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1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけを
とおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史
の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。

2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれ
るか?

3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題
に心から同意することと同時なのではないか?

4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし
てあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないの
だ。この認識とそれに見合った身における感性的な秩序のようなものが成り立
つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。




5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるの
だろうか?

6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つ
まり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれ
たしがらみは無くなっていると言えるだろうか?

7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史
が終わらないという場合もあるだろうか?

8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

質問者からの補足コメント

  • ★  [ 自我としてのこの我 ] と [ 人類の一員としての我 ]
    ☆ 粗い解釈ですが 《個性》と《自然本性》と呼び換えます。

    理論としてではなく 表現から誤解が生じやすいのではないか。

    どちらにも《我》が入っています。とすると 自然本性の一つの能力としての
    《意志》が どちらにも含まれるように錯覚しやすい。

    つまり 個性としての意志と本性としての意志といったようにふたつの意志が
    ある。つまり われが二人いるかのように見られかねない。

    言いかえると そうではなく 個性も 自然本性なる意志のはたらかせ方によ
    って 生じたわけです。本性に付け加わった褒められるべき栄光と褒めたもの
    ではないゴミとです。

    二項対立が あたかも相い容れない二元論であるように見られてしまいがちで
    はないでしょうか。

    それに――昔の議論ですが――《自我》は 存在全体なるわれをも意味し得る
    のでは?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/28 20:19
  • ご回答をありがとうございます。

    二点 いづれも 互いに了解・・・でいいですよね。


    保留させてもらった《悪》の問題について お礼欄に書き込むことが
    出来ればと思っています。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 00:56
  • №8《無意識》論です。

    次の用語を言いかえてみます。:
    (α) [ 人類の一員としての我 ] :先天的われ;先験的・超経験的・恩恵的。
    (β)  [ 自我としてのこの我 ]:後天的われ;意志行為的・人為的・ときに作為的。

    (α): 超経験の場(チカラ)とつながる経験存在としてのわれ(霊我=アートマン?)
    (β): 自然本性(身と心)の内の心(精神)の中の意志による思考および行動が
        その歴史を築いて特には記憶なるアーカイヴに蓄積されている。その性格。

    無意識は 《意識的起動から自由である》にもかかわらず (β)に所属するか?
    ★(A№4) 「無意識的に同意できるような思考回路」を自らの脳に組み込む
    ★ 無意識的記憶として蓄積される
    ★ 人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可能に
    なるきっかけを得る

    ☆ これを 良心(α)なるめぐみが しのぐか。

      補足日時:2017/05/29 10:18
  • 4.
    ★★(同上)3. ただ、「神」の視点からすると、所詮同じだよ、と。 / ど
    ちらが正しいということにはならないのかもしれません。
    ★ ここはむしろ謙虚に述べているところです。
    ☆ そうでしたか。

    ★ つまり、
     ☆存在としては互換可能性はないのだと知る。
    ★ というのは(わたしにすれば)詭弁という解釈も不可能ではないものであり、
    ☆ そうですか。
    ★ 何より、
     ☆免れたことのとうとさ。
    ★ といった視点は不合理だということになりますね。 / ただ、別の視点から見
    た場合、その見解は、一応筋が通っているだろう、と申し上げただけ。
    ☆ そうでしたか。ここは かなり隔たりがあるようです。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/29 23:45
  • 末尾の《基体》は 《うつは(器)》と言うと分かりやすかったです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/03 19:19
  • 別の視点を導入してみます。次のような理解は できますか?

    神:神の法  = 永久法・・・・・・・・最終原因
             ↓            ⇊
    人:自然本性  = 自然法・・・・・・・ (α) [ 人類の一員としての我 ]
             ±(プラスマイナス)    ±
    人:意志の自由度 ≒人定法 ・・・・ ・・(β) [ 自我としてのこの我 ]



    ☆ 永久法などについては ヰキぺなどを参照ください。
    人定法は 実定法で出ています。

    法と宇宙の法則とがまぎらわしく これまで持ち出さなかったものです。
    またわたくしとてしては じっさいあまり理論としても議論としても持ち出
    したくないものです。
    (規則は それに反する行為にまつわる咎めの意識を醸し出すだけだと 思
    われるからです)。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/04 13:47
  • ☆☆(№2お礼欄) ~~~~
     ★ 貴方の言う和解とは全てを受け入れるということでしょうか。
     ☆ これは どうでしょう。どうなんでしょう。いかがお考えに
     なりますか? 

     このスレッドで答えが出るといいと思います。
    ~~~~~~~~~
    ☆ こんなことを書きましたが 《すべてを――特にはすべての人を
    ――受け容れるということ》は とうとく大事であると考えます。

    【Q:《すべての人に対してすべてのものになりました》とは】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8811185.html
    ☆ これは わたしの問い求めですので。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/06/11 08:13

A 回答 (25件中21~25件)

#6です。



1.
a.
>☆☆ それ(ふと道を逸れること)へのおそれ
★ が自然に生じるなら、表現は人それぞれ、様々であってよいと思います。
☆ 《自然に生じる》もの――つまり良心≒やましさ反応として――と思い
ますが これを無視する場合があるのも 人間です。

そうですね。
しかし、それは止むを得ない。
無視するな、と言うのはあくまで政治・行政の分野ですし、そう言って軌道修正できるほど人間は単純じゃないことは、十分おわかりのはず。
やはり、『自発』しか無いだろうな、とわたしは思っているのですけどね。

b.
>★ ~~~~
わたしの場合、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
とつなげた際に、フィードバックしやすいように、このように表現している
ところ。
~~~~
☆ 自然のおそれ(良心)と合わせて 理性による自省としての軌道修正で
しょうか。

ここはちょっと意味が取れませんでした。

2.
>★ 最大要素である『損得を最優先』を突出させた形で《自我》を用い
た次第です。
☆ 《好悪原則》というのもなかったですか? それよりも《利害関係》
をつかさどる自我 ですか。

快・不快は本能ですが、そのことでしょうか。
《好悪原則》という表現をどういった脈絡で使ったか覚えていませんが、切り口が色々あるので境界は曖昧になるようです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.
a.
★ 〔自然に生じる良心のハタラキを〕無視するな、と言うのはあくまで政
治・行政の分野ですし、
☆ そうですね。かつては 宗教でした。

★ そう言って軌道修正できるほど人間は単純じゃないことは、十分おわか
りのはず。 / やはり、『自発』しか無いだろうな、とわたしは思っているの
ですけどね。
☆ ヤマシサ反応の精神にしたがうことは 《自発》だとは思うのですけれ
ど。

b.
★★ 「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
☆☆ 自然のおそれ(良心)と合わせて 理性による自省としての軌道修正
でしょうか。

★ ここはちょっと意味が取れませんでした。
☆ (C)なる命題の理解・自覚をとおして ではないのですか?

2.
★ 快・不快は本能ですが、そのことでしょうか。
☆ あっ。《快楽原則》でしたか。そうですね。

★ 《好悪原則》という表現をどういった脈絡で使ったか覚えていません
が、切り口が色々あるので境界は曖昧になるようです。
☆ わたしが たぶん どこからか持ち出して来た表現でしたかと思いま
す。

自我にも・個性という場合にも いろんな要素や側面があるようです。

お礼日時:2017/05/29 00:28

#4です。



1.
>☆ このくだりは 別様の回答として立ててもらえませんか?

了解です。

2.
>☆ このふたつの《我》については 生まれつきそなわった自然本性の内
世界の認識とそして行動への判断(意志)をはたらかせるに当たって こ
の意志の《片寄り(道を逸れること)》の可能性とそれへのおそれという
見方では 足りませんか?

☆それへのおそれ
が自然に生じるなら、表現は人それぞれ、様々であってよいと思います。
わたしの場合、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
とつなげた際に、フィードバックしやすいように、このように表現しているところ。

3.
>☆ 粗い解釈ですが 《個性》と《自然本性》と呼び換えます。

こちらのほうがスマートではありますね。
ただ、ここも同様なのですが、最後につなげやすくするために敢えて [ 人類の一員としての我 ] と。
また、 [ 自我としてのこの我 ] を否定的に使う意図を含みますので「個性」だとちょっと逆のニュアンスになってしまう、ということがあるかもしれませんし。

4.
>個性も 自然本性なる意志のはたらかせ方によって 生じたわけです。

おっしゃるとおりと思います。
ただ、そこに気づかせるための論理展開にしたかったわけで、敢えて、
☆二項対立
させている、といった形になっていると思います。
《意志=個性》という認識は根強いと思われますし、最初から、
☆個性も 自然本性なる意志のはたらかせ方によって 生じた
ことを最初から前提してしまうと入り口から抵抗に遭うようにも思われるわけです。

5.
>それに――昔の議論ですが――《自我》は 存在全体なるわれをも意味し得る
のでは?

はい、おっしゃるとおりです。
本能や超自我を統括する立場にあるのですが、損得を最優先して、現実というものに自己を対応させていくマネージメント機能を担っている。
この最大要素である『損得を最優先』を突出させた形で《自我》を用いた次第です。
また、受け入れやすい表現になっているようにも思うわけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1.★ 了解です。
☆ ありがとうございます。

2.
☆☆ それ(ふと道を逸れること)へのおそれ
★ が自然に生じるなら、表現は人それぞれ、様々であってよいと思います。
☆ 《自然に生じる》もの――つまり良心≒やましさ反応として――と思い
ますが これを無視する場合があるのも 人間です。

★ ~~~~
わたしの場合、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
とつなげた際に、フィードバックしやすいように、このように表現している
ところ。
~~~~
☆ 自然のおそれ(良心)と合わせて 理性による自省としての軌道修正で
しょうか。

3.
★  [ 自我としてのこの我 ] を否定的に使う意図を含みますので「個性」だ
とちょっと逆のニュアンスになってしまう
☆ それはそうですね。あるいはつまり よき(= 自然本性に即した)個性
とさからう個性とになるかと。

考えてみれば・見ようによっては 《自我》も よき自我とさからう自我
(我を張る自我)があるかも分かりませんよ。あとで(5)では 《損得に
ついて取り計らう自我》が出て来ましたね。

4.
★ 《意志=個性》という認識は根強いと思われますし、
☆ たしかに これが《独自性を発揮しようとする自我》と言うに近い
ですね。良し悪しですね。

5.
★ 最大要素である『損得を最優先』を突出させた形で《自我》を用い
た次第です。
☆ 《好悪原則》というのもなかったですか? それよりも《利害関係》
をつかさどる自我 ですか。

ううーん。となると 自我も いろいろなんですね。

お礼日時:2017/05/29 00:00

あなたが世の中と和解できないのはあなた個人の発達障害が原因だと思います。


認知機能に障害を抱えたままでは若いなんてしようがありません。

大人しくカウンセリングを受けに行くべきです。

そのことはあなたも「賛同」したはずです。
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[ 和解が訪れるのは ]


>3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題
に心から同意することと同時なのではないか?

同意できます。
しかし、
☆心から同意すること
は基本的に難しい。
ではどうするか、といえば、「無意識的に同意できるような思考回路」を自らの脳に組み込むこと、が有効ではないかと思います。
そのために、

その原因に対する原因が永遠に付きまとうので、(人間存在の)最終原因は永遠に不可知と言わざるを得ません。よって、
「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)に起因して我々は生まれた。( A )」
を定理として認めざるを得ない。この場合、
「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」
よって、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という一連の命題を活用していただきたいと思う次第。
ここが組み込まれているなら、
☆悪と呼ぶ行為ないし現象
を私が引き起こさなかったのは、あるいは、わたしに関連して発生したのでなかったのは、あくまで偶然であることに気づくことができる。
さらに、『人間は自らの意に沿わないことを本心からやることは決して無い』というもうひとつの定理から、
☆悪と呼ぶ行為ないし現象
を為す場合、我彼の区別なく、必ず、そこには悲哀が生じている。
であるなら、そうした悲哀を私が偶然免れたことをもって、他者より優位に立てるものだろうか?
といった反語的疑問が生じざるを得ない。
少なくとも、無意識的記憶として蓄積されるであろう。
人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可能になるきっかけを得ることができる。

>4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷とし
てあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないの
だ。この認識とそれに見合った身における感性的な秩序のようなものが成り立
つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。

ここも概ね同意できます。
ただ、
☆《悪》というイデアやモノが存在しているわけではない
というより、
☆《悪》というイデアやモノ
とは、あくまで [ 自我としてのこの我 ] の視点であり、 [ 人類の一員としての我 ] の視点からするなら、それは、自ら引き受けるべきであった《悪》であったかもしれないことに思いが至るだろう。
といった捉え方です。

述べてきたことは、特に和解のための方策というわけではありません。
あくまで、真理こそが人間を納得させ得るのであり、 [ 自我としてのこの我 ] を可能な限り、そこに接近させていくことで真の満足を得られるはずだし、誰しもがそれを望んでいるはずだ、といった確信に基づくところの物言いの一環として申し上げた次第。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~
[ 和解が訪れるのは ]
どうするか、といえば、「無意識的に同意できるような思考回路」を自ら
の脳に組み込むこと、が有効ではないか
★ ~~~
そのために、
( A )
( B )
( C )
という一連の命題を活用していただきたいと思う次第。
ここが組み込まれているなら、
 ☆悪と呼ぶ行為ないし現象
を私が引き起こさなかったのは、あるいは、わたしに関連して発生したの
でなかったのは、あくまで偶然であることに気づくことができる。
~~~~
☆ これは 大問題ですので かんたんに応答するわけにはまいりません。

割り合い具体的な論点を取り上げ これに触れつつ全体像に迫るといった
やり方をいま考えました。

いま上のご議論については――矮小化しますが――:
○ ひとは 運がよい人とわるい人とがいる。もしくは 同じ一人の人で
も 運がよいときとわるいときがある。それらはすべて 人間の・つまり
は はっきり具体的にひとりの人間たるわれの・あずかり知らぬところで
起きている。と知るべきである。
☆ といった解釈例も そのひとつとして成るかも分かりません。


★ ~~~
さらに、『人間は自らの意に沿わないことを本心からやることは決して無
い』というもうひとつの定理から、
[中略]
人は、本質的に、その無意識によってはじめて、自ら腑に落ちる言動が可
能になるきっかけを得ることができる。
~~~~
☆ このくだりは 別様の回答として立ててもらえませんか?

★ ~~~
4. 
 ☆《悪》というイデアやモノ
とは、あくまで [ 自我としてのこの我 ] の視点であり、 [ 人類の一員とし
ての我 ] の視点からするなら、それは、自ら引き受けるべきであった《悪》
であったかもしれない
~~~
☆ このふたつの《我》については 生まれつきそなわった自然本性の内
世界の認識とそして行動への判断(意志)をはたらかせるに当たって こ
の意志の《片寄り(道を逸れること)》の可能性とそれへのおそれという
見方では 足りませんか?

○ エピクロスの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス
parengklisis / クリナメン clinamen )》説
☆ ですが よいサイトが見つかりません。

お礼日時:2017/05/28 18:32

世界との和解を考え続けたのは、カントさんでしょうか?ニーチェさんでしょうか?



どちらでもありませんか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

うわあ。くわしくありません。

カントは ただし なお《観念の世界》で思索をおこなっているという
印象がつよいです。(こんな程度のことを書いても あまり意味が出ま
せんが)。

ただし ニーチェは わたしは買いません。お勧めしません。(このカ
テで かなりの回数の質問を挙げて 批判しています)。


★ 世界との和解
☆ は 自分自身との和解だという捉え方を わたしは おそわりまし
た。

お礼日時:2017/05/28 16:38

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