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北里柴三郎は何故ノーベル賞をとれなかったのでしょうか?共同研究者がもらってるのに。おかしくないですか?

A 回答 (4件)

こう言ってはなんですが、やはり時代のせいと日本人だから下に見られてということでないでしょうか・・・。


今だったらあり得ない話ですがね。
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そういう【欲が無かった】のかと思います。

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日本の医学会ではよくある話ですよね。



反論されて、派閥に入らなければ何も通らない。

ん?そんな様な事がこの頃ありましたね。
加計問題…
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この回答へのお礼

お詳しいですね❗加計学園は獣医学会に渡すお金が足りなかったんでしょうか?

お礼日時:2017/07/22 19:39

ペストは黒死病ともいい、中世ヨーロッパでは大流行により総人口の約半数を死滅させたとされる恐ろしい病気です。

この様な歴史があったので、欧米各国はペストを大変恐れ原因菌の発見に全力を挙げていました。ですから、北里のペスト菌発見という業績を、世界各国は絶賛します。

しかし、日本では北里は「忘恩の輩」です。北里の発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が科学的証拠も無しに次々と発表されました。森鵬外もその一人でした。

こうして北里が日本で散々叩かれている最中の1901年、科学界にビッグ・イベントが誕生します。ノーベル賞です。欧米では国を挙げての獲得運動に走り、コッホの弟子であるベーリングが第一回のノーベル医学生理学賞を獲得します。受賞理由は、「ジフテリア血清療法の開発」。血清療法は医学に革命をもたらした治療法であり、ノーベル賞受賞は当然ですが、ベーリングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎません。

しかし、ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があったのに対し、北里は国を挙げて足を引っ張られていたという決定的な違いがありました。日本はこうして、ノーベル賞の最初のページに日本人の名前を残すという栄誉を自らの手で逃してしまったのです。

1914年、北里の伝染病研究所は突然東大に乗っ取られ、北里以下、所員全員は辞表を叩きつけて伝染病研究所を去ることになります。

しかし、北里は北里大学の創立、慶應大学医学部初代学部長就任と活躍を続け、1931年に78歳で亡くなりました。
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この回答へのお礼

なるほど、その線を良く調べて見ます。

お礼日時:2017/07/22 14:21

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