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1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけを
とおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史
の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。

2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれ
るか?

3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題
に心から同意することと同時なのではないか?

4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし
てあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないの
だ。この認識とそれに見合った身における感性的な秩序のようなものが成り立
つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。




5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるの
だろうか?

6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つ
まり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれ
たしがらみは無くなっていると言えるだろうか?

7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史
が終わらないという場合もあるだろうか?

8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

質問者からの補足コメント

  • ★  [ 自我としてのこの我 ] と [ 人類の一員としての我 ]
    ☆ 粗い解釈ですが 《個性》と《自然本性》と呼び換えます。

    理論としてではなく 表現から誤解が生じやすいのではないか。

    どちらにも《我》が入っています。とすると 自然本性の一つの能力としての
    《意志》が どちらにも含まれるように錯覚しやすい。

    つまり 個性としての意志と本性としての意志といったようにふたつの意志が
    ある。つまり われが二人いるかのように見られかねない。

    言いかえると そうではなく 個性も 自然本性なる意志のはたらかせ方によ
    って 生じたわけです。本性に付け加わった褒められるべき栄光と褒めたもの
    ではないゴミとです。

    二項対立が あたかも相い容れない二元論であるように見られてしまいがちで
    はないでしょうか。

    それに――昔の議論ですが――《自我》は 存在全体なるわれをも意味し得る
    のでは?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/28 20:19
  • ご回答をありがとうございます。

    二点 いづれも 互いに了解・・・でいいですよね。


    保留させてもらった《悪》の問題について お礼欄に書き込むことが
    出来ればと思っています。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 00:56
  • №8《無意識》論です。

    次の用語を言いかえてみます。:
    (α) [ 人類の一員としての我 ] :先天的われ;先験的・超経験的・恩恵的。
    (β)  [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ;意志行為的・人為的・ときに作為的。

    (α): 超経験の場(チカラ)とつながる経験存在としてのわれ(霊我=アートマン?)
    (β): 自然本性(身と心)の内の心(精神)の中の意志による思考および行動が
        その歴史を築いて特には記憶なるアーカイヴに蓄積されている。その性格。

    無意識は 《意識的起動から自由である》にもかかわらず (β)に所属するか?
    ★(A№4) 「無意識的に同意できるような思考回路」を自らの脳に組み込む
    ★ 無意識的記憶として蓄積される
    ★ 人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可能に
    なるきっかけを得る

    ☆ これを 良心(α)なるめぐみが しのぐか。

      補足日時:2017/05/29 10:18
  • 4.
    ★★(同上)3. ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。 / ど
    ちらが正しいということにはならないのかもしれません。
    ★ ここはむしろ謙虚に述べているところです。
    ☆ そうでしたか。

    ★ つまり、
     ☆存在としては互換可能性はないのだと知る。
    ★ というのは(わたしにすれば)詭弁という解釈も不可能ではないものであり、
    ☆ そうですか。
    ★ 何より、
     ☆免れたことのとうとさ。
    ★ といった視点は不合理だということになりますね。 / ただ、別の視点から見
    た場合、その見解は、一応筋が通っているだろう、と申し上げただけ。
    ☆ そうでしたか。ここは かなり隔たりがあるようです。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 23:45
  • 末尾の《基体》は 《うつは(器)》と言うと分かりやすかったです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 19:19
  • 別の視点を導入してみます。次のような理解は できますか?

    神:神の法  = 永久法・・・・・・・・最終原因
             ↓            ⇊
    人:自然本性  = 自然法・・・・・・・ (α) [ 人類の一員としての我 ]
             ±(プラスマイナス)    ±
    人:意志の自由度 ≒人定法 ・・・・ ・・(β) [ 自我としてのこの我 ]



    ☆ 永久法などについては ヰキぺなどを参照ください。
    人定法は 実定法で出ています。

    法と宇宙の法則とがまぎらわしく これまで持ち出さなかったものです。
    またわたくしとてしては じっさいあまり理論としても議論としても持ち出
    したくないものです。
    (規則は それに反する行為にまつわる咎めの意識を醸し出すだけだと 思
    われるからです)。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/04 13:47
  • ☆☆(№2お礼欄) ~~~~
     ★ 貴方の言う和解とは全てを受け入れるということでしょうか。
     ☆ これは どうでしょう。どうなんでしょう。いかがお考えに
     なりますか? 

     このスレッドで答えが出るといいと思います。
    ~~~~~~~~~
    ☆ こんなことを書きましたが 《すべてを――特にはすべての人を
    ――受け容れるということ》は とうとく大事であると考えます。

    【Q:《すべての人に対してすべてのものになりました》とは】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8811185.html
    ☆ これは わたしの問い求めですので。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/11 08:13

A 回答 (25件中11~20件)

#17です。



1.
>人知を超えた庭に 人知を仮構するかたちの理論仮説

わかりました。
こちらとしては、
☆仮構する
という作業時点で、すでに思考対象となっているわけで、
☆非知
と呼ぶにはそぐわない、という見解ですので、やはり見解の相違ということになるのかな、と思います。

2.
>★ [ 人類の一員としての我 ]は 外部刺激による記憶はなじまない、ということは言え
るかもしれません。
☆ いいえ。内部にも――つまり 思考や理性にかかわる記憶には―― (α)はなじみ
ません。
すなわち:
★ ただ、遺伝子自体が記憶であること
☆ この記憶は 身体( 感じる)=精神( 考える)にかかわる人間のヨコの関係に属す
るからです。

なるほど、一理ありますね。
ちょっと表現が不味かったかもしれないと思っているところですが、
★内部記憶
とは
★’内部刺激によって生成されるところの記憶
といった意味に受け取っていただければと思います。
つまり、
☆身体( 感じる)=精神( 考える)にかかわる人間のヨコの関係
がなくとも、『人類』としての内部刺激は存在するわけです。

> [(α)が」 ]  遺伝子において 最終原因と直結して

いたとしても、むしろ自然なことだと思います。

3.
>★ つまり、先天的な[ 人類の一員としての我 ]に、後天的な [ 自我としてのこの我 ] を対応させた形をとっている命題です
☆ よね。無意識は (α)とは 何の関係もない。と断定できるはずです。

外部(刺激による)記憶(無意識)は、そのとおりですが、内部(刺激による)記憶(無意識)は前述したとおりで、
☆何の関係もない。と断定
はできません。

二点ほどお願いがあります。
1.当初の論点にとって必要であれば別ですが、一旦、無意識論から離れませんか。
2.《仮構知・虚構知・仮想知》といった造語をお使いになる場合、それなりの注釈を併記していただくほうが助かります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
☆☆ 仮構する
★ という作業時点で、すでに思考対象となっている
☆ もちろん そうです。つまり 絶対なるナゾについて 最終原因というように
《原因》と名づけるところからすでに 何がしかの思考が入ってします。原因は経
験事象の問題だからです。

まったくの非知なるナゾについて さらにそこに連続説なる仮説を 派生命題とし
てのごとく入り込ませる。その結果が 《最終原因》という派生的な想定す。

ナゾとわれとのタテの関係は 非知だけ(非知のまま)の場合には それを受け容
れるわが心の庭は 非思考です。

この非思考の庭について さらに連続説を採り入れたいというのが 《最終原因と
直結するわれ》であり これを称して[ 人類の一員としての我 ]です。これが 《仮
構知》です。

★ 見解の相違
☆ ではなく 同じもの(ナゾとわれとのカカハリ)についての命名にからむ意志
のあり方の相違です。

2.
★ 『人類』としての内部刺激は存在する
☆ 微妙ですね。複雑です。

それについての説明があります。:
☆☆  [(α)が」 ]  遺伝子において 最終原因と直結して
★ いたとしても、むしろ自然なことだと思います。
☆ 反論の仕方が 微妙・複雑になります。

《仮構知》として《最終原因と直結するわれ》が想定されたなら そこから当然
のごとく この場合のように遺伝子〔という経験事物〕が これも 《直結して
いる》というのは たしかに論理的帰結です。

でも じっくり考えてみますと それは 《仮構知》にもとづき言えることです。

しかも 仮構知は 《非知を受け容れた非思考の庭》の中に 隠し味のごとく何
がしかの思考(≒因果関係)をも――なぜなら連続説を欲するゆえ――入れたこ
とにもとづきます。

つまり 遺伝子の直結性は やはり想定の上の仮構知になるからです。
(蛇足として言いますと もし仮構知説をこばむなら 最終原因と人間たるわれ
とは 何の妨げや断絶もなく連続して直結していることになります。すべては人
知のおよぶヨコの関係だけとなります)。

3.
★ 内部(刺激による)記憶(無意識)
★ 《仮構知・虚構知・仮想知》
☆ について触れ得たと思います。

★ 無意識論
☆ は 補足欄の上から三つ目で その重要性をおっしゃっています。

お礼日時:2017/06/02 18:45

#15です。



>(か) すなわち [ 人類の一員としての我 ] は 起源として人知(感性や理性)
を超えている。そのわれには 意識の問題は――つまり 《無意識》なる概念は
―― なじまない。のでは?
(き) ★ (無意識=(内部外部を問わず)記憶 )
☆ この記憶も (α)なるわれには なじまない。

外部刺激による記憶はなじまない、ということは言えるかもしれません。
ただ、遺伝子自体が記憶であることと、無意識という脳の仕組みを生来的に備えているわけなので、
☆なじまない
と言うことはないと思いますけどね。

>~~~。
 それは――先天的な自然本性なるわれに すでに後天的(つまり けっきょく先
天的としては潜在的であったよう)な行為能力がかかわっていることになるから
には―― 言わば《仮構知・虚構知・仮想知》と呼べるのではないか? という
趣旨です。

ここからしてすでに誤解があると思うのですよね。
つまり、先天的な[ 人類の一員としての我 ]に、後天的な [ 自我としてのこの我 ] を対応させた形をとっている命題ですので、
☆ことになるからには
といった論理展開をされると、見解の相違と言わざるを得なくなるのでは?
あと、やはり感じるのは、非知復権のための論理が優先されているような気がしますね、
余談ですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 非知復権のための論理が優先されているような気がしますね、
☆ ここが先に目に入りました。急いで申しますが 《仮構知》は 非知説の上に築か
れるものとは思っています。

非知なるナゾ   ⇒〔連続説に拠る派生命題:〕 最終原因
  ↓                      ⇊
霊我〔=非思考〕 ⇒〔連続説に拠り人知を仮構:〕[ 人類の一員としての我 ] (α)

《非知なるナゾ》と想定において一体であると捉える《霊我》は 《人知》を超えてい
ます。

けれども 連続説を採用するなら ナゾを最終原因と仮定し得て それとのカカハリと
して《ナゾと直結するわれ(α)》をも仮定することになります。

これが 人知を超えた庭に 人知を仮構するかたちの理論仮説です。


(か)(き) 
★ [ 人類の一員としての我 ]は 外部刺激による記憶はなじまない、ということは言え
るかもしれません。
☆ いいえ。内部にも――つまり 思考や理性にかかわる記憶には―― (α)はなじみ
ません。
すなわち:
★ ただ、遺伝子自体が記憶であること
☆ この記憶は 身体( 感じる)=精神( 考える)にかかわる人間のヨコの関係に属す
るからです。

(問題になるかも知れないのは 遺伝子が それでは 《最終原因との直結》を具体的に
示すものであると成った場合です。でも その場合には 今度は (α)が すでに正真
正銘の《直結》部位であることに成って すでに《仮構知》を言う必要がなくなります。
《仮構》ですらなく (α)は 遺伝子において 最終原因と直結しているとなります)。

★ 無意識という脳の仕組みを生来的に備えている
☆ 脳の仕組みは むしろ思考および感性にかかわる意識の仕組みだと考えられます。意
識はむろん潜在するのが ふつうですが。――つまり そういった現実の経験事象とのか
かわりにおけるわれは (α)ではない。と言えるはずですよね。


★ つまり、先天的な[ 人類の一員としての我 ]に、後天的な [ 自我としてのこの我 ] を
対応させた形をとっている命題です
☆ よね。無意識は (α)とは 何の関係もない。と断定できるはずです。

( α )に人間がその人知によって《意識の無または有》を規定することは 《先天的》で
はないことを意味します。

お礼日時:2017/06/01 17:19

#14です。



1.
>梵我一如には:
★ ~~~~
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分
なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂
理にとって)皆無である( B )」
という視点も含まれてはいない・・・。(たぶん)
~~~~
☆ ここは 微妙です。[ 人類の一員としての我 ]は 梵我一如なるわがアートマ
ン(霊我)において成り立つという理論です。つまり《最終原因に直結するわれ》
ですから。
[ 自我としてのこの我 ]は その〔いまのタテの関係の〕あとのヨコの関係におい
て生じるわが実存の軌跡とそこに出来る個性です。良し悪しをふくめて。

☆微妙
というなら「言ってない」とほとんど同じことでしょう。

2.
>a.
★★ ある経験における意識によって「後発的に醸成される無意識」
★ これは、意志的、無意志的に拘わらず、経験事象においてある選択が為され
た結果として生じる無意識であり、
☆ ですね。ただし この無意識を:
★ 「本来内部的に自発的に発生している無意識」(A)が主導しているわけで
はない。
☆ でしょうか? 主導しているのでは? つまり 負けているとしても 基本
は この A が ふつうに自然に本来のわれだと思われますから。

★ある選択が為された結果として生じる無意識
というのは、その選択をしなければ発生しなかった無意識、という意味です。(無意識=(内部外部を問わず)記憶 )

3.
>そして 命題A には 《無意識》はそぐわないと考えます。《最終原因に直結す
るわれ》は 現実のわれが有意識としても無意識としても捉えることは 出来な
いはずです。超意識なはずです。論理上の《仮構知》では?

非知論者としては当然のご見解と受け止めました。
一応、
☆《仮構知》
について解説お願いします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


3.
☆☆ 《最終原因に直結するわれ》は 論理上の《仮構知》では?
☆ ここは 議論を早めすぎました。

1.
梵我一如説をめぐって見解を問うたことについても 勇み足でした。

問題は [ 我 ]の区分にあると捉え 焦点を《無意識》なる概念に当てています。

(α) [ 人類の一員としての我 ] :先天的われ;先験的・超経験的・恩恵的。
(β) [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ;意志行為的・人為的・ときに作為的。


(あ) [ 人類の一員としての我 ]は 《最終原因に直結するわれ》ですか?

(い) それは 《最終原因とわれ とのタテの関係》と言えますか?

(う) 言えるとしたら [ 自我としてのこの我 ]は [ 人類の一員としての我 ]
を基本とする個別の存在なるわれの・そのわれどうしの――つまりは 彼我のあ
いだの――ヨコの関係の問題だと捉えることができますか?

(え) 仮定の上に仮定を加えて推論していますが 《意識――つまり思考およ
び感覚の――》の問題は あくまで・もっぱら ヨコの関係にかかわるはずです。

(お) タテの関係は そのいまの有意識も無意識をも超えています。

(か) すなわち [ 人類の一員としての我 ] は 起源として人知(感性や理性)
を超えている。そのわれには 意識の問題は――つまり 《無意識》なる概念は
―― なじまない。のでは?

(き) ★ (無意識=(内部外部を問わず)記憶 )
☆ この記憶も (α)なるわれには なじまない。

(く) 記憶は 知解(思考)や意志とともに綜合的な人知としてあり しかし
これらは ヨコ関係における事象とその概念であるからには タテ関係とは別で
ある。たとえタテ関係にも恩恵としてあたえられていると見たとしても。

(け) あと かんたんですが 記憶や知解力そして意志自由といった《人知》
が ヨコの関係としての経験事象であるだけではなく もしすでにタテの関係の
内にあって めぐみとしてそなわっていると見たとした場合:
 
それは――先天的な自然本性なるわれに すでに後天的(つまり けっきょく先
天的としては潜在的であったよう)な行為能力がかかわっていることになるから
には―― 言わば《仮構知・虚構知・仮想知》と呼べるのではないか? という
趣旨です。

お礼日時:2017/05/31 19:38

#11です。



1.
>☆☆(α) [ 人類の一員としての我 ] (:先天的われ;先験的・超経験的・恩
恵的。)
★ を重視しているのは、今さら言うまでもないことだと思われるので。
☆ あぁ。でも (α)と(β)と――この分け方はわたしがやったのですが――
分けるのではなかったですか?

そうですよ。
分けた上で、(α) [ 人類の一員としての我 ] しているのは言うまでもない、という意味なのですが?
何か問題がありますかね。
何をおっしゃろうとしているのか、意図がよく掴めません。

2.
>★ 「彼の真我」と「我の真我」を対立・対応させて捉えている点で、差異はあ

☆ ううーん。いや 理論上――論理上――《最終原因に直結するわれ》と規定
するかぎりで 彼我のあいだの差はないと想定されますが。

端的に言うなら、梵我一如は、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
とまでは言ってないように見える、ということ。
従って、その前提となるところの、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
という視点も含まれてはいないのではないでしょう。(たぶん)
★あくまで「我」の安寧のための思想
ということでもあるようですし。

3.
>☆ これは それでも善や負の善をわたしは用いていますので やはり中立性に
近づけて説明し弁明したところです。(それのみです)。

わかりました。

4.
a.
>★ 意識によって醸成される無意識と、本来内部的に自発的に発生している無
意識の両方がある。
~~~。
~~~~。
☆ これはですね。ずばり わたしの理解を言います。前者も後者もいづれも
《最終原因から生まれていてそれに直結したわれ》であるのではないか?です。
前者には [ 自我としてのこの我 ] が含まれる場合があるのかも知れませんが
もしそうだとしても その我を 後者のわれが主導するものと思われます。

☆主導
というか、起源は後者ですからね。
★「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
なので。
無意識領域は最初から確保されている。
ただ、ある経験における意識によって「後発的に醸成される無意識」というものがあります。
これは、意志的、無意志的に拘わらず、経験事象においてある選択が為された結果として生じる無意識であり、「本来内部的に自発的に発生している無意識」が主導しているわけではない。

b.
>次のご説明に合いますかどうですか。:
★ ~~~~~~~
また、なぜ、
 ☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒
 ヤマシサ反応》
が、
 ☆本来内部的に自発的に発生
することになったのか?という問いに対しての解が、
 ★「一連の命題(A~C)」
ではないかと思う、と謙虚目に補足している。
~~~~~

私としては、無意識を(良心、つまり、人の本性は善とは思わないので)、
 ☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒
 ヤマシサ反応》
と解釈することはしないのですが、特に重要だと(わたしが勝手に)思うのは、
★「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
という無意識を人間は備えているのではないか(気づかないだけで)、ということになりますかね。
上記の内容は、そういった意味です。

c.
>☆ ただし こちらの説では 自然本性やその良心などのハタラキは 《無意
識》とは 呼びません。もともと 《意識ないし思考や感覚》を超えていると
想定しているからです。超意識ではあっても 有意識でも無意識でもないとは
見ています。

そうでしょうね。
合わしていただいているとは思っていました。
この辺りも留保事項になりそうです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
(α) [ 人類の一員としての我 ] :先天的われ
(β) [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ
☆ これらを区別するはずだという意味は 以下の議論で 特には《無意識》の
問題にかかわっています。

2.
梵我一如には:
★ ~~~~
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分
なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂
理にとって)皆無である( B )」
という視点も含まれてはいない・・・。(たぶん)
~~~~
☆ ここは 微妙です。[ 人類の一員としての我 ]は 梵我一如なるわがアートマ
ン(霊我)において成り立つという理論です。つまり《最終原因に直結するわれ》
ですから。

[ 自我としてのこの我 ]は その〔いまのタテの関係の〕あとのヨコの関係におい
て生じるわが実存の軌跡とそこに出来る個性です。良し悪しをふくめて。


4.
a.
★★ ある経験における意識によって「後発的に醸成される無意識」
★ これは、意志的、無意志的に拘わらず、経験事象においてある選択が為され
た結果として生じる無意識であり、
☆ ですね。ただし この無意識を:
★ 「本来内部的に自発的に発生している無意識」(A)が主導しているわけで
はない。
☆ でしょうか? 主導しているのでは? つまり 負けているとしても 基本
は この A が ふつうに自然に本来のわれだと思われますから。

そして 命題A には 《無意識》はそぐわないと考えます。《最終原因に直結す
るわれ》は 現実のわれが有意識としても無意識としても捉えることは 出来な
いはずです。超意識なはずです。論理上の《仮構知》では?

その基本前提の上で この超意識なるわれも ふつうの思考や感性〔にかかわる
意識〕の現実に――タテからヨコへと――つながって来ることになる。

b.
★ ~~~~
特に重要だと(わたしが勝手に)思うのは、
 ★ 命題 B (⇒ 2.)
という無意識を人間は備えているのではないか(気づかないだけで)、というこ
とになりますかね。
~~~
☆ ここでも 命題 B の前半にかんして 《無意識》と規定するのは なじまな
いと考えます。有意識もなじまないですから。

c.
も 同じくです。

お礼日時:2017/05/30 20:09

☆免れたことのとうとさ。


★ といった視点は不合理だということになりますね。 / ただ、別の視点から見
た場合、その見解は、一応筋が通っているだろう、と申し上げただけ。
☆ そうでしたか。ここは かなり隔たりがあるようです。

というより、まだ論点となっていないところでしょう。

とりいそぎ欄確保まで。
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#11の続きです。



5.
>★ ということで、これは、 [ 自我としてのこの我 ] からの視点。
☆ ううーん。[ 人類の一員としての我 ]つまり こちらの定義としては
《生まれつき身と心とから成る自然本性としてそなわった存在なるわれ》
なんですが そういう観点からは 《自我》を展開して生きて行くわれの
潜在性のすべてなんです。

それはそうです。
何しろ、デカルトじゃありませんが、「かく思う」という行為実行者は [ 自我としてのこの我 ] 以外ではないわけでして。

>ただし この存在が生きるということについては 意志を中軸とすると見
ますので その生きるさまをめぐって おのおのが――相対的に独立した
自由意志ゆえに――とうとく掛け替えがないのだという説明になります。
つまり 《 [ 自我としてのこの我 ] (=β)からの視点》でもあります。

☆とうとく掛け替えがない
という箇所については今のところコメントを控えますが、他は、まったくそのとおりです。

6.
>☆ ううーん。もう一度 ううーん。
たぶん 二者択一の切り込み方をしたのが まちがっていたのだろうか?

いや、そうじゃないでしょう。
☆ ううーん。もう一度 ううーん。
となるほど思索を要する場面に突入しかけている、ということだと思いますけどね。

7.
>★ 「一連の命題(A~C)」が組み込まれている場合の《無意識》、とい
う前提であれば、基本的には同じと言って良いかもしれません。
★ この命題は、
 ☆〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応
★ が、
 ☆いわゆる天与の自然本性にそなわった
★ と言えるのはなぜか? / ということに関しての解を示したものと位置づ
けられるので。
☆ たぶん 《実存行為の結果が 蓄積したかたち・内容》が 無意識だと
すると やや(α)の《最終原因に直結するわれ》との《起源的な違い》が
あるかも知れません。少し追い詰めましたか?

☆少し
どころか、まったく
☆追い詰め
てませんね、残念ながら、例によっての独りよがりの態。ここは、#4を受けての、

☆(え) この場合の《無意識》というのは けっきょく《いわゆる天与の自
然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応》とどう
違うか?(#8お礼欄)

という発言に対応した箇所ですね。
☆この場合の《無意識》
とは、
★ 「一連の命題(A~C)」が組み込まれている場合の《無意識》、とい
う前提
でおっしゃっているのであれば、
★基本的には同じと言って良いかもしれません。
と申し上げている。

どこかの欄で申し上げているはずですが、意識によって醸成される無意識と、本来内部的に自発的に発生している無意識の両方がある。
★ 「一連の命題(A~C)」が組み込まれ(てい)る場合の《無意識》
は前者。
☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応》
としての無意識は後者。
しかし、内容としては、
★基本的には同じと言って良いかもしれません。
ということ。
また、なぜ、
☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応》
が、
☆本来内部的に自発的に発生
することになったのか?という問いに対しての解が、
★「一連の命題(A~C)」
ではないかと思う、と謙虚目に補足している。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

今回は お互いに保留とするところについて保留は 問題ないですね。
そして (7)が ちょっと分かりづらいところがありました。

5.
☆☆ とうとく掛け替えがない
★ という箇所については今のところコメントを控えます
☆ お互いに保留です。

6.
☆☆ たぶん 二者択一の切り込み方をしたのが まちがっていたのだろうか?
★ いや、そうじゃないでしょう。
 ☆ ううーん。もう一度 ううーん。
★ となるほど思索を要する場面に突入しかけている、ということだと思いま
すけどね。
☆ 受け留めて留保とします。

7.
☆☆ 《実存行為の結果が 蓄積したかたち・内容》が 無意識だとするとそ
の無意識は (α)の《最終原因に直結するわれ》との《起源的な違い》がある

★ 意識によって醸成される無意識と、本来内部的に自発的に発生している無
意識の両方がある。
 ★ 「一連の命題(A~C)」が組み込まれ(てい)る場合の《無意識》
★ は前者。
 ☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒
  ヤマシサ反応》
★ としての無意識は後者。 / しかし、内容としては、
 ★ 基本的には同じと言って良いかもしれません。
★ ということ。
☆ これはですね。ずばり わたしの理解を言います。前者も後者もいづれも
《最終原因から生まれていてそれに直結したわれ》であるのではないか?です。

前者には [ 自我としてのこの我 ] が含まれる場合があるのかも知れませんが
もしそうだとしても その我を 後者のわれが主導するものと思われます。

次のご説明に合いますかどうですか。:
★ ~~~~~~~
また、なぜ、
 ☆《いわゆる天与の自然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒
 ヤマシサ反応》
が、
 ☆本来内部的に自発的に発生
することになったのか?という問いに対しての解が、
 ★「一連の命題(A~C)」
ではないかと思う、と謙虚目に補足している。
~~~~~

☆ ただし こちらの説では 自然本性やその良心などのハタラキは 《無意
識》とは 呼びません。もともと 《意識ないし思考や感覚》を超えていると
想定しているからです。超意識ではあっても 有意識でも無意識でもないとは
見ています。

お礼日時:2017/05/30 00:18

#10です。



1.
>☆☆ 良心(α)なるめぐみ
★ を意識することによって蓄積された無意識
☆ その意識するのも 努力(人為)ですし その無意識というのも 全体
として努力なる人為におさまっているように受け取られます。

今回の論議に際しては、細部の定義を、お互いの推測了解事項として大雑把に受け止めつつの展開になっていますよね。
その意味で、若干の喰い違いは想定されつつ進んでいくしかなさそうです。
たとえば、
☆その無意識というのも 全体として努力なる人為におさまっているように受け取られます。
とおっしゃるわけですが、そもそも無意識は意識の影響を受けます。(むろん、意識の影響を受けない場合もありますが)
その場合、結果として、
☆全体として努力なる人為
に収まっているのは確かですが、それが無意識的に収まっているという点が重要です。
つまり、人為の結果ではあっても、人為的と呼べるかどうかは見解が分かれるところでしょうね。

>基本として自発的なつとめだとも受け取りますが それにしても 重心は 
恩恵のほうではないか? というのが 骨子です。(一方を捨てるという話
ではないのですが)。

とおっしゃる意図もよく呑みこめないでいます。
☆(α) [ 人類の一員としての我 ] (:先天的われ;先験的・超経験的・恩恵的。)
を重視しているのは、今さら言うまでもないことだと思われるので。

2.
>真我は お嫌なようですが 何を隠そう《最終原因に直結するわれ》のこと
なわけです。あらためて どうですか? と問いたいのですが。

その点は、同じようなことを考える人がいても不思議ではないな、と思う次第ですが、
「彼の真我」と「我の真我」を対立・対応させて捉えている点で、差異はあるように思うわけです。
つまり、詳しくは知らないのですが、現段階において梵我一如は、あくまで「我」の安寧のための思想であるという印象しか受けない、ということになりますかね。
いずれにせよ、仮に同じなのだとしても、わざわざ他者の思想と同化させる必要もないわけでして、身の丈にあった解釈・表現であればこそ意味があるのだと考えているところです。
むろん、新たな発見という箇所であれば、それは貪欲に取り入れていきたいですが。
>これなら 善人・悪人を問いませんし:

とのことですが、私とて別に問うているわけではありませんよね。
ご自身と同じことをわたしが考えているわけではありませんので、その辺りは分別をつけていただいたほうがよろしいかと思います。

3.
>これを《主観的にですが 生きる。
よく生きる》道と捉えて 仮りに《善》とも呼ぶ。したがって さからう生
き方は 負の善です。

いや、ですから、早速例を出していただく格好になりましたが、
☆《主観的にですが 生きる。よく生きる》道と捉えて 仮りに《善》

とは呼ばない、とわたしは言ってるわけですから、
☆したがって さからう生き方は~~
といった順接の論理展開は勘弁してください、ということです。

4.
>★(同上)3. ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。 / ど
ちらが正しいということにはならないのかもしれません。
☆ たしかに。ちょっと議論としては――ジョーカーか何かを出して来た感
じで――ズルイと感じないでもありませんが それは 大前提にあるでしょ
うね。

と言いますか、ここはむしろ謙虚に述べているところです。
つまり、
☆存在としては互換可能性はないのだと知る。
というのは(わたしにすれば)詭弁という解釈も不可能ではないものであり、何より、
☆免れたことのとうとさ。
といった視点は不合理だということになりますね。
ただ、別の視点から見た場合、その見解は、一応筋が通っているだろう、と申し上げただけ。

一旦、欄を分けますね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
★ 今回の論議に際しては、細部の定義を・・・
☆ そのつど 確認しあっていきましょう。

無意識は:
☆☆ 全体として努力なる人為
★ に収まっているのは確かですが、それが無意識的に収まっているという点が
重要です。
☆ ええ。それが 無意識の発動は 《意識的起動からは自由》であることだと。

そして これは これとして それよりも《最終原因に直結するわれ》が 無意
識のハタラキに優るということが大事であると言おうとしています。

★ とおっしゃる意図もよく呑みこめないでいます。
☆☆(α) [ 人類の一員としての我 ] (:先天的われ;先験的・超経験的・恩
恵的。)
★ を重視しているのは、今さら言うまでもないことだと思われるので。
☆ あぁ。でも (α)と(β)と――この分け方はわたしがやったのですが――
分けるのではなかったですか?

2.
★ 現段階において梵我一如は、あくまで「我」の安寧のための思想であるとい
う印象しか受けない、
☆ ええ。それを否定するのではなく ここでは ずばり《最終原因に直結する
われ》のこととして 一般性を持つ用語でもあるので持ち出しました。《直結》
ということを 強めて言っています。

★ 「彼の真我」と「我の真我」を対立・対応させて捉えている点で、差異はあ

☆ ううーん。いや 理論上――論理上――《最終原因に直結するわれ》と規定
するかぎりで 彼我のあいだの差はないと想定されますが。

★ 仮に同じなのだとしても、わざわざ他者の思想と同化させる必要もない
☆ 《直結性》の強調としてのみ捉えてください。


☆☆ これなら 善人・悪人を問いませんし:
★ とのことですが、私とて別に問うているわけではありませんよね。
☆ ええ。つまり わたしが 中立・中性の概念に近づけようとしたのでした。

3.
☆☆《主観的にですが 生きる。よく生きる》道と捉えて 仮りに《善》
★ とは呼ばない、とわたしは言ってるわけです
☆ これは それでも善や負の善をわたしは用いていますので やはり中立性に
近づけて説明し弁明したところです。(それのみです)。

補足欄へ。

お礼日時:2017/05/29 23:44

#9です。


補足拝見。

☆《(無意識は)意識的起動から自由である》
ということはなく、(β)に所属する所作の結果が無意識(領域)に蓄積(記憶)される、といった関係性になるかと思います。
逆に、《(意識は)無意識的起動から自由である》ということもなく相互補完関係にあると言えるのかもしれません。(学問的裏づけはありません)
よって、
☆良心(α)なるめぐみ
を意識することによって蓄積された無意識が、
★(β)に所属する所作
に対して影響を及ぼす結果になるだろう、といった推測です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

№9で論じていただいている内容は こちらとしては まだ試行錯誤でした。
この補足欄でのひとつの命題が 結論らしきものだと思っています。ので 
こちらを先にして まとめて応答いたします。

わたしの焦点は もし二者択一なら (α)か(β)か? になります。

意識と無意識との相互補完関係については 議論をすすめがたいですね。そ
うだと思えば 成り立つような感じです。

それよりも けっきょく:
 ○ めぐみか 人の努力か?
に焦点があります。

☆☆ 良心(α)なるめぐみ
★ を意識することによって蓄積された無意識
☆ その意識するのも 努力(人為)ですし その無意識というのも 全体
として努力なる人為におさまっているように受け取られます。

基本として自発的なつとめだとも受け取りますが それにしても 重心は 
恩恵のほうではないか? というのが 骨子です。(一方を捨てるという話
ではないのですが)。

★ 《(β)に所属する所作》に対して影響を及ぼす
☆ のは 無意識やその情況的な意識であり得ますが その基礎には (α)
すなわち《超経験の場(チカラ)とつながる経験存在としてのわれ(霊我=
アートマン?)》なのではないか?

真我は お嫌なようですが 何を隠そう《最終原因に直結するわれ》のこと
なわけです。あらためて どうですか? と問いたいのですが。

これなら 善人・悪人を問いませんし:
★(№9)1. 《異質》に対する感覚 / 異質を排斥する心の動きは、怖れ
によって始動するものである
☆ なる状態ないし情況をも (α)は 包括するものと考えます。命題 B
とも親和性があるはずです。


№9の2で《負の善》などについては こうです。――つまり ヤマシサ反
応に逆らわないことを《本心》と言い これを《主観的にですが 生きる。
よく生きる》道と捉えて 仮りに《善》とも呼ぶ。したがって さからう生
き方は 負の善です。


★(同上)3. ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。 / ど
ちらが正しいということにはならないのかもしれません。
☆ たしかに。ちょっと議論としては――ジョーカーか何かを出して来た感
じで――ズルイと感じないでもありませんが それは 大前提にあるでしょ
うね。


№9お礼欄へ。

お礼日時:2017/05/29 19:01

#8です。



1.
>☆ 論点は 取りあえずふたつです。
(あ) いわゆる悪人を問題とするのでは必ずしもなく 悪人であることを
免れている普通人の人間観とその自覚を問うかたちであること。

若干ニュアンスが異なるかもしれません。
というのは、自ら悪人であるという自覚はなかなか持ちにくいものだと思うからです。
また、それは善悪というものの性質上、致し方ないことでもある。
わたしが意識しているのは、以前、ホームレスのことで質問したことがあったと思うのですが、つまり、《異質》に対する感覚ですね。
異質を排斥する心の動きは、怖れによって始動するものであることはご理解いただけるところでしょう。
悪(時には善である場合すらあるわけですが)と感じること、すなわち異質を感じていることを意味するというのがわたしの捉え方です。
ここにおいて防御体勢としての排斥感覚が兆すわけですが、この際に、件の命題を認識できているか否か、で実対応は大いに異なってくるはずではないだろうか、ということです。
つまり、逆に悪人(と多数から言われる)側にとっても、この命題は有効なはずなのです。
同じ状況で、自分が相手の立場であったならどうであろうか?という問いなわけなので。
人類みな兄弟だから、とかいった仰々しいきれいごと(間違いではないわけですが)でもなく、あるいは、梵我一如における「真我」といった我のみに焦点を当てた視点でもなく、あくまで、

「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

という真理を背景に観想してみる、といったことです。
そのためには、まず、 B が真理であるということについて、自ら腑に落ちている必要があるわけですけどね。
つまり、ここが最大唯一の論点であり、そこが腑に落ちるなら、
☆(い) 前項の思索と自覚は 《無意識的記憶として蓄積され その無意識
が 人をしてそもそもおのれの心に見合った思考および行動を取らしめる》。
か?
という疑問は、おそらく杞憂に終わるだろう、というのがわたしの推測です。

2.
>☆ おそらく二つをまとめた形で こう言えるか。:
(う) ~~~
人は本心にさからってその本心を善と呼んだときの《負の善》としての悪を
おこなうときには ヤマシサ反応をおぼえ さらにこれにさからって事を起
こしたときには 悲哀をあじわう。

あじわった者(いわゆる悪人)は元より そうでなかった者もその免れたこ
ととしての悲哀をおぼえる。

この悲哀感が 身と心とに蓄積され 人はこの悲哀感につながる行動を――
意識下において――避けるよう思考し行動するようになるはずだ。

そしてそれには 倫理にかんする思索や行動をめぐっては 実際の悲哀であ
れ想像じょうの悲哀であれそれをあじわうめぐり合わせは 誰れ彼れの区別
はないのだということ。彼は我であり得たろうし 我は彼であり得た。
~~~~~~

☆本心
は善でも悪でもなく、単にそのときの選択状況を示すものにすぎない、とする立場ですので、
☆《負の善》
という捉え方はしないのですが、概ねおっしゃりたいことは理解できます。
細部を除けば、あえて反論すべきこともありません。

3.
>めぐり合わせにかんしては誰れ彼れの区別のないあたかも互換可能性を思う
ことで 人はそれぞれかえって掛け替えのない存在であることを知るのでは
ないか。
つまり 存在としては互換可能性はないのだと知る。免れたことのとうとさ。

ここは、はっきり言って新鮮な解釈と思います。
互換できるためには、それぞれが掛け替えのない存在であることが前提されていなければならないはずだから、ということですね。
鋭いご指摘で、わたしには思いつかなかった視点。
「我」の視点からは、そうなるかもしれませんね。
☆免れたことのとうとさ
という感覚も「我」の視点。
ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。
どちらが正しいということにはならないのかもしれません。

ここに、わたしにとっても以前からの懸案であった、第二の論点が浮き彫りにされたように思います。
「掛け替えのない」
かわりになるものがない。このうえなく大切な。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/39502/meaning/m1 …
という意味なわけですが、
☆掛け替えのない存在
としての我とは、
☆’替わりになるものがない存在としての我
ということで、これは、 [ 自我としてのこの我 ] からの視点。
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」という認識が可能になるところの、 [ 人類の一員としての我 ] の視点と矛盾している。
ただ、前者は実相であり、後者は仮想であることは確かで、想像力を介入させる程度、キャパシティといった辺りが絡んでくるような気もしています。

4.
>☆ 煮詰めた論点としては:
(え) この場合の《無意識》というのは けっきょく《いわゆる天与の自
然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応》とどう
違うか?

「一連の命題(A~C)」が組み込まれている場合の《無意識》、という前提であれば、基本的には同じと言って良いかもしれません。
この命題は、
☆〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応
が、
☆いわゆる天与の自然本性にそなわった
と言えるのはなぜか?
ということに関しての解を示したものと位置づけられるので。
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この回答へのお礼

№10からのつづきです。

3.
★ ここに、わたしにとっても以前からの懸案であった、第二の論点が
浮き彫りにされたように思います。
☆ はい。

☆☆ 掛け替えのない存在
★ としての我とは、
☆☆’ 替わりになるものがない存在としての我
★ ということで、これは、 [ 自我としてのこの我 ] からの視点。
☆ ううーん。[ 人類の一員としての我 ]つまり こちらの定義としては
《生まれつき身と心とから成る自然本性としてそなわった存在なるわれ》
なんですが そういう観点からは 《自我》を展開して生きて行くわれの
潜在性のすべてなんです。

ただし この存在が生きるということについては 意志を中軸とすると見
ますので その生きるさまをめぐって おのおのが――相対的に独立した
自由意志ゆえに――とうとく掛け替えがないのだという説明になります。

つまり 《 [ 自我としてのこの我 ] (=β)からの視点》でもあります。

★ 「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
という認識が可能になるところの、 [ 人類の一員としての我 ](=α) の
視点と矛盾している。
★ ただ、前者(=β)は実相であり、後者(=α)は仮想であることは確
かで、想像力を介入させる程度、キャパシティといった辺りが絡んでくる
ような気もしています。
☆ ううーん。もう一度 ううーん。

たぶん 二者択一の切り込み方をしたのが まちがっていたのだろうか?

4.
それでもなお (β)の無意識か それとも (α)の恩恵か。

★ 「一連の命題(A~C)」が組み込まれている場合の《無意識》、とい
う前提であれば、基本的には同じと言って良いかもしれません。
★ この命題は、
 ☆〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応
★ が、
 ☆いわゆる天与の自然本性にそなわった
★ と言えるのはなぜか? / ということに関しての解を示したものと位置づ
けられるので。
☆ たぶん 《実存行為の結果が 蓄積したかたち・内容》が 無意識だと
すると やや(α)の《最終原因に直結するわれ》との《起源的な違い》が
あるかも知れません。少し追い詰めましたか?

お礼日時:2017/05/29 19:23

#7です。



1.
>☆ ヤマシサ反応の精神にしたがうことは 《自発》だとは思うのですけれ
ど。

はい。
☆これを無視する場合
があっても止むを得ない、という文脈です。

2.

★★ 「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
☆☆ 自然のおそれ(良心)と合わせて 理性による自省としての軌道修正
でしょうか。
★ ここはちょっと意味が取れませんでした。
☆ (C)なる命題の理解・自覚をとおして ではないのですか?

頭悪くて申し訳ない。
☆軌道修正
の主語がわからなくて。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★★(回答№4) ~~~~~~~
さらに、『人間は自らの意に沿わないことを本心からやることは決して無い』
というもうひとつの定理から、
 ☆悪と呼ぶ行為ないし現象
を為す場合、我彼の区別なく、必ず、そこには悲哀が生じている。
であるなら、そうした悲哀を私が偶然免れたことをもって、他者より優位に
立てるものだろうか?
といった反語的疑問が生じざるを得ない。
少なくとも、無意識的記憶として蓄積されるであろう。
人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可能
になるきっかけを得ることができる。
~~~~~~~~~
☆ 論点は 取りあえずふたつです。

(あ) いわゆる悪人を問題とするのでは必ずしもなく 悪人であることを
免れている普通人の人間観とその自覚を問うかたちであること。

(い) 前項の思索と自覚は 《無意識的記憶として蓄積され その無意識
が 人をしてそもそもおのれの心に見合った思考および行動を取らしめる》。
か?

☆ おそらく二つをまとめた形で こう言えるか。:
(う) ~~~
人は本心にさからってその本心を善と呼んだときの《負の善》としての悪を
おこなうときには ヤマシサ反応をおぼえ さらにこれにさからって事を起
こしたときには 悲哀をあじわう。

あじわった者(いわゆる悪人)は元より そうでなかった者もその免れたこ
ととしての悲哀をおぼえる。

この悲哀感が 身と心とに蓄積され 人はこの悲哀感につながる行動を――
意識下において――避けるよう思考し行動するようになるはずだ。

そしてそれには 倫理にかんする思索や行動をめぐっては 実際の悲哀であ
れ想像じょうの悲哀であれそれをあじわうめぐり合わせは 誰れ彼れの区別
はないのだということ。彼は我であり得たろうし 我は彼であり得た。

めぐり合わせにかんしては誰れ彼れの区別のないあたかも互換可能性を思う
ことで 人はそれぞれかえって掛け替えのない存在であることを知るのでは
ないか。

つまり 存在としては互換可能性はないのだと知る。免れたことのとうとさ。
~~~~~~

☆ 煮詰めた論点としては:
(え) この場合の《無意識》というのは けっきょく《いわゆる天与の自
然本性にそなわった〔ヒラメキにもかかわる〕良心≒ヤマシサ反応》とどう
違うか?

☆ 取りあえずこんな感じでしょうか。

お礼日時:2017/05/29 06:03

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