合です。

オシヘを――ちょっと言い得て妙な倫理たるべき内容があるからと
言って―― 守るべき掟や戒律たる規範とすること。つまりその命
題そのものを無条件に受け容れるべきものと説くことにあります。

そのように神を説き信仰へと説き伏せるという思考が 芽生えてい
るとすれば そこで 気が違っています。

信仰に神秘体験は 基本的に要りません。非知を受け容れればよい
わけですから。

★ 「教え」が「体験」を語る事では無く、「体験」に至る道を示
唆する事であれば、それは「欺瞞」ではありません。
☆ 経験世界での出来事を おのが非思考の庭なる動態(つまり信
仰)と結びつけてその世界を解釈することは 主観の内で〔のみ〕
あり得ます。

摂理だとか因果応報の説などにまで成りました。ただし それらも
主観の外に出て他の主観に押しつけようとすれば アウトです。

これこそが摂理だと言って主観としての信仰体験を 語っても――
表現の自由であって――構わないのですが 神の代理人と称してそ
の聖職者の権限体系として成る組織の同調圧力(クウキ)を利用し
て説き伏せることは 人の意志を踏みにじる不法行為です。

問題は その信仰体験を聞いてその《「体験」に至る道を示唆する
事》は どうでもよいことであって そうではなく すでにそなわ
っている・神とわれとの関係を自覚するきっかけになるかどうかで
す。そこにヒエラルキアも宗教も要りません。

オシヘの研究のみです。

★ 無条件に信じざるを得ないと言っても
☆ いえ。《信じる》は 思い入れや強い思念のことではなく 非
知なるナゾとの関係を無条件に受け容れることのみです。

お礼日時:2016/11/23 08:27

お礼ありがとうございます。


2.「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」を行動に移す受容体の反応が異なっている。
3.「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」を信用できずに、行動が一致しない。
がありうると言う事ですね。
「自然本性」と言うのは、単一なのでしょうか?(あくまで、性質としてです)
「ウソをつく」というのは、「ウソでない事」を知っていると言う事ですが、「ウソでない事」=「自然本性」なのでしょうか?
「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」に従う事が、「自然本性」と言う事ですかね?
たとえば、「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」に従うのを「教え」とした集団は、「宗教」でしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ヒラメキとして得られた内容は それを言葉で認識した《思想》が どの
ように用いられるかで 有効性・有益性・有用性が決まると考えます。

良心⇒ヤマシサ反応をめぐっては ヤマシサを素直に受け留め良心に従う
〔ことになる〕か それとも逆らうかだと思います。

逆らうという判断は イツハリをえらびウソをつくことだと捉えます。

ウソ・イツハリは おのれのであれ相手のであれ その心ないし意志を踏
みにじることとして認識されるものと思います。

自然本性に もし自然法といった規範がそなわっていると見る場合には
この法に悖るという意味で 不法行為として扱われるのだと。

この意味合いで――もとは主観に発しながらも一般に――善悪の感覚お
よび認識をもって捉えるようになると。



自然本性とは 身と心です。感性の原野と思考の緑野です。

思考の緑野には 記憶と知解と意志の三つのハタラキがあります。

精神の秩序作用と 
精神が精神するかたちで記憶としての情報を得る(認識しさらに加工をも
おこなう)と
情報をおのが志向性のもとに捉えそれらの取捨選択・その判断・その結果
の実行です。

この三つ目の意志の判断において ウソ・イツハリをもえらぶ自由度が発
揮され得ます。

心に従う《まこと》をえらぶ場合にも ワタシは 選択・判断・実行が自
由であるように生物として出来ていると見られます。

身と心とのほかに 自然本性 + α の α として 非思考の庭が想定されま
す。

人間にとって《非経験の場⇒非知なるナゾ》が想定されるかぎりで ワタ
シがこれとの関係において 諾否いづれかでそのナゾを受容するとき わ
が心に――つまり 身と心とを超えたところの我が心に――非思考の庭が
成ります。(すでにそなわっていたそれが 自覚されます)。

★ 「ヒラメキ・良心・ヤマシサ反応」に従うのを「教え」とした集団は、
「宗教」でしょうか?
☆ ヤマシサ反応に素直に従うかどうかで 自然本性としての広義の善に
正と負との意志行為(判断)が生じます。マコトとウソ・イツハリとです。

ここから善悪論がみちびかれ 倫理という主題(問題)が問われるように
なります。

倫理について規範を得ると オシヘになり オシヘを良心の源の非知(神)
だと――まちがって――説くのは 宗教です。

お礼日時:2016/11/23 04:29

お礼ありがとうございます。


結局、「自然」のままで良いと言う事なんでしょうか?(「非知」がはからってくれるって事で、それは絶対なわけですよね?)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ええっと。
★★(回答№14) ただ、質問されているわけですから、何か疑問がある
んじゃないでしょうか?
☆ この問いにからませてですが わたしの質問は 神論の関係では常識や
定説への疑問から出発しています。そして おおむね批判することが出来た
とも 自分では思っています。

新説を世に問うのは 哲学に限らず学問のあゆみです。

★ (「非知」がはからってくれるって事で、それは絶対なわけですよね?)
☆ ここも微妙なんです。

非知は絶対ですが その絶対とわれとの関係は 関係じたいは 必然的に例
外なく成り立つものの その一人ひとりの具体的な関係のありさまは これ
また人それぞれです。

言いかえると あくまで個人の内面として〔のみ〕の信仰は 具体的な展開
が やはりおよそ個人に固有のものとなります。

そのとき わたしの主観にあっては:
★ 「非知」が――わたしの願いを絶対的に――はからってくれる
☆ と思うことは 自由なのですが そのことが ほかの人の主観にとって
も有効な現実であるかは まったく保証の限りではありません。信仰の個体
性です。

★ 結局、「自然」のままで良いと言う事なんでしょうか?
☆ 1. 生まれつきそなわった――思考や判断力等々の――自然本性のま
まで その潜在能力を引き出し伸ばして行けば よいと考えます。

2. ただし自然本性における自由意志は おのれの心・つまり一般にもの
ごとについて良いと思う心に逆らうような自由度をも持っています。要する
に わたしはウソをつきます。

3. したがって自然本性には 傷がつきわがヘソは折れ曲がって行きます。

4. その結果 たとえば神論についても 傷ついた思考や判断が用いられ
勝ちに成ります。

5. つまり つねにこの――社会的には相当入り組んで複雑な様相を呈し
ているところの――神についての思想を 互いに自由に批判しあって元のあ
り方に直す必要がある。こう考えますし そのように行動しています。

6. シュウキョウは 要するにその教祖も信徒も もっぱら自分たちこそ
が神の代理人であるとうそぶいている。

7. 従ってそれは 主観の内だけにとどめていなさい。というのが 宗教
批判です。主観の外に出たら アウトです。主観から外に出たらそのときが
精神錯乱です。

お礼日時:2016/11/22 08:02

お礼ありがとうございます。


無根拠(無条件)に信仰すると言う事をほとんどの宗教で言及しているというのは、それが正しいと言う意味では無いです。(もちろん、教えとも無関係です)
どのような宗教でも、理性により理解できない事があると、言及していると言う事です。
つまり、宗教(信仰)では、そのような方法論が必要だと言う事です。
また、形式科学を用いた理性では、その説明は難しいと言う事を述べました。
これは、無根拠(無条件)に信仰すると言う事は、形式科学を用いた理性では理解が出来ないと言う事です。
誰でもが共通に持ちうる概念を「善」と呼ぶならば、人間本性は「善」であろうと言う概念が「性善説」です。
「合意」に関して、第3者も人間本性として「合意」するだろうと言う概念は、合意事項が「善」であれば、「性善説」だろうと言う比喩です。(別に「合意事項」が「善」だと言うわけではないです)
「非知なるものに、相対的な人間が無条件に信仰として関わる」という概念については、「ある人が認識できない(もしくは認識事に対してしない)事に対して、言語化して説明する事」=「教え」とすれば、まさに「教え」にほかなりません。
上記の事は、無根拠ゆえに、形式科学を利用した理性では認識できません。(無根拠では、形式科学の論理は無いわけです)
ただし、無根拠を根拠がいらないという意味で使用している場合は別です。
一般的には、そういう思考をする概念を「信仰」と呼びます。
つまり、「有神論」も「無神論」も無根拠(非知)に対する「信仰」として同じだと言う事は言えます。
ただ、それしか言えないんです。
ここで、「信仰論」として、これを語るのであれば、それは意識せずとも、「宗教」になってしまいます。
誰もが、何を「信仰」してもかまわないと言うならば、そこに「非知」を出さずとも可能です。
人間が何に対しても「自由」だと言えば良いだけなんですよ。(人間の「自由」に関しては、また哲学的な問題ではあります)
「性善説」と言う言葉が問題ならば、人間本性に根源的な同一があると言えば良いだけです。(第3者も「合意」できるというのは、そういう意味ですよね?)
どうしても、「非知」との関わりが必要な理由があるんじゃないですか?
別に説明する必要はありません。
それは、ご自身で納得されていれば、それで良いんです。
ただ、質問されているわけですから、何か疑問があるんじゃないでしょうか?
「絶対」だからという理由は、伺っています。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 無根拠(無条件)に信仰すると言う事
☆ は 微妙です。定義の仕方として なおまだあいまいです。

 無根拠なるものと我れとの関係。
 これが 信仰である。
 そしてその関係は無条件に人間におとづれて来ている。
 したがって 人間は 分かったと言って受け容れるか または
 そんなものは嫌だと言ってその〔先天的な・または超経験的な〕
 関係をやはり〔信じないとして〕受け容れるか になる。
 なぜ そのように同じ無根拠なる非知が 人間にとって信じる
 と信じないとの二つの事態になるか?
 相手が 絶対だからだ。

けれども この信仰はあくまで個人にとってのことです。
集団はおろか ふたりの人間のあいだにすらその共有はあり得ま
せん。

信仰の共有と言ったら その《共有》という認識において 絶対
なる非知を 可知として扱っています。

認識しえたから われわれ二人の信仰は互いに同じ内容であると
言えるのであって しかもその認識は ウソである。ウソでない
と言うには 無根拠が有根拠として認識し得たと言わねばならな
い。

ですから 宗教の言うことは 信用できません。《オシヘ》を持
ち出す時点で 精神錯乱に落ち入っています。その有根拠を無根
拠だとして 信じなさい(無条件に受け容れなさい)と説いてい
るからにはです。
 
★ 理性により理解できない事がある
☆ これだけでは 無根拠の信仰を説明し切っていません。

★ 無根拠(無条件)に信仰すると言う事は、形式科学を用いた
理性では理解が出来ない
☆ ですが 無根拠なるものと我れとの関係を 諾か否かで受け
容れることという信仰の説明は 科学です。

★ 誰でもが共通に持ちうる概念を「善」と呼ぶならば、人間本
性は「善」であろうと言う概念が「性善説」です。
☆ そういうことでしたらそれは 天与の・人間の条件を 人間
がけっきょく受け容れるものだ・そしてそれを善と見る と言っ
ているということです。別に人間の本性が善か悪かを問い求めた
結果ではない。

★ 一般的には、そういう思考をする概念を「信仰」と呼びます。
☆ 信仰は すでに定義しましたように はじめにおいて《思考》
でも《概念》でもありません。《非思考》としての現実です。

補足欄へ。

お礼日時:2016/11/22 02:03

私もそう思います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

こうなるとそのような意見の方が 多いように見られます。

お礼日時:2016/11/22 01:26

もちろん、その通りです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/11/21 16:16

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