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一番幸せな国はブータンである。
いまいち、論ずる展開がありません。

論文みたいに詳しく教えていただきたいです。

A 回答 (6件)

ブータンは仏教国です。

その仏教の仏教たる由縁が、知ら示されおり、又徹底されている事が『一番幸せな国はブータンである。』という根源、或は国民の意識的であれ、無意識的であれ、根付いているという事を見逃す事が出来ません。

この意味は『一切皆苦』の根源が、何であって、その解消のためには何が必要なのかを、上に立つ人が知っている事を意味します。

国王自らが悩み深き人であって、その悩みの解消を『心の中の竜、という表現方法であったとしても、、』言えることのように思います。そうして大臣達も、政治をする以前に、悩める一人の人である事を知っているように感じられます。

この意味するところは、自分(人間の)役割や自分(人間の)の仕事の意味や、意義を知っていて、立ち働いている事を意味します。

物事を分っていて、大臣なら大臣の仕事を行なっていることを意味します。人間の幸福とは『自分の命を大事にして、生を全うするところに在る。』と思いますが、只単純に『この事を、子供時代から徹底させている事』がブータンがブータンたる理由になっていると思います。

そういう意味で『本当の意味で仏教国』と言う表現方法を取っています。『自分の命を大切にする事』たった是だけの徹底で、物が無くとも『幸福度が上がる事を、ブータンは』世界に示しています。

日本をその反対の意味で言うなら、『物が在っても、お金が在っても、命が在っても』生きること自体に不安を抱えている人達が多いように見受けられるからです。その間違いの一歩目が『教育現場での、教える事の内容の無さです。』

学問や教科の内容の深さ以前の問題です。『人間としての、在り方自体の在り方の問題です。』この入り口が『教師自身でさえ分っていない事が問題となっているため』山口市のような問題が起きています。

先生の仕事は、学問を教える以前に教える事がある事を意味するからです。先生の仕事は『人間の本当の生き様』を教える事が必要な事を意味します。この生き様を伝える中に人間の『生きがいが在るからです。』

生きる意味や、目的とは『命の重さの重要性を伝える中に存在します。』それは『命の重さの重要性を自ずから学ぶ中にあります。』この呼び水役が『教師の本当の仕事です。』

自分の命を輝かせるために『教育が存在しています。』

こういう基礎が無い『学力試験にだけ強い先生』達を育てている教育現場から、日本の国家予算も教育現場も『破綻に近い現在が育てられています。』それは精神医療の現場も同じです。

一人一人が、自分の命の大切さが分かる時、家族も地域社会も、郷土も国をも守ってゆこうとする事に繋がります。こういうことが分る人が増えた場合には『自分の命を絶つことなど無くなっている』事さえ意味するからです。

今の日本の閉塞感は『一つの命』の重さがわからなくなっているからです。一本の花にでも命が存在している事を『誰も、仏教寺院のお坊さんでも』教える気がなくなっているからだと思います。その原因は『お坊さんが安泰と言う理由からかもしれません?』
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 「脳と心」の中で・・・、と云うのだから=精神、と受け止めて・・・



 人間の幸せとは、それこそ人さまざま、だと思います。
 それは人それぞれに、価値観と云うべきものが、その人の資質(能力とか)によってピンからキリまであると思うので。

 でも、これでは人間の幸せは“いろいろあります”という答えになってしまうので、ここはやはり究極の(真実?の)幸せとは、と考えてcstさんの問いへの答えを試みようと思います。

 肉体は、生きるエネルギーを空腹感を通して、肉体保存のための栄養となる物を、食物と云う形で摂取しますが、幸せを求める精神も“心の空腹感”と云ってみたいと思います。

 その空腹感が求める対象を見つけられず「本当の幸せってなんだろう」と自問し、ここ哲学カテで「問題提起」することになったんですよね。

 こうした問いは、
 私は、物質的に満たされても、むなしさを感じる。
 私自信の“精神的欲望”が叶った場合でも、却ってむなしく感じる事が有る。
 と、言った事を経験しているからだと思います。

 人間の心はその肉体に孤立的に付いているのならば、自身の精神的な、そして肉体的な欲が満たされれば満足感、充足感があるはず。

 でも、状況によっては一時的に“満足感”を感じることはあっても、それでも不思議とその後に湧き起こる、なんとなくの満たされない気持ち、むなしさ、を心ある人は感じるものです。

 そんな事からたどり着く思いは、心は“孤立的”ではないのではないかと云う事です。他者と繋がっている。全体と繋がっている。言い換えれば他者のこころと自身のこころは同質なのだと。

 それは他者の心が自身の心に影響、反映する事実を以って確信できると思います。
 端的な例で言えば、幼子の「無心の笑顔」に接すると大抵の人は自身の心もうれしく、楽しく、喜んでしまいますよね。

 そしてその時のよろこび感に、むなしさ感はまったく訪れません。
 不思議です。

 本来はここからが回答(結論)となるのだと思いますが、私にはそれを示す能力が無いので、そこまでの道案内(ヒント)として投稿しました。

 cstさんの、さらなる思索を期待します。
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>一番幸せな国はブータンである。



これを絶対命題にして論じたいということですね。

ブータンも今は幸せだけれど、いずれ現代文明(グローバリズム?)が殺到したらそうでなくなるという人もいます。
それで想像です。

ブータンには美しくマイルドな自然がある。
ブータンの自然は実りが多く生活に苦労が少ない。
ブータンには素朴でうるわしい家族的な人間関係がある。
ブータンの社会はあまり階級的でない。
ブータンの国には憎み合う敵対的な隣国がない。
ブータンには国民皆が慕うことのできる立派な王室がある。

そんなことで、国民皆日々心労が少なく生きがいのある国なんじゃないでしょうか。

詳しくはありませんし、正確でもありません。
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>一番幸せな国はブータンである。



人ではなく国に幸せという形容句が使えるとするならば、それは戦争の無い国です。
日本とかブータンは幸せで、アメリカ合衆国やイスラエルは不幸な国です。

しかし、幸せという形容句の本来の使い方で、人が幸せかどうかを考えると、日本人はブータン人以上に幸せな国民ではないでしょうか。
好きなだけ石油や天然ガスを燃やして、酷暑にも涼しい生活ができるのですから。
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働ける元気な心身の維持の為に働く、


という奇妙な自家撞着へと巻き込まれ難いでしょうね。
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物質自体には、「目的(=価値・意思→幸福感)」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
これらの結果として、生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

上記の記述において、幸福感の最大化において(通常考えられるような、欲求の強さや、その達成度だけでなく)、認識の深まりが重要なファクターである事が示唆されています。
「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのです。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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