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あたまが 生きていることを凌駕するのか?

A 回答 (11件中1~10件)

存在理由が空所になって、自分自身の精神状態に危機を感じたとき、



「わたしの生まれる前から世界はあり、わたしの死んだ後も世界はある。」

と考えて、

「きのうがそうであるように、今日も生きよう、明日があるように今日を生きよう。」

と考えました。

自然は古くはならないが、人間のなした仕事は古くなってしまうようだ、わたしは受けた恩がたくさんあるはずなのに、きちんと恩返しする前にぐちゃぐちゃになって消えてしまうようだ。

うまい恩返しはできそうもないけれど、不自然なものが新品同様で無造作に置いてあったら不思議だろうな面白いかもしれないな、という感じです。

苦し紛れにひねり出した私の存在理由なので、ヘンテコだとおもいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 存在理由が空所になって、
☆ という場合も まったく問題にならない――ということを この質問は
言おうとしています。

なぜなら 存在理由には 存在すること自体が 先行しているからです。そ
ういう基礎が すでにあるからです。

もし 存在理由をあらためて持とうとするのなら そうすれがよい。

見つかるまで・そして見つかってからも つねに 基礎としての存在が縁の
下の力持ちのごとく われをささえている。はずだ。

――こういう命題を提出しようと思っていましたし なおまだ持ちこたえる
ことが出来るかと思っています。

お礼日時:2018/04/02 14:20

途方に暮れて、いままであったものをすべて捨てねばならぬ、と思い、自分の精神に危機を感じたとき、



「昨日がそうであったように、今日を生き、明日があるように今日を生きよう。」

と考えました。

「捨てるものはみな、できるだけきれいな形にして、まさに新品が地べたに無造作においてあるように整えて捨てることにしよう。」

と。

そして現在に至っています。ちっとも、捨てるものが新品同様のものに仕上がらないのです。

これが現在のわたしの存在理由のような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 途方に暮れて、いままであったものをすべて捨てねばならぬ、と思い、
☆ よく飲み込めません。なぜ《捨てねばならぬ と思》ったのですか?

《途方に暮れて》も あったものをそのまま持っている場合も考えられま
す。


★ 自分の精神に危機を感じたとき、
☆ それまで持っていたものを持ち続けるなら 精神に危機を感じること
になるのですか?

でも 次のような考えとは 合っていません。:
★ 「昨日がそうであったように、今日を生き、明日があるように今日を
生きよう。」と考えました。
☆ 持ち物は捨てるが あとは 昨日と同じ今日を生きることにした――
ということですか?


★ 「捨てるものはみな、できるだけきれいな形にして、まさに新品が地
べたに無造作においてあるように整えて捨てることにしよう。」と。
☆ 捨て方にも 流儀があるのですか?


★ そして現在に至っています。ちっとも、捨てるものが新品同様のもの
に仕上がらないのです。
☆ 分かりません。古いものを捨てるのに新品同様にしておくのですか?

なぜでしょう?


★ これが現在のわたしの存在理由のような気がします。
☆ もちろんその内容は自由ですが 全体としてもよく飲み込めません。
よ。

お礼日時:2018/04/02 05:46

なるほど。

他の人の回答に対するコメントも読み進め、趣旨を私なりに理解してきました。

なんの「あや」かな、と思いましたが、後段の「あたまが〜」の件が本意ということですね。

つまり、これは被投的存在たる自己が、その「理由」というものについて、どう認識するか、ということなのでしょうかね。

すでに在る(その原初(出生やそれ以前の記憶)についての認識の有無に関わらず)のだから、「なぜ吾は在るのか」という問いかけ自体ナンセンスだ、というテーマということで間違いないでしょうか。


頭が考えようが思考停止しようが、すでに生命としての「生きる」メカニズムは内在しており、それを疑うことに関わらず、心臓は鼓動し、細胞達は踊る、と。

なぜ考えるのか、諸君。という事なのかな??

私は「今の」進化論に懐疑的ですが、人類としての種が、大自然で生物として進化を遂げる過程において、その「弱さ」がカギだと思っております。

他の生物に比較して、明らかに弱い。

弱さ故に、空間認識能力が養われてきて、考える、という性質も涵養されてきたのではないか、と。

その経過で、人は自己がどういう状況に置かれているのか、対処方法を意図するようになり、哲学により精神世界が構築されてきた、と。
そのように考えます。

つまり、認識出来ないが、生命活動は果たされる生物としてそのままイキをして、飯を食らって、排泄して、性交して、種を残して、という行為の積み重ねの中に、意義を見出そうとする知恵を獲得してきたのだと思うのですね。

それには、やはり、敬遠されるテーマですが、内なる神的存在について検討せざるをえなくなるものだと考えております。

なぜ違うのか。なぜ同じなのか。

それが人間存在だと思います。ゆえに、われ思う。故に我あり。となりました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ なんの「あや」かな、と思いましたが、後段の「あたまが〜」
の件が本意ということですね。
☆ そうですね。そしてその中身は №1のお礼欄に述べました。


★ つまり、これは被投的存在たる自己が、その「理由」という
ものについて、どう認識するか、ということなのでしょうかね。
☆ その実存たる存在と実存としての理由・意義・目的とは 果
たしてどちらが先立つものか? これです。

★ すでに在る(・・・)のだから、「なぜ吾は在るのか」とい
う問いかけ自体ナンセンスだ、というテーマということで間違い
ないでしょうか。
☆ はい そのとおりですというのが ひとつ目のお応えです。

微妙に細かく言うとすれば 《なぜ吾は在るのか》という問いは
《吾はすでに在る》という現実のもとに成り立っていると認識す
ること。この段階が つねに介在している。のではないか です。


★ ~~~~~
頭が考えようが思考停止しようが、すでに生命としての「生きる」
メカニズムは内在しており、それを疑うことに関わらず、心臓は
鼓動し、細胞達は踊る、と。

なぜ考えるのか、諸君。という事なのかな??
~~~~~~~
☆ なぜ生きるかを問うのは すでに生きている現実の上に成り
立つものだと 確認する必要があるのではないか です。


★ ~~~~~~~~~
私は「今の」進化論に懐疑的ですが、人類としての種が・・・

他の生物に比較して、明らかに弱い。

弱さ故に、空間認識能力が養われてきて、・・・

その経過で、人は自己がどういう状況に置かれているのか、対処
方法を意図するようになり、・・・
~~~~~~~
☆ これは パスカルの命題ですね。


★ ~~~~~
つまり、認識出来ないが、生命活動は果たされる生物としてその
ままイキをして、・・・

それには、・・内なる神的存在について検討せざるをえなくなる
~~~~~
☆ これは 存在が 人間の意志や知性を超えて与えられるとい
う神論および人間論ですね。そこから 存在に後行する存在理由
観が出て来るであろうと。

ただし その場合には:
★ ゆえに われ思う。故に我あり。となりました。
☆ とは成らないと思います。《われ信じる。ゆえに われ生き
る》という生き方になるのではないかと。

お礼日時:2018/04/02 00:33

すこし、よくわからないです。



(どういきるか?)と問われて、

秋に葉を落とし、冬に耐え、春にまた葉を芽吹かせるように生きる。

と答えたら、自然のままに、自然と共に生きるような存在理由観をもっているということでしょうか。


(なぜ、いきるか?)と人が言う場合はなにかしらの空虚さに直面しているように思えます。

ひとつの存在理由を有していたが、それが失われて、途方に暮れているときに思わず言ってしまうことのように思えます。

存在理由が(一時的に)喪失している状態のように思えます。


わたしは、自分のなかの世界観が自分の生きていることを凌駕する、はもっと恐ろしいものに取り巻かれている、のような感じで言いました。

信念や理想があり、それに向かうときは(それを実現するにはどういきるか?)になりますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
(どういきるか?)と問われて、

秋に葉を落とし、冬に耐え、春にまた葉を芽吹かせるように生きる。

と答えたら、自然のままに、自然と共に生きるような存在理由観を
もっているということでしょうか。
~~~~~~~
☆ はい。そうだと思います。


★ (なぜ、いきるか?)と人が言う場合はなにかしらの空虚さに直
面しているように思えます。
☆ そうでしょうね。そして そのあと 哲学としては なぜ生き
ないか? という問いが ふつうに自然にふさわしい問いとして問
われるものと考えます。哲学としては です。


★ ひとつの存在理由を有していたが、それが失われて、途方に暮
れているときに思わず言ってしまうことのように思えます。
☆ という事態については いま触れていませんし 触れなくても
済むと思います。


★ 存在理由が(一時的に)喪失している状態のように思えます。
☆ その場合を取り上げるとするなら そのときの――哲学に立つ
――問い方は 《なぜ生きないか?》です。

そう問うときに あたらしい存在理由をさがし求めたり いやいや
存在理由は 存在に先立つことはないという基礎命題で済ませたり
するものと思います。


★ わたしは、自分のなかの世界観が自分の生きていることを凌駕
する、はもっと恐ろしいものに取り巻かれている、のような感じで
言いました。
☆ そういう場合もあり得ますね。わたしは いづれにしても そ
れとしての信念が 生きていることの優位に立つという思想である
と受け取ります。


★ 信念や理想があり、それに向かうときは(それを実現するには
どういきるか?)になりますね。
☆ そういった場合にも その信念などに存在が先立っているとい
う基礎があるのだと思います。

お礼日時:2018/04/02 00:07

原因結果の法則に鑑みれば、かならず、われ思う、ゆえに我あり、となるでしょうね。



生きていることを謳歌する手段として、あたまが、皮膚が、六感があり、それを認識する精神が先立つ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 原因結果の法則に鑑みれば、かならず、われ思う、ゆえに我あり、となる
でしょうね。
☆ デカルトの命題は いま別の質問で扱っています。

【Q:あぁ ほとばしる痴性にゆるぎない痴呆のデカルト カント ニーチェ フロ
イト】

☆ かんたんに済ませますが 《思う・考える・疑う》ゆえに 存在が成り立
つということは あり得ません。(主観が主観において成り立つと思うことは
あり得ますが それだけのことです。一般性がありません)。



★ 生きていることを謳歌する手段として、あたまが、皮膚が、六感があり、
それを認識する精神が先立つ。
☆ 《謳歌する》のは自由ですが 生きているとき そのことを確かめるよう
に意識することはあります。あるいは 生きていることを意識するおのれをさ
らに意識することもあります。

ただし それだけのことです。

存在理由と存在との先行・後行の問題とは 別でしょう。

あいにくですが。

お礼日時:2018/04/01 22:46

純粋に、わたしが勝手にひとりで土から湧いてきて、勝手にひとりで死んで分解されて土に戻るときを、対照として考えたときは、存在=存在意義=存在理由 のような形で、しかも、勝手に湧いてきたわたしはそんなことも考えていなくて、そのわたしが湧いてきて死んでバラバラになるさまを第三者がみる場合には、そのような命の意義づけをするような気がしています。



あたまのなかの言葉が、何らかの世界を映す鏡になっていて、その持て余している言葉の集まりにどれを取っていいか迷っているような感じでしょうか。

一羽の鳥が奇声をあげるか、大きな音を立てて飛び立つ音で、仲間の鳥たちが一斉に逃げ出すサインと違うものを(時間をかけて考えないと理解できない特有の世界観を示すようなものが)人間の言葉にはあるような気がします。

あたまのなかに描かれている世界観が わたしが生きていることを凌駕しているのでしょうか
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 純粋に、わたしが勝手にひとりで土から湧いてきて、勝手にひとりで
死んで分解されて土に戻るときを、対照として考えたときは、
☆ 老子ではありませんが 《無為自然》といった生きるさまを言うので
しょうか?

もしそうだとした場合 その《生まれて生きて死んで行く》という人生で
よいのだと思っているとすれば それは そのように存在理由を考えさだ
めています。

そんなことをも何も考えないのだとした場合にも その《考えないことに
した》という人生観=すなわち存在理由観が 成り立っているものと思い
ます。

そのような存在意義についての見解を良し悪しで判定するというのではな
く そうではなく この質問は そうであっても その存在理由観も 存
在しているゆえに成り立っている・・・のではないか? という単純な疑
問を提出しています。


★ 存在=存在意義=存在理由 のような形で、
☆ という存在理由観なのだと思います。

★ 第三者がみる場合には、
☆ は 問わなくてよいものと思います。問うのなら その第三者の意見
が 自分自身の見解なのだと見られます。



★ あたまのなかに描かれている世界観が わたしが生きていることを凌
駕しているのでしょうか
☆ それなら 信念に生きるという存在理由観だと思います。

信念を曲げない・最後までまっとうする。・・・という場合であり その
ときにも 存在することが 信念の優位なる世界観を――生を終えるまで
は―― ささえています。

つまり 存在が――抹消されるまでは―― 存在理由に先立っています。




なぜこんな単純なことを言おうとするのか? それは 存在理由を問題と
して 人びとはしばしば《なぜ生きるのか》という問い方をするからです。

これは おかしい。なぜ生きるのかという問いが ふつうに自然に正当に
成り立つとするのならば それは 存在理由が決まらなければ 存在はな
お仮りの姿で生きられているに過ぎない。・・・と言っています。

存在がすでに先立っているゆえにこそ 存在理由を問おうとするのではな
いか? という趣旨です。

お礼日時:2018/04/01 21:32

わたしがこの世に放り出されて、なにかの居心地のわるさを感じたら、わたしはわたしを全力で振り絞る(大声をあげて泣く)しかありませんでした。



わたしがわたしを全力で振り絞ると、お乳を飲ませてくれたり、オムツを取り換えてくれたり、ゲップが出るまで背中をたたいてくれたりしてもらいました。

いのちを支えるために行ってくれたことと、なにかを表すために言い聞かせてくれたこととふたつあって、いいきかせてくれたほうのなにかはまだよくわからないもののあつまりのようです。

いいきかせてくれたほうのあつまりは、わたしが泣き叫んでもだれも助けてくれなくなったときの道具のようでもありますが、何かしらの大人たちの思わくも混在していて、なにかしらの取捨選択が必要な気もしています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ いいきかせてくれたほうのあつまりは、わたしが泣き叫んでもだれも
助けてくれなくなったときの道具のようでもありますが、何かしらの大人
たちの思わくも混在していて、なにかしらの取捨選択が必要な気もしてい
ます。
☆ ひとつに 大人になったあとでも わたしたちは《大声を出して泣き
叫び 助けを求めること》はあると思います。

ひとつに このように 子どもと大人とで場合分けをすることの意味が分
かりません。

《大人たちの思わくとそれの子どもとしての受け留めとが混在している》
から どうだ していないからこうだという場合分けは 特に必要がない
のではないか?

ふつうに 意見を受け留め 意見そのものとして《取捨選択》すれば よ
いのでは?

お礼日時:2018/04/01 19:45

呼び出されたばかりのわたしは、包まれるものを取り除かれ、密度の薄いなにかを通って、密度の高いなにかに触れた。



密度の高いなにかは増えて、わたしは密度の高いなにかにつつまれた。

これは、わたしが途方に暮れる前のなにかに似ている。


若いお父さんとお母さんは赤ちゃんをお風呂に入れているところでした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


《生きていること》と《生きる理由や目的》との話ですよね?

生きているのでなければ――その前提に立ってでなければ―― 生きる意義
が何か? 目的は何か? とは考えないですよね。

それとも なぜ生きるかを考えひとつの結論を出してからでないと 生きて
いないということでしょうか?

少なくとも存在理由についての結論を出していないあいだは 生きることの
試運転をおこなっているだけの段階にとどまるということでしょうか?

そういう問題だと思います。

お礼日時:2018/04/01 16:35

若いおとうさんとおかあさんと、その親類と、近所のひととが思うなんらかの思わくの目線でみるときと、



わたしがこの世に呼び出されて途方にくれている目線でみるのと

おなじに見えるのでしょうか、違ってみえるのでしょうか。


途方にくれるわたしの目線で、世界はわたしを凌駕しています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 途方にくれるわたしの目線で、世界はわたしを凌駕しています。
☆ ちょっと分かりにくいですね。同感しづらい感じですね。

つまり:
★ 途方にくれている
☆ なら しばらく時間を置いて 考えてみればよいわけです。

若い人・年取った人にかかわりなくです。


★ 世界はわたしを凌駕しています。
☆ と認識するのは まさにわたしが生きているからです。

別に何かを考えるかどうかにかかわりなく ただ生きているなら 
生きているだけで 世界が圧倒的な姿でわれに迫って来るなら わ
れはそれを 感得します。

と思うんですが。

お礼日時:2018/04/01 15:29

質疑応答の「先立つ」の言い回しのなかに、


「すでに生まれて在ることと存在意義を見いだす順序」
という時間的先行性 (before)と、
「単に生きて在ることと存在意義をもって生きること」
の優先度というか重要度というか(precede? priority?)
の混在があるんじゃない?
あるいは前者から後者を上手に導き出してはいまいか?

人生の目的を見いだした幸運な若者がその喜びの様を、
「今日から俺は生まれ変わった」と表現するのは
比喩とはいえ言い得ているのだろうし、
同じ理由で(その裏返しとして)、
存在意義に殉じて自ら生を閉じる種類の人間も
確かにいたわけだし。

電極につながれたヒキガエルの脚を
'生きてる' とは言えないんじゃないでしょうか。
(例えですよ、例え。最近こういうの厳しいから)

存在意義を見失った幽霊みたいな人たちが、
山あいの村の旅館に一人で部屋をとるのは、
ポカポカ陽気の今の季節らしいけど、
なるほど春は残酷な季節なのだな。

それでは先立つ不孝をお許し下さい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 質疑応答の「先立つ」の言い回しのなかに、
「すでに生まれて在ることと存在意義を見いだす順序」
という時間的先行性 (before)と、
「単に生きて在ることと存在意義をもって生きること」
の優先度というか重要度というか(precede? priority?)
の混在があるんじゃない?
あるいは前者から後者を上手に導き出してはいまいか?
☆ そのとおりです。ここでは 《考え方の上で先立つ》の意味です。
《時間的先行》なる意味とは切り離しても使えるとは思っています。

★ 人生の目的を見いだした幸運な若者がその喜びの様を、
「今日から俺は生まれ変わった」と表現するのは
比喩とはいえ言い得ているのだろうし、
同じ理由で(その裏返しとして)、
存在意義に殉じて自ら生を閉じる種類の人間も
確かにいたわけだし。
☆ 同じくそのとおりです。

それでも 《存在理由が存在に先立つことはない》という命題を訴え
たいと思います。

★ 存在意義に殉じて
☆ という捉え方が その命題に立っていると思います。意義や理由
が先立つという命題もあり得るとするなら 《殉じる》という捉え方
は 出て来ないのだと。

死んで花実が咲くものか? 命あっての物種。が 一般命題であると。



★ 電極につながれたヒキガエルの脚を
'生きてる' とは言えないんじゃないでしょうか。
(例えですよ、例え。最近こういうの厳しいから)
☆ カエルの気持ちになろうとしても よく分かりません。



★ 存在意義を見失った幽霊みたいな人たちが、
☆ それは すでに論点先取の間違いを犯した言い分です。

★ 山あいの村の旅館に一人で部屋をとるのは、
ポカポカ陽気の今の季節らしいけど、
なるほど春は残酷な季節なのだな。
☆ ですから いかに賢くて哲学的な悩みを持って考えていたとして
も 《なぜ生きるのか?》なる問いは すじが違っていて そうでは
なく 問いは《なぜ生きないか?》という切り口にならなければ お
かしい。

つまり なぜ生きるのかという問いでよいとするのは やはり論点先
取の間違いに立っています。理由〔の思考〕が 存在に先行するとす
でに決めつけています。

★ それでは先立つ不孝をお許し下さい。
☆ わたしには 子はいません。

お礼日時:2018/03/31 14:13

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