語りえないことについては人は沈黙せねばならない、のですか?
Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen.
ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考第7章の有名なタイトルです。
二つ質問があります。
1.語りえないこと、Wovon man nicht sprechen kann,とはどんなことでしょうか?
ヴィトゲンシュタインには語りえるか語りえないかの判断基準があったのでしょうか?
2.哲学は対話によって進歩する、あるいは、哲学者が対話によって学習する面があるとおもいますが、語りえるか語りえないか不明である事について語り合いながら理解を深めることも、ヴィトゲンシュタインは否定しているのでしょうか?
ちゃんと本を読まずに質問して恐縮ですが、皆さまのお考えをご教授いただきたくお願いします。
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
> 「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。
ということではありません。
たとえば、囲碁を知らない人にとっては、盤上に配置された黒と白の玉は何も意味しませんが、囲碁を知っている人にとっては、陣地であり、戦いの局面であり、休戦地です。単なる黒と白の玉は、そのような「像」を描いています。
碁を知らない人が、見よう見まねで石を並べたとしても、それは碁ではありません。「像」を結ばない。
楽譜は、模様ではなく、その向こうに「音楽」があることを示しています。五線譜に、でたらめに音符や記号を並べたとしても、楽譜にはなりません。
ここでいう「言語」とは、そうした石や音符の代わりに、「音声」や「文字」によってあらわされる具体的なものです。石や音符同様に、その向こうに「像」を結ぶものです。「本」や「マグカップ」や「テーブル」のように。あるいは、それが「宇宙人」や「幽霊」など、仮に現実にその存在が確かではなくても、「ありうるもの」「起こるべき出来事」として、わたしたちが「像」を結びうるものも含みます。
そうして像として用いられる文を「命題」と呼びます。
「この本は『論理哲学論考』だ」
「このマグカップにはミッキー・マウスがついている」
「テーブルの表面はすべすべしている」
このように、記述として用いられ、真偽を問えるような文章を命題と呼びます。さらに「思考がそれによって表現されるものを命題記号と名づける」(3・12)と続きます。
こうして、言語は世界(事実とこれから起こりうる事実=事態)の論理的な像である、としていきます。
そうして成立し、妥当している事態や事実を自然科学が記述します。それによって
「真な命題の総和が自然科学の全体(あるいは諸科学の総体)である。」(4・11)
これに対して
「哲学は自然科学の議論可能な領域を限界づける。」(4・113)
「哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界づけねばならない。
哲学は思考可能なものを通して内部から思考不可能なものを限界づけねばならない」(4・114)
ということになっていきます。
---
以上の回答をしていて不安になってくるのは、おそらく意味が伝わらないだろうなあ、と思っているからです。
知らないことをわかる、ということは、「知識」というものを、たとえばカロリーメイトみたいな固形物として、わたしたちの体内に取り込み、蓄積する、ということではありません。そうではなくて、知らない言葉やその用法や置かれた文脈を、自分がすでに知っていて、使うことのできる言葉に置き換えることにほかなりません。
ところが、わたしたちひとりひとりが使う言葉は、その「言葉」をささえる膨大な「言語体験」のネットワークによってささえられています。このネットワークというのは、わたしたちの無数の現実体験によって裏打ちされています。わたしたちが「言葉」を使う、ということは、それを支える現実と連動しているわけです。
未知の領域を学ぼうとするときは、単に言葉を学ぶだけではない。わたしたちがすでに抱えている言語体験のネットワーク自体を、組み換えていかなくてはなりません。つまり、何かを知ることは、そのたびに、これまでの自分の理解の枠組みを作りかえていくことにほかならないのです。
何かがわかった瞬間、世界がまるでちがって見えてくる、こんな経験はおありかと思いますが、言葉を通して世界とふれているわたしたちにとって、自分の理解の枠組みを作りかえるという作業は、世界そのものを作りかえることにほかなりません。実際、「わかる」というのは、そのぐらいの「飛躍」を要求するものです。
ところが、自分の理解の枠組みの全体を作りかえるのではなく、それを温存したまま、その枠組みの中で、新しい知識の一部を処理しようとすることを、多くの場合、わたしたちはやってしまいがちになります。単に処理できるようになったことを、「わかった」と誤解してしまうのです。
特に、言葉によって語られる「思想」や「哲学」は、その危険をつねにはらんでいます。ここでどれだけわたしが言葉を費やして説明しても、おそらくそれは質問者さんの「体験」とはなっていかないでしょう。それよりも、ちゃんと本を読まれた方がいいように思います。
いくつか本を紹介しておきます。いずれも新書で入手しやすいものです。
まず『論理哲学論考』を読む前に、橋爪大三郎の『「心」はあるのか』『はじめての言語ゲーム』を。
もう少しひろく現代思想について興味がおありでしたら高田明典『「私」のための現代思想』を。
哲学が扱ってきた言葉や他者や社会というのはどういうものか知りたければ中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』を。
以上、参考まで。
再度のご回答ありがとうございます。
おかげさまで、言葉によって私たちが共通の、少なくとも類似の、象を結ぶことが出来ない事象に関して、言葉を使うのをやめなければならない(Schweigen)という解釈になりました。
では、上記の事象とはなにか?
神がその事象の例であるのは良しとして、眞・善・美はその類の事象なのか、それとも語れるのか、宿命は?、憎悪は?、諦念は?、、と例示を考えてゆくと哲学で語れるものがどんどん少なくなってゆくような気がします。
まして、ドイツ語と日本語というコンテクストの異なる言語を使って、共通の象を結ぶ事象など、簡単には浮かびません、否、浮かびますけど、哲学の対象にならないような具体的なものばかりになってしまいそうです。
ご推薦の本を少し読んでみようと思います。
No.15
- 回答日時:
ANo.14
はい、Mokuzo100nennさんの学識と知見はご文章を拝読すれば受け取れます。お気持ちも。
仰せのことで、23だったか、60年安保。声なき声の会というプラカードをよく見かけました。
まだ書記長になる前、造ったばかりの文化部長。部員って組合全員。つまり担当って言う意味。
大衆って自分もそうですが、言葉ももっていないし声もない。一生職人で終わった母も自己を語ることばも、哲学を語ることばも、声もなかった。整理し意識する媒体もなかった。宇宙と大衆ってそんなものですね。
私は大学の現任訓練の課の独任責任者も長く兼ねましたが、みなさん【一番嬉しい事は、言葉を知った、もてた】という感慨でした。
学術とか分析はそういうことをさせてくれます。今創造のことをやっていますが、どんなことばを持ってきても、ここに通じません、適しません。開闢であろうと、創造であろうと、天地玄黄であろうと、One Great Spirit(意識)であろうと。
ことばがないのです。でも言葉での表現をしなければならない、のかな?
困っていますよ。
常朝ですが、言い残しました。お父上70歳のときのお子さんですね。
兄上がもう40過ぎで、藩の勤務者です。
当初、兄という人のお子さんかと存じましたが、お父上の実子でした。
奥さんがなくなった後、身の回りをお世話する女性がきてくれたのですね。大庄屋の娘さんだそうです。
兄上は、常朝の訓育を非情に熱心になさいました。
なんか哲学者でなく、思想家という方々の出生や育ちは普通の方はあまりいないようですね。
湖人も次郎ではないが、里子にだされているし。漱石も少しいわくがあるみたいですね。
考えすぎかなぁ。
ヴィトゲンシュタインのことを少し検索しました。
http://cf.tomangan.org/
上記をクリックしていたら、このちょいとの画面がなくなってしまい、あわてました。消えちゃったのです。書き込みが。
No.14
- 回答日時:
ANo.12です。
【侍には参考にはなるでしょうが、大工や百姓の参考になりません】
“さぶらう”、“はべる”に何か通じる、“侍”という語は使うのを避けてきました。
常朝も“侍道”ではなく、“武士道”という言葉を使っています。
中国で言えば“士大夫”、インドで言えば“クシャトリア”です。
理念化、観念化したのか、私たちは社会現実における身分制度を捨象して、“人としての存在”というもの、“有為、有志”、“十有五にして志す”、人間のそういう側面を摘示する語として用いています。
孔子も婚外子であり、お父上は最初に城壁に取り付く吶喊部隊のたくましい肉体の兵士であり、決して当時、武士、士大夫というご身分ではなかったようです(白川さんのご本の自分流解釈)。
お母上も、中国のinternational横断的巫祝集団のお方で、身分は最下層に近い方です。
そういう方も私のいう武士や士大夫、クシャトリアに入ります。
イエスもどうも婚外子か、辺境の修行集団の方に、ダライラマの原形みたいに育てられた形跡があります(そういうご研究書を、曽っての勤務先の図書館で読みました)。
クリシュナは王族とはいえ、地下牢に囚われているご両親からお生まれです。(これは深い象徴意味があります。これはそのとおりです。)
500羅漢は様々のお仕事をなさっている、羅漢様のご様子を描いております。こういう方々に私は日常でお愛しております。
大工や百姓ということですが、大聖こそは市井にいる。老子のような隠者さまは広大多様な中国では各で出会います。ちょいと違うが、激動の歴史の舞台で重要なことを運転してい行った周恩来は、無知の凡人が批判することもありますが、No.2に徹して彼は士大夫として生きています。
マハトマジ・ガンジーは、クシャトリアということを潔しとしていません。
社会の身分としてはシュードラになるつもりでいます。
しかし志を持つということではクシャトリアです。
柔和で温和。しかしあの柔和な優しい微笑み、やせた老人を私は畏怖します。
私のようないい加減な男には、厳然とそそり立つ、ヒマラヤの岸壁です。
許さない事は許さない。インドのみなさんは柔和ですがとても簡単に篭絡などはできません。
しかしそれでも庶民としての大工や百姓、無論、わたしのような一般人でも、常朝やバガヴァッド・ギータも他所世界のこととしてゴミ箱に捨てるわけには往かないのです。
どの聖典も特別の武士のことをいっているのではないのです。
なお、思想であり哲学ではないということですが、哲学のための哲学もその態度を私は認めます。
しかし仰せの哲学でない思想で、哲理はあるが学理がない庶民我々の思想というものがあることはあります。
しかし、チータも論語も、ちょいと違うが老子も、常朝も学理なくして思想としてはたっていません。
学理と哲理そして思想があるのです。近代というか西洋の知的領域でさ迷い、彷徨している知的遊びとは違います。
ありがとうございます。
誤解無きよう補足さて頂きますが、私は論語は嫌いではないし、鍋島論語も武士道の一つの極みと一目置いております。
武士道があれば、大工道、百姓道や商人道の様な物があってそれぞれの職業倫理や有るべき姿を諭していると思います。大工や百姓はその思想・倫理を道などと呼ばないだけの違いでしょう。
むしろ、大工とか百姓は、本項のテーマである、
「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」
ということを既に実践しているのではないかと思います。
哲学が衒学と言われかねない傾向に対して、ヴィトゲンシュタインが警句を残したのかもしれませんね。
No.13
- 回答日時:
途中で消えやがったッ@ごめん短く再記します
他論は構造を理解しさらに意見したいその場合
を除き己の得手の範囲にあまるなら沈黙すべき
て原文が翻訳の手違いで「異論せず沈黙しろ」
と~訳者の頭不足か何かで誤訳されたのかも?
ありがとうございます。
現在のところ、
「言葉によって私たちが共通の(少なくとも類似の)象を結ぶことが出来ない事象に関して、言葉を使うのをやめなければならない。」
という理解なのですが、
そのような「共通の象を結ぶことができない事象」はあまたあって、ほとんどの議論に対して「お黙り!」と言われているような気がしてしまいます。
No.12
- 回答日時:
Mokuzo100nennさん ANo.11です。
常朝ですね。定朝は誤植です。
価値について考察することは仰せの哲学になりましょうね。
私はそういうのを、閑人の遊びと思うんです。
価値論を踏まえて、価値について述べるのは思想であっても、所謂る学としての哲学とはいえない。
ということも理解はできます。
そういう批判とか考察、検討は私のような一つの価値思想に傾いたものにも大変参考になることもあるのです。
しかし、多くは信仰とは違うキリスト教の高邁な神学理論と結局何も分っていない人たちだと、空しさをそこに見ます。
そうはいっても、仰せのように常朝の記述は近代西欧哲学とは異質です。
しかし指差すことは指差しているということでは近代西欧哲学を凌駕している哲学と存じます。
哲学はやはり方法論にこだわるでしょう。結果だけの問題ではなく、結論に至る論理とプロセスは重要でしょう。
そういうことに拘らなくなった私は、堕落、棄教というべきでしょう。どうぞ地道な営みでの真摯なご追究を期待申し上げます。
No.11
- 回答日時:
Mokuzo100nennさん ANo.7です。
【哲学と鍋島論語を同列に見てしまうところが、Krya1998さんの独自なところ】とご返事をくださいました。
“武士道とは死ぬる事と常朝見つけたり”この死が肉体的死を意味している事はご認識のとおりです。更に古来、この死を当然に自己を差し向けるヤージュニャ(主君や藩国、人々への働き、自己の脱却)でもあるという解釈は、常朝が禅の訓練をしてきている故に、解釈されるところでもあります。
ですからこの死は無論、生きるという呼吸の仕方、観念の持ち方もいうのだとは多くの方の解釈でもあります。
更に常朝は、過去や未来なんて生半可のなまちょろ武士のいうことだ。今このときを生きよ。それでいいのだ、ということも敷衍しています。
挙措の脚下照顧の内面的側面ですね。
印哲でも、過去とか未来とかなどはない。時間も空間も人の変化と個別のカテゴリに過ぎない。
あるのは存在である。時間と空間は観念の中で紡いだ結果であり存在などはしない。
唯一者は存在である。ここには永遠の現在しかない。それを個別と変化で区切るのが人間の知性だ。
その機能を象徴しているのが、バーラタ族とは血統系譜で繋がらないヴィアサ聖であり、彼、バガヴァッド・ギータの著者は知性性、分別、仕分け性、知的認識能力を意味している。
彼の象徴する人間の機能は幾つかの過程を経てきているが、そんな人間的小賢しいことをぐちゃぐちゃするな、っていっているのが、常朝の簡単な短い文章です。
西洋人のながったらしい、いろんな知的概念など蹴っ飛ばしても、内容は正にカント先生の“もの自体”を問題にしているのが常朝なんです。
そういうものとして、下村湖人は説明しています。
白鳥入蘆花の元は禅では白馬ですが、これは湖人の直観が古来の偈を越えていることを意味します。
ごたごたいったり、古いからとか有名だからでは価値は問題ではありません。
というのがMokuzo100nennさんにわかってもらいたい。
ヴィトゲンシュタインは偉いし、頭さえあれば、精進の少ない人も判ることができる。
しかし常朝はビッシと短く言い切っています。日本人心性には適うものです。
ありがとうございます。
誤解があったら申し訳ありません。
山本定朝の思想は立派と思いますが、それは彼の思想(価値感)であって哲学とは異なると思っておりました。
今は、思想と哲学の区別を明確に説明できませんので、直観的なだけです。
No.9
- 回答日時:
こんにちは、Mokuzo100nenn さん。
●1.語りえないこと、Wovon man nicht sprechen kann,とはどんなことでしょうか?
↑
日本語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
【修飾語の特徴】
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も……であると」という長い修飾語が介在している。
No.8
- 回答日時:
この箇所だけ一人歩きして、一種のアフォリズムとしてさまざまに解釈されることが多い文章なんですが、まず何よりも、これが『論考』の序文であることをふまえておく必要があるでしょう。
つまり、この箇所で、ヴィトゲンシュタインは「語りうるもの」と「語りえぬもの」との線引きをすることによって、ちょうどカントが『純粋理性批判』において「理性にはかくかくしかじかのことはできないが、ここまでならできる」と限界を示すことによって、理性の可能域を保証しようとしたように、ヴィトゲンシュタインは「思考にできることとできないこと」の限界を見きわめようとしました。
けれども、現実に思考不可能なことは、そもそもわたしたちは考えることすらできないのですから、いったい何について「考えることもできない」と言っているのか、見当がつかない、ということになります。そこで、「限界は言語においてのみ引かれうる」(序文)ということになります。
こうして言語の限界を明らかにすることで、「言語にどこまでのことができるか」ということを示したのです。語りうること、すなわち、言語を用いて、思考可能なことがらの限界を指示しようとしたのです。
それが『論考』のやろうとしたことであり、この序文の意味です。
ここから第四節を中心に写像理論を紹介してもいいんですが、詳しいことなら本を読んでもらった方がずっと正確だし、いまはちょっと時間がないので、ここではかなり荒っぽくまとめていきます。雑でかならずしも正確でない箇所があることはお含みください。
「写真」を考えてみてください。
花や人や風景など、わたしたちはありとあらゆるものの写真を撮ることができます。でも、「写真」の写真を撮ることはできるでしょうか。もちろん、「花の写真」の写真を撮ることはできるし、「写真を撮っている人」の写真を撮ることもできる。あるいは、「何も映っていない写真」の写真を撮ることもできるでしょう。けれども、「写真」そのものを撮ることはできないんです。
さて、「言葉」を考えてみてください。
質問者さんが液晶画面を通して見るこの文字は、写真とはちがって、画面上に浮かび上がったさまざまな線の組み合わせですから、ぱっと見て、これが「現実の像」であるとは思えませんが、そこに
「梅干し」
と書いてあれば、わたしたちの口の中に唾液が溜まってきますし(?)
「バカじゃない?」
と書いてあれば、怒りで顔が紅潮します(しました?)。
つまり、この言語記号も、それが描写するものの「像」となっているのです。
ところがこの言葉というのは、いったい何の「像」なんでしょう。わたしたちは、ちょうど「写真」の写真が撮れないように、「言葉」がどのようなものか、実際に使いながら示すことはできても(「言葉っていうのはこういうふうに使うものです」)、「言葉」だけで「言葉」を描くことはできない。
つまり、この前半は、世界には言葉では語り得ない、示すことしかできないものがある、ということです。その上で後半の、「沈黙しなければならない」ということは、というのは、だから問題にはならない、却下するということではないことに注意してください。
たとえば「論理」「倫理」善や悪、幸福、価値、生の意義、そうしたものは語りえないからこそ、いっそう大切なもの、沈黙のうちに了解し、行為において示されるべきものなのです。
ちょっとどこまで書いたらいいか、自分でも判断ができないので、わかりにくいところ、もっと知りたいところなどあれば、わかる範囲でお答えします。
ありがとうございます。
ご回答は、拙者の質問のスイートスポットに当たっています。
未解決の問題は、
>たとえば「論理」「倫理」善や悪、幸福、価値、生の意義、そうしたものは、、、
にあるように、「前半」の部分の定義が不明で、各自各様の例示が氾濫してしまうことです。
拙者が解釈すれば、
すべての音楽評論家はお黙り!
すべての野球解説者はお黙り!
巨人阪神戦の中継が終了したら沈黙して生ビールを飲みなさい!
「男は黙って○○ビール!」ってのがありましたが、実はヴィトゲンシュタインから啓示をけてたんですかい?
つまり、前半の定義が曖昧なまま例示だけすると、拡大解釈が跋扈し、地球を沈黙で覆ってしまう。
これは、哲学の終焉ではないのか?
「言語」を「記述する記号体系」と定義しなおせば、言語=数学+物理学です。自然界からの入力が物理学で、その相関アルゴリズムが数学。これ以外は、アーとかウーとかの擬態語、擬声語、オランウータン語が必要なぐらいですね。
数学と物理学で語れないものに対しては沈黙なさい。これは、即、哲学の終了宣言になるのではないでしょうか?
No.7
- 回答日時:
人間という被造存在、相関的相対的関係としての存在。
そういうものの最下層の感覚・知覚での経験と知見、そして知的性も加わっての構成と紡ぎ。。そういう機能の域である西洋文化に出自する物理学とそして同じく知的領域内を彷徨する知的操作たる哲学の幻想内のものは、その呼称する神とか、意識とか物理学やその他の知的科学などの対象としないことをやっていっても一向にかまわないのでしょうね。越権でもなんでもない。その範囲の中の単に知的に弄繰り回しに過ぎないだけですから。
ヴィトゲンシュタインがその域と、それの境界に気付いて、“此処から先は知的領域を踰越するわい”と気付いたとしたら、その先はカントが中途半端に云っている、“もの自体、存在自体”ということなのでしょうか。
其処から先は、東洋の哲理の分野ですが、まぁこれも全部が信用できるとも存じませんが、Self-Realization FellowshipのParamahansa Yoganandaのは神の域自体だと存じます(私は)。
論語も聞き取り記録ですが、下村湖人的に受け取れば知的観念遊戯を出ているものと存じます。
知的なものでの確かなのはグスタフ・フォン・ラートブルッフは存在を基盤にした構築と存じます。
知の領域を凌駕ということでは、常朝、阿部次郎、そして倉田百三だと自分は思っています。
つまり白状すれば、ややこしい論理で難しいのは私には手に負えない故(せい)です。
弁解すると高卒から図書館事務が商売(46年、13年前定年)です。
役にたたんだろうが傘寿老に近づいた貧者の一燈、駄弁すみません。参加しただけ。
No.6
- 回答日時:
#3の者です。
>物理学と哲学の対象の相違として、「愛」や「神」や「自我」
>などを対象としうるか、否か、というのがあります。
とのことですが、「神」は実体を持たない(認識できない)ので、
物理学の対象ではありませんが、「自我(無の潜在的な認識可能性の
時系列化)」や「愛(自己の生命の社会性の自覚(他我)化)」が
対象とならないような物理学は、量子論以前の古典的なニュートン
(素朴唯物論)的なものですね。
(ご参考までに、小生の作成(中断)した辞典の冒頭を飾る「あい」の項を)
愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。
主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。
しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。
そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である。
この回答への補足
先に勝手な英訳で補足しましたが、Wikiの英語版で使われている表現がみつかりましたので、改めて補足します。
(原文) Wovon man nicht sprechen kann, darueber muss man schweigen
(英訳) What we cannot speak about we must pass over in silence.
やはり、命題がきわめて自明なので、What we cannot speak aboutが何を指すか分からないことには、ヴィトゲンシュタインは理解できないですねぇ。
ありがとうございます。
物理学で語れない「神」に関して、ヴィトゲンシュタインは哲学でも語れないものと判断したのでしょうか?
ご参考までに論定哲学論考のWikipediaを見ると
>形而上学的領域を「語って」しまう形而上学は意味を為さない命題の集合に堕すほかない、ということを意味している。
という説明がありました。
それにしても、ヴィトゲンシュタインはなにを判定基準として語りえるもの、語りえないもを区別していたのでしょう?
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