「哲学とは理論の整頓方式である」
こう表現した人がいました。
なるほど、本質をついている、と思いました。
つまり、この世界の、社会の、人間の「本質」とはこうである、と定めてそして
理論が組み立てられる、という言い方でいいと思います。
哲学以外の科学の目的は世界、人間の「本質」を解明することではありません。
ですから、哲学的問題を科学の基準で議論をしようとしても、結論が出る道理が
ないと考えられますが、いかがお考えでしょうか?
もう一点は正当な哲学的議論を可能にするものがあるとしたら(屁理屈、詭弁、牽
強付会でないこと)それは、どんなものだと考えられますか?
No.1
- 回答日時:
前にも回答した様な・・・・。
「科学や数学、医学」も、かつては全部1くくりで哲学でした。
その「哲学」から「科学や数学、医学」が独立して巣立ってしまったから、今の哲学は「考え方を考える」ものしか残らなくなってしまった。
だから、当然と言えば当然の事です。
あえて言えば「脱け殻」。
それに正当を求めても仕方ない。
どうしても、屁理屈、詭弁になってしまう。
正当性の尺度は「科学や数学」に持って行かれてしまった。
今の哲学は「考え方を考える」途上ですから。
類似と言いますか、共通点のある質問はしておりますので、その時に回答
していただいたのでしょうか?
と言いますか、人々が物事の本質を考えなくなったので哲学が廃れ、本質
の部分を切り離された「科学」が「根無し草」なっていると思いますね。
結局、カントなどの哲学は理解されていないのではないかと思うようにな
りました。
西洋哲学も東洋哲学も、我々はしっかり勉強しないといけないのではない
でしょうか?
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
「本質を定める」というのは、逆に哲学じゃ無いのでは?
それは、「思想」であって、「哲学」とは一線を引くものだと思いますよ。
哲学とは、やはり、「本質」があるとしたら、「本質」を見出すようなものだと思います。
また、方法論と言うのは、哲学者個人により違うと言う事でしょう。(むしろ、方法論自体を論ずる事も哲学の一部です)
ドイツ観念論は、基本的に、観念に対する批判により、独自の方法論を提示した活動だと思いますが、観念に対する批判にしても、その線引きはかなり違うわけです。(カントの考える観念は、純粋に内的なものであり、その外側(「世界」)がありますが、ヘーゲルにとっては、観念でしか、「世界」は認識出来ないと言う考えです)
哲学者にとっては、「哲学」せざるを得ないわけで、それは「思想」などと言う閉じた世界とは一線を画しているはずです。(哲学者を見る人にとっては、その哲学的結論は、「思想」としてしか見る事は出来ないでしょうが、哲学者にとっては、純粋な哲学的洞察であるわけです)
哲学者でも、その洞察に同意は出来なくて、批判の対象と見なされる相手であっても、さすがにその論理の切れ味を見た瞬間に、これは容易に批判する事は出来ないと言う哲学者は存在します。
そういう哲学者は、歴史において、名が残っているわけです。
したがって、そういう哲学者の残したものを咀嚼しながら、自己の哲学において、批判できるだけの理解を出来るならば、それは、新たな哲学者を生み出す事になるでしょう。
哲学者は、議論の為に哲学しているわけではありません。
あくまで、自己の哲学的探究心に従って、その哲学的探究を行えば良いわけで、そういう意味では、社会には、なんら貢献する必然性自体を持っていません。
むしろ、文学や、演劇などの、芸術の方がよっぽど、人間に為になるでしょう。
では、何故、哲学者、自らの哲学を開示しなければいけないのか?
これは、哲学を職業としているのならば、その職能として、それを発表せざるを得ないと言う事でしょう。
少なくとも、ギリシャ哲学(これとても、職業と言うか、ギリシャ市民と言う、特権階級の思想の論理的な説得法として、発展したものと解釈しても、過言では無いでしょう)が、学と言うものが、国家の運営に密接に関係していた故に成立したように、中世・近代においても、学識者と言う特権階級がその役割を得ていたからです。
では、現代においてはどうかと言えば、少なくとも、「哲学」は、そのような学と言う立場ではありません。
国家や、民衆が「哲学」で動かされる事も無いですし、為政者に「哲学」は不要でしょう。
人間は、「哲学」のような抽象的な「世界」に生きているわけでは無く、もっと現実的な、合理的な「世界」に生きているからです。
物理的な合理性は、「科学」に、精神的な合理性は「宗教」や、やや通俗的な「常識」に委ねられたと言う事です。
では、「哲学」は、今、何をすべきか?(哲学者はどうすれば良いかと言うべきかもしれません)
質問文の意味する事は、やはり「哲学」では無く、理想を見出す「思想」では無いでしょうか?
「思想家」が哲学を利用する事はあります。(それは、その抽象的な論理性が説得に役立つと言う事です)
純粋な哲学者であれば、むしろその「思想」は巧妙に隠蔽するか、主張しないで論理を展開すると思います。
何故ならば、自然な論理展開で、その「思想」に到達した方が、詭弁を弄したと言われないからです。
これは、ちょっと、極端に言いすぎました。
言いたい事は、誰でも理解できる「哲学」と言うのは、本質的に難しいんです。
これは、根本的な問題ほど、そうなります。
何故ならば、「哲学」は、その思考と言葉(言語)と言う武器しか持ちえないからです。
これは、思考と言葉の解釈が異なれば、説得が困難な事を意味します。
人間の思考が完全に「自由」であれば、その結論は無限に存在します。
もし、一定の範囲に、結論が収束するとしたら、それが人間の「思考の限界」だと言う事です。
それを「真理」と呼ぶことも可能ですが、それはあくまで、「人間の思考の限界」としての「真理」でしかありません。
それで良いのだと言うのも、一つの「哲学的帰結」です。
ただ、それでも、まだ懐疑的に「真理」を追い求めるのも、また「哲学者」であるのも事実でしょう。
今の所は、「哲学」に絶対的な方法論と言うのは、まだありません。(まだ、人間の思考の限界には到達していないと言う事です)
>「本質を定める」というのは、逆に哲学じゃ無いのでは?
学問としての「哲学」あるいは、それをする「哲学者」の定義というものは
仰る通りなのだろうと思います。おそらく、本職の方であろうと思いますし。
ただ、私は何度か主張させていただいたかと思いますが、人間は本質の部分を
人任せではなくして、自ら見出し、決めて生きてゆくことが自律的生き方であ
り、そこに人生の醍醐味があると考えています。
従って、我々民衆からしますと、洋の東西を問わず哲学者と言うものは本質を
提示してくれる存在であるべきであると考えています。
そうですね、「定める」というのは少し違う気がしてきました。定めるのは我
々ですから。
>哲学者を見る人にとっては、その哲学的結論は、「思想」としてしか見る事
は出来ないでしょうが、哲学者にとっては、純粋な哲学的洞察であるわけです
私は、東洋哲学も西洋哲学も宗教の教義もいわゆるスピリチュアルな啓示も、
あるいは個人個人の人生哲学も、「人間の幸せ」を目的にしているはずである
ので、その観点から公平に見るべきであって、宗教だからインチキだ(確率は
高いと思いますが)また、西洋哲学だから信憑性は高い、と言うのであれば、ど
こかに穿った見方があるだろうと思います。
西洋哲学の事だと思いますが、その哲学的結論は思想ではなく「純粋な哲学的
洞察」であるということは、学者として結論を出すということは、学問的に正
当な論拠を示さねばならない(当然でしょうが)ということで、それがいまだに
できていないというか、本質に迫るほどに極めて難しいこと、ということはそ
の通りでしょう。
「学問のやり方に変革があった場合、可能性は出てくるだろう」という意味の
ことを以前に仰っていましたね。
私は本質的なことについての思想のことを「哲学」と呼んでいるのであって、
世間一般の定義からややずれて、いらぬ誤解もあるかも知れません。
かといって、独自の用語を使うほど専門的な人間を目指しているわけでもない
ので、表現を工夫するという程度にしたいと思います。
大変勉強になりました。
No.5
- 回答日時:
おはようございます。
「ですから、哲学的問題を科学の基準で議論をしようとしても、結論が出る道理がないと考えられますが、いかがお考えでしょうか?」
⇒いいえ、哲学は科学の一つですよ。
科学は、数学や物理などのいわゆる理系だけではありません。
「もう一点は正当な哲学的議論を可能にするものがあるとしたら(屁理屈、詭弁、牽強付会でないこと)それは、どんなものだと考えられますか?」
⇒文系も科学です。
学問として論理だてたものである心理学なども科学です。
つまり、学問は科学なのです。
もちろん、屁理屈、詭弁などは学問として体系だてていないので科学ではありませんね。
哲学ももちろん科学ですが、扱うものが本質的なものなので、どのような
論理になっているのか知らないのです。
勉強は少しづつやっているのですが、自然科学の論理とは異なっているだ
ろうと思いますし、その結論の出し方も独特であろうと思います。
にもかかわらず、哲学的諸問題を自然科学的論理によって位置づけをしよ
うというのが現代だと思うのです。
これは本質を歪めてしまう恐れが多分にあるでしょう。
ですから、何か画期的なやり方がないものかと考えております。
No.9
- 回答日時:
1. 哲学とは何ぢゃい? ですよね。
§ 1 本質とは 何ぢゃい?
2. 二首のうたを読み比べます。
■ (聖徳太子にとっての本質:万葉集 巻三・415番) ~~~~~~
家にあらば 妹(いも=妻)が手巻かむ
草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ
● (柿本人麻呂にとっての本質:万葉集 巻三・426番 ~~~~~~
草枕 旅の宿りに
誰(た)が夫(つま)か
国忘れたる
家待たまくに
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. 厩戸皇子は 世界を ひとがそこに生きることの終(つひ)の姿から
《あはれ》と詠み読んだ(認識した)。
4. 人麻呂は 《死んでも起ち上がって 思いを遂げよ》を世界の本質と
した。
5. 人麻呂も 《あはれ》については 《言霊のさきはふ国ゆえ 言挙げ
せず》というかたちで 触れている。たいていは 《もののあはれを知る》
にとどまるのだと。
6. ところが 《ことばの民》は だまっていない。
◆ (創世記 1:1) はじめに神は天と地とをつくった。
◆ (ヨハネ福音 1:1~ ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はじめに ことばがあった。・・・
ことばは かみであった。・・・
あらゆるものは ことばによって成った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
7. 人麻呂らも 世界についてのナゾのことを知っている。《かみ》とい
う言葉を知っている。ということは 《もののあはれを知る》という本質観
を言挙げするのなら たとえば 聖書のごとくなる。というのであろう。
――カミないしナゾを初めに持って来るわけだ。
8. 世界をどう見るか? その本質についてのいろんな表現のかたちがあ
るわけである。
9. ひとはみな――意志の自由な選択をおこなうもののようで―― おの
おのの自己表現を成す。つまり 哲学の初めである。
・・・
☆ と書き始めたら これぢゃ 一日かかるかも知れないと思って 取りあ
えずここまでとします。コメントをいただけるなら それに応じて。
世界をどう見るか、本質をどう捉えるかと考えるのもいいでしょう。
しかし、「不可知」であろうところの本質を思惟のみで追っても、迷子に
なるのがおちでしょう。
現実ですね、庶民の現実ですね。特権階級の現実ではダメです。デジタルだから。
庶民の現実の中には割り切れないことがたくさんあります。
真摯で感受性の強い庶民がその「割り切れなさ」を割り切ろうとして出した結論が
質の高い「人生哲学」と言えると思います。
そこから、現実から離れることなく、相対を重ね、人々が理解し納得し選択するも
のこそ「人生哲学」「人類の哲学」となるべきだと思います。
それは、既存のものかそうでないかをあらかじめ決めてはならない。
実践と実証が哲学には必要です。また、相対的でなければならない。
「観念の遊戯」が「哲学」になっていませんかね?そこに価値はないです。利用価
値はあるかも知れませんが。
日蓮仏法の「相対性」とは、こういう風にも言えると考えます。
お分かりになりますか?
No.10
- 回答日時:
たとえば、下記の問答について、理論を整頓してみます。
Q:創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?
A:no.3 題目を唱えてさとった後に念仏を唱えてみればわかる
https://okwave.jp/qa/q9211380/a25677028.html
上記質問の質問者の主張を大雑把に言うと、人は皆仏性を持っている。念仏を唱えて阿弥陀仏に救われるのも、題目を唱えて妙法蓮華経をさとるのも、普遍神に帰依することで同じだということです。図式化すると下記です。
┌念仏→阿弥陀仏 →┐
人-仏性┫ ┠→普遍神
└題目→妙法蓮華経→┘
対して、上記質問の質問者の読み取った日蓮宗の考え方は、念仏を唱えると仏性に背くので救われることは無い。題目を唱える事だけが妙法蓮華経をさとることができる。そしてその考え方は間違っているということです。図式化すると下記です。
┌念仏→不共同 →✕
人-仏性┫
└題目→妙法蓮華経
さらに、上記質問の回答者no.3の考えは題目を唱えて、妙法蓮華経をさとり、普遍神に至ったあとで、念仏を唱えてみてはどうか?と提案しています。そうすると、普遍神が壊れるか、普遍神が念仏普遍神に上書きされるか、題目普遍神と念仏普遍神の両方に至るかいづれかが判明するはずだと言っています。図式化すると下記です。
┌念仏→不共同 →✕
人-仏性┫
└題目→妙法蓮華経→普遍神→念仏→普遍神が壊れる→✕
または、
┌念仏→不共同 →✕
人-仏性┫
└題目→妙法蓮華経→普遍神→念仏→念仏普遍神に上書き
または、
┌念仏の仏性→念仏→阿弥陀仏 →念仏普遍神
人-┫
└題目の仏性→題目→妙法蓮華経→題目普遍神
普遍神が1個だったのが、普遍神が壊れて0個なのか、念仏普遍神に上書きされて1個なのか、題目普遍神と念仏普遍神の2個なのか、変化して数が分かります。普遍神が死んだり、変身したり、生まれて増えたりします。
no.10としては、仏性も念仏も題目も救いもさとりも阿弥陀仏も妙法蓮華経も普遍神も分からないし、各々の関係がどうなっているかもわからないし、各々があるかないかもわからないです。結論は出ませんでした。でも、整頓はできました。文章を率直に読んでみる自分で書き直してみる図式化してみるのが有効だと思われます。
こうしてみてみると、論理(現在流行している)というものは実にペラペラなもの
だとわかりますね。
この問題の部分は、○か×かの論理では矛盾してしまうんです。
だから、前もって「論理が違いますよ」と言ってあったし、相対論ですよと説明
したのです。
我ながらわかりやすい説明で、わからないとは思えなかったのですが、変わらずに
○×論で進んでくるから、「ああ、やっぱり理解する気はないな」と判断しまし
たね。何度か経験済みですから。
ここは、そんなに複雑な論理ではなく、むしろ単純な話です。
重要なのはこのあとです。十界とは、仏界とは何か?念仏では何故ダメで、何故題
目ならいいのか?などです。
彼はあの文言が「使える」と思ったのでしょうね。
理解する気がないと思ったら腹が立ってね、それで説教したら「伝家の宝刀を」抜き
ましたね。
流れとしてはちょっと早いと思ったけど(笑)…
逆に言えば、この部分は現代の論理で理解しようとすればわかりにくい。
しかし、本当に理解をしようと思ったら、用語の理解などを少なくともするべきで、
自分の知っていることに当てはめることしかしないのは、まず、批判が目的と言って
いいでしょう。
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