プロが教えるわが家の防犯対策術!

――または ねむりねこ=ぶらじゅろんぬの定理――

0. 想像とタトへによる議論ですが 検討・検証をよろしくどうぞ。


1. 次の道筋をとおって 虚像人間ができあがる。

(α) ひとは自然本性にもとづき 意志を中軸として生きている。

(β) 意志としての心がひねくれると へそが曲がる。

(γ) へそ曲がりでよいと確認しひねくれ続けると 心が裏返される。

(δ) ひとの心はリバーシブルとは言えないはずだが 裏返った心でおこ
なった意志行為も あたかもふつうの意志行為と変わりないように見える。

(ε) すなわち 《虚数人間》の誕生である。




2. 以上をタトヘにおいて 座標で捉えてみる。

前提として:
 x 軸: 意志のありか(意志としての思い)
 y 軸: 意志の行為(思いの自己表現)
 z 軸: 虚数軸。たくましき想像の世界。

(α‐1) はじめに x = 1,y = 0, z = 0 なる地点にわが意志はある。
生まれつきの自然本性のあり方である。

(β‐1) ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる。
意志を失くしてしまい( x = 0 ) 想像力のみの世界に入る( z = i )。
行動にはまだ及んでいない( y=0 )。

(γ‐1) これが確定すると 意志のありかとして x 軸に降りて来る。
 確定するというのは 想像だけ(早く言えば ウソだけ)を自覚し確認
することだ( z=i になお z=i を掛ける。i^2=-1 )。     
すなわち x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った。
想像の世界をあたかも去ったが 意志のありかは 想像世界をよしとして
いるから マイナス( x = -1 )となっている。

(δ‐1) この( -1, 0, 0 )なる意志のありかから自己表現として意志行
為をおこなう( y = 1 )と たとえば ( -1, 1, 0 )なる地点で発動され
ることになる。すなわち 意志行為( y 軸)のみを取れば ふつうの意志
のありか( 1, 0, 0 )からの発動・つまり( 1, 1, 0 )と較べても y 軸
が プラスの 1 であることに変わりないかたちだ。

(ε‐1) ゆえに 虚数人間が 見た目ではほとんどふつうの現実を生きて
いることとなる。そう見える。《ほとんど》に力点を置く。
違いは いわゆる動機の問題となる。それは 内面における良心の問題であ
るゆえ 外から他人がとやかく言うことはかなわない。
かくて 憎まれっ子世に憚る。悪い奴ほどよく眠る。





3. さらに細かく問い求めよう。まづ 人間の・特に意志のあり方として
これを 広く捉えて複素数( a + bi )で表わすこととする。
(α)から(ε)までの四つないし五つの段階に応じて 次のごとくである。

4. (α‐1)の《 x = 1,y = 0, z = 0 なる地点》というのは 

  a = 1, b = 0 でまだ意志を発動していない段階を言っている。
  意志の思いのみがある( a = 1 ⇒ x = 1 )。
  へそを曲げてもいない( b = 0 )。


5. (β‐1)の《ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上
がる》というのは 意志のありかが定まらなくなった状態である
( a = 0 ⇒ x = 0 )。
その代わりに 想像力としてのあたかも代理意志なる b が 1 として登場する。
すなわち:
     a = 0 〔⇒ x = 0 〕,  b = 1


6. (γ‐1)の《 x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った》というのは 
(β‐1)の z = i にさらに 同じくへその曲がりとしての i が掛け合わされる
ことによって 虚数部分の b i が 1 x i x i = -1 となることを表わす。
    
7. この -1 は とにもかくにも 実数となったわけである。よって ほん
とうは x 軸上の地点ではないはずであろうが 結果として x = -1 なる地
点にあると捉えられることになる。
    
8. これは 人間の心はひろく 現実は 寛容であることを物語るか。

9. 《結果として》(7)というのは (δ‐1)で見たように 意志の思い
が発動されて意志行為となったときには その y 軸としては プラスになり 
ふつうの意志行為と変わりないかたちになることを言っている。



10. (ε‐1)としてわれわれは 虚数人間をひろく深い心においてつまり
自然本性を共有し自然本性が互いに共生し合えるチカラに限りない伸び代(潜
在性)を遠く見据えてまた恃んで 市民権を互いにあたえ 迎え入れている。
ことか。

11. (嫌ったりからかったりするのは 表現の自由にもとづく。また負の
向きのヱクトルも じつは ひろく愛である。関係性であるゆえ なおマジハ
リをつないでいる)。

A 回答 (10件)

外交を(cosφ + i・sinφ)、内政を(cosφ - i・sinφ)のように考える。



コサインを意志、サインを活動面とみるとき、表現としては、意志が実軸、活動が虚軸のように表現されています。

意志がばねの伸び縮みによる蓄えられたエネルギー、活動がバネの復元力によって現れる錘の運動のようなイメージです。

外交と内政はあるいみ相補的でバランスの取れたものでないと、政治としてもうまくいかなくなってしまうのではないでしょうか。

あくまで、意志と活動は複素数でベクトルを回転させる操作として表現できて、ここでは、-φ から +φ までの可動範囲でよいのではないでしょうか。

ウソを二回掛けて、マイナスの意志に陥るような問題は、なにか内政と外交のような二つのアクションのバランスという考えをもっていれば、これをもとの自分に還るときに(内政)・(外交)の積を作れば、(1)に戻ります。

内政を家事、外交を仕事とみてもよいでしょうか。


あまりよい比喩ではなかったでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 外交を(cosφ + i・sinφ)、内政を(cosφ - i・sinφ)のように考える。
☆ あくまで 意志や行動には基本として 虚数をふくむんですね。


★ あくまで、意志と活動は複素数でベクトルを回転させる操作として
表現できて、ここでは、-φ から +φ までの可動範囲でよいのではない
でしょうか。
☆ 意志行為は 意志の内容の伝達が 肝心です。φ=45° は 伝達
の仕方であり 現実性・実効性を示していると捉えます。

この場合 活動も 正の値(ふつうは 1)であり 虚数は ない。つ
まり b i で b = 0 の場合だと思います。


――と思うんですがねぇ。

お礼日時:2018/06/18 23:15

わたしがわたし自身をみるとき、わたしの意志をわたしが叶えられるように行動を試みる。



わたしが、環境、あるいは、相手を見ながら、わたしの意志を考えるとき、わたしのなかの複素空間には相手のイメージが映し出されている。その相手のイメージは、よく忠実に再現されているかもしれないし、表層だけを移したものにすぎないかも知れない。わたしが相手の実像を、実体をよく移しこむためには、もっとよく相手を知らなければならない。もっとよく話して見なければならない。もっとよく行動を共にしてみなければならない。

わたしのなかにある相手の像は不完全であるかもしれないけれど、付き合って多くを知れば、おそらくは、お互いのためのちょうどよい直交関係を築けるかもしれない。

そういう意味で、わたしの複素平面上の i 軸(y 軸)の向きは、目指すべき理想として相手がいる。

この想像上の相手と対話するなかに、ある一定の方向性が見つかる。


わたしはこのように考えた。わたしがわたしの複素空間の中で見る相手に対して、なす配慮があるとすると、相手にとっても、相手の複素空間のなかの想像上のわたしがいる。相手がわたしに対してなす配慮はわたしのものと同一だろうか?

いや、恐らく同じものではないだろう。なぜなら、お互いを認め合い、尊重し合う関係は、お互いの長短をうまく保管するようにはたらくからだ。だとすると、注目している点もおそらく違い、別のものだろう。

それでも、お互いの考えていることをうまく示し合いながら向かうところはどこになるか。

わたしの複素平面と、相手の複素平面は、きちんと重なることがあるだろうか。


x = y を軸にしてわたしの複素平面を回転させ、相手の複素平面に重ねてみたらどうだろうか。わたしの持っているわたしの像(わたしの意志)と相手の持っているわたしの像(わたしの振る舞い)が重なって見える。

わたしの持っている相手の像(相手の振る舞い)とあいてのもっているあいて自身の像(相手の意志)が重なっている。

わたしの像はぼやけていないか、あいての像はぼやけていないか。


一緒に行動をともにしながら、言葉を交わしながら、この像をもっとはっきりと見える状態にできるだろうか。


わたしとあいての共通の意志は、直線 x = y の上に実現されるものでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ わたしがわたし自身をみるとき、わたしの意志をわたしが叶えられる
ように行動を試みる。
☆ それは そうでしょうね。


★ わたしが、環境、あるいは、相手を見ながら、わたしの意志を考える
とき、わたしのなかの複素空間には相手のイメージが映し出されている。
☆ 《相手のウソは ウソらしい》というふうに 虚数部で反応して映し
出している。

★ その相手のイメージは、よく忠実に再現されているかもしれないし、
表層だけを移したものにすぎないかも知れない。
☆ それは こちらの座標をそなえた鏡が 曇っている部分があるかも知
れない。

★ わたしが相手の実像を、実体をよく移しこむためには、もっとよく相
手を知らなければならない。・・・のかなぁ。もっとよく行動を共にして
みなければならない。
☆ そういうことになります。

★ わたしのなかにある相手の像は不完全であるかもしれないけれど、付
き合って多くを知れば、おそらくは、お互いのためのちょうどよい直交関
係を築けるかもしれない。





★ そういう意味で、わたしの複素平面上の i 軸(y 軸)の向きは、目指す
べき理想として相手がいる。
☆ 複素平面が 欲しいのですね 現実として。



★ わたしがわたしの複素空間の中で見る相手に対して、なす配慮がある
とすると、相手にとっても、相手の複素空間のなかの想像上のわたしがい
る。相手がわたしに対してなす配慮はわたしのものと同一だろうか?

★ ・・・
一緒に行動をともにしながら、言葉を交わしながら、この像をもっとはっ
きりと見える状態にできるだろうか。


★ わたしとあいての共通の意志は、直線 x = y の上に実現されるもの
でしょうか。

☆ 何でも別のひと言を付け加えるクセがあるので そうしますと おそ
らく問題は 相手と何かコトを一緒におこなう場合にあると捉えたほうが
実践的ではないかと思います。

極端に言えば 相手との相い照らし合いよりは コトを起こし遂行し仕上
げるという過程での互いの協力を問題にする。のだと。

相手とは 民主的にけんかを起こしつつでも 自由にマジハリを保ち コ
トを協力して成し遂げてゆく。

そのために 実数での意志の思いと実行を互いに弁えることが 肝心。ウ
ソのウソでも引き出すかも知れない。

お礼日時:2018/06/18 21:38

最後の i をかける、はかなり含蓄のあるものだとおもいます。



わたしは、他者からの配慮(cosφ + i・sinφ)を、そのままうけとることもできるし、ひねくれて(i・cosφ - sinφ)としてうけとることもできます。

相手の配慮を 90° 回転させてうけとるのは、ひねくれ、にもみえるし、相手の尊重のようにみえる場合もあるような気がしています。

自己の複素平面に他者があらわれるとき、ふたりの間柄にいろいろな経験をとおして、お互いの考え方や行動の仕方のなにかしらの特徴が少しづつ分かってくると、あたかも相手はわたしの 90° 回転した軸にあるようにみえる。それは、x 軸と y 軸が互いに直交しているほうが、二人の意見としてもっとも効率がよいから、独立のベクトルは、互いに無関係なのではなくて、お互いの存在をうまく調和させられるから丁度直交するようにお互いを結び付けているのではないか、と思います。

子どもが大人たちと同じベクトルを持っている状態から、いろいろな勉強をして、いろいろな矛盾を感じるようになり、他者といろいろな同化と異化を経験して、90° の関係をもつようになる。これは他者が完全に無関係である印ではなくて、お互いの考えの自由、お互いの行動の自由を保障できるようにしているのではないか、と思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 最後の i をかける、はかなり含蓄のあるものだとおもいます。
☆ じつは 《ねむりねこ=ぶらじゅろんぬの定理》と名づけている
ように ねむりねこ氏のアイディアです。

ウソをついて さらにウソを上塗りすると i^2=-1 となるのだと捉
えたものでした。ウソxウソが あたかも実数になるという見方です。




★ わたしは、他者からの配慮(cosφ + i・sinφ)を、そのままうけと
ることもできるし、ひねくれて(i・cosφ - sinφ)としてうけとること
もできます。
☆ そうですか。受け取りと解釈とは別になる場合もありますが。



★ 相手の配慮を 90° 回転させてうけとるのは、ひねくれ、にもみ
えるし、相手の尊重のようにみえる場合もあるような気がしています。
☆ これは 要するに 虚数 i をどう受け留めるか・どう受け留めて
やればよいかは むつかしいのでしょう。

相手に応じて 通念にしたがって受け取らざるを得ない場合もあれば
通念の持つ同調圧力があまりにもつよい場合には これまた ふたつ
のケースに分かれるのではないか?

つまり 取りあえずにでも 通念にしたがって 《すなおに》受け取
るか。あるいは 何らかのかたちで そのまま受け取ることには抵抗
するか。

シガラミに――特に家族や身内の者に危害がおよぶおそれのあるとき
には―― 屈することを余儀なくされることも しばしば。



★ 自己の複素平面に他者があらわれるとき、・・・あたかも相手は
わたしの 90° 回転した軸にあるようにみえる。それは、x 軸と y 軸が
互いに直交しているほうが、・・・
☆ そうですね。

ひとつ注意が要ります。わたしの想定では:
 
《わたし》= a (x軸, y軸 ) + b i ( z 軸) 

ですから x軸, y軸は 一個人の意志行為の範囲に展開しており そ
れと同じ座標全体を相手も展開している。そして 両者が出会う。とは
考えています。

★ 子どもが大人たちと同じベクトルを持っている状態から、いろいろ
な勉強をして、いろいろな矛盾を感じるようになり、他者といろいろな
同化と異化を経験して、90° の関係をもつようになる。・・・
☆ 学習経験ですね。人間関係の捉え方に一工夫がある。

お礼日時:2018/06/18 15:23

ものごとが思うようにすんなりゆくとき、意志のベクトルと行動のベクトルはほとんど同じ方向をもっている。



これが一応の実方向、実軸と呼ぶことにする。

ちいさなこどもが天才的にうまくいくとき、これは愛情を注ぐ者たちの愛情そのままをまっすぐ受け止めているから。

経験豊かな老人がうまくいくとき、さまざまなそれまでに経験したものから適切に判断を引き出し、行うにしても丁度良い程度を発揮できるから。

問題となりそうなのは、たくさんの情報を得て、その情報を扱う仕方がそれでよいのか不明瞭で、さまざまな偶発時にどのような対処を取ればよいかの、その調整の(試行錯誤の)試みも充分得ていないとき。

さらに、不信をもっているような間柄というものがあり、場合によっては情報戦をしかけるようなことが起こりうるとき、

これを学びすぎて、信頼して良いなかまに関しても、相手に手を差し伸べている配慮(cosφ + i・sinφ)が、本当のものなのか、偽り(cosφ - i・sinφ)なのかがわからない。

こちらが示したなんらかの配慮(cosφ + i・sinφ)を、そのまま受け取るか、逆の意味(cosφ - i・sinφ)にとるかは相手にかかっていて、複雑さを生じるのではないか、というふうな感じにイメージしています。

(cosφ + i・sinφ) を -(cosφ + i・sinφ) のように、受け取るのが、(逆にうけとること)で、(cosφ - i・sinφ)のようにうけとることは、言葉に出して言わなかったものに対して受け取るようなもの、のほうがうまい表現になっているでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。――ご回答をありがとうございます。

今回の事例は 自分の意志の表わし方からさらに進んで それを相手が
どう受け留めるかの問題であるようです。

その解釈を――勝手に平気でかんたんに――間違っておこなう場合。

このような誤解は むしろ わざと・故意に・知っていて――だから相
手を何か落とし穴に陥れようとして――おこなうものでさえあるようで
す。

ときたま そういう場合がありますね。そうとう悪質です。



日大アメフト部監督の意志のベクトルは そういった方向と心のゆがみ
があったような感じです。





★ (cosφ - i・sinφ)
☆ なる意志の思いは さらにそこへ 虚数想像術をあてがって もう
ひとつ i を掛ける。そうすると 虚数 i は消えて あたかもふつうの実
数の意志行為であって 現実的であると見える。のかも知れません。

お礼日時:2018/06/18 13:06

主軸(z 軸)



(わたし)なるもの、愛を注がれてなるわたしがあって、わたしはわたしのなかに世界の鏡像をもつ。

世界を映し出すわたしの中の世界はどれくらいまっすぐに映し出しているだろうか。

映し出した世界のなかで求める私のゆく道はどちらだろう。

わたしはわたしの思う道を歩みだそうとするが、わたしはななめにあるくもののようだ。

素直なものは、みずからの歩むべき道をまっすぐに向かっているようにみえるのだ。


素直なちいさな少年のわたしは、それこそまっすぐ歩いていて、

歳をとった年配のわたしも、それこそまっすぐ歩いている。

しかし、わたしはなぜ、このようにななめにあるくのか。


忖度かしら
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この回答へのお礼

ジグザグぢゃないのですか? あるいはつまり いわゆる螺旋形のあ
ゆみ。


ご回答をありがとうございます。




あぁ 分かりました。

z軸は 《かみの意志》に当ててもよいと思えます。

つまり それは 人間の意志のあり方としては ふたつに分かれます。

ひとつは 《非思考の庭――つまり 信仰なる動態――》として何も
シルシは つかない。ゼロのままにとどまる。

神の意志をわが心に無条件で無根拠にて受け容れている。

〔無思考なのではなく 非思考であって クレド( credo : 信じる;
信仰)は コギト(考える;思考)を超えているという意味です〕。



もうひとつは かみ(その意志・恩恵)を無条件にわが心に受け容れ
る(つまり 信じる非思考の庭)ではなく 《わざわざ人間が自分で
条件をつけその根拠についてあれこれ考える・想像する》。

あるいは 神の意志を人間の言葉で表現したオシヘに取って代える。
つまり 偶像(思考のもとにある倫理規範など としてのオシヘ)が 
神になる。

この神の意志についての思考・想像(イマジネーション)は 虚数
(イマジナリー・ナンバー)である。




《わたし》= a (x軸, y軸 ) + b i ( z 軸) なる複素数として表わせ
ると想定したとき:

z 軸は 非思考の庭(信仰)に立って b = 0 したがって z=0 と
なっている。

ただし そうではない場合がある。b = 1 となる場合。思考・想像がお
こなわれて z = i なる地点にあたまが位置することになる。つまり
その位置に 偶像の神が出来ている。

(《神は人間がつくった〔概念である〕》というのは この偶像の神の
ことだ)。



コンプレックス・ナンバー(複素数)というとき 何がコンプレックス
なのか?

虚数部( b i )つまり z 軸を 《かみの意志》に想定した場合には こ
のコンプレックスは 同じ次元だと思ってはならない。神なる絶対性は
人間の経験世界つまり実数部の《 a (x軸, y軸 )》なる人間の意志を超
えているゆえ。

お礼日時:2018/06/18 03:46

観念的な説明になってしまいましたが、〈0 0 1〉を〈sinθ 0 cosθ〉の y 軸(z→x)回転の意味をそれほど掘り下げられるかわからないので、なにかしらの意志をそのままわたしの意志とするとはなにかがわからないといけないとおもいます。



ひとつの考えとして、よいアイデアを 100 % うまく実現しうるなら、θ = 90° のとき〈1 0 0〉のような実現のしかたが可能と考えるとよいかな、という感じです。

まだ、θ = 45° のとき、どんな状態をあらわしうるかも決めていませんので…


ひとつ思うのは、わたしたちからみて、かみはなんであるかは分からなくて、分からないにもかかわらず、好きな人もいれば嫌いな人もいる。かみをきちんとうけとめて、じぶんを生きられるひとは、それがすきであるかきらいであるかもあまり問題がない。ただ、自分の置かれている状況が良かろうと悪かろうと、(かみよわれをつかいたまえ)と生きるのではないか。これは好き嫌いをこえて θ = 90° のような気がします。

一方、かみがなんであるかがわからないにもかかわらず、かみを好まないのであれば、θ > 90° のような表示もありうるのではないか、とも考えます。(ただ、これは、他人が勝手にある人を評価するものではないですよね。)
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この回答へのお礼

あっ わたしの議論は 理数のきちんとした数式を 自由に勝手に
人間の思惟や行動へとタトへとして《応用》しようとしたものです。

そこは 大目に見てやってもらわないと話は 成り立ちません。



ご回答をありがとうございます。


そのブラジェローヌ流儀によりますと 次のようになります。:
★ よいアイデアを 100 % うまく実現しうるなら、θ = 90° のと
き〈 1 0 0 〉のような実現のしかたが可能と考えるとよいかな、と
いう感じです。
☆ この場合は x軸=意志の思い として 《よいアイディア》
を表わしています。

実行に移したときには 〈 1 1 0 〉となるという感じです。すなわ
ち:
★ まだ、θ = 45° のとき、どんな状態をあらわしうるか



★ ひとつ思うのは、・・・ただ、自分の置かれている状況が良か
ろうと悪かろうと、(かみよわれをつかいたまえ)と生きるのではな
いか。これは好き嫌いをこえて θ = 90° のような気がします。
☆ なるほど。 x=0 すなわち おのが意志はすべて神にゆだ
ねている。南無(帰依)〇〇ですね。

もしキリストの神のことを言うとすれば このとき さらに話がつ
づきます。

つまり 恩恵(神の意志)にすべてをゆだねている人間の意志は
かえって 恩恵によって建てられる。人間の意志が 自由を享受す
るようになるのだと。

言いかえると じつは  θ = 90° なる状態は――人間の側の意志や
努力もありますが 基本としては―― 神の恩恵がそのことをも成さ
しめている。と言われています。

こうなると もう次元が違って来て 座標の表示には現われて来な
い部分が出て来ましょうか。



★ 一方、かみがなんであるかがわからないにもかかわらず、かみ
を好まないのであれば、θ > 90° のような表示もありうるのではな
いか、とも考えます。
☆ この場合 複雑です。

《無い神を心に受け容れている(信じている)》場合 Θ=0 です
が 非思考の庭(=信仰)としては Θ =90° なはずです。

《神は人間のつくった概念だ》の場合は z軸=かみの意志 をみ
づからの人間としての知性や意志によって 乗っ取ったかたちです
かねぇ。

その上で θ > 90° のごとく舞い上がって行っている。とか。

お礼日時:2018/06/17 22:47

〈0 0 1〉を向いている人は、かみを求めるあまり、かみのことでアタマがいっぱいになり、なにをどうするか考えていない。

意志が決まらないので、足の赴くままあちこち歩き回っている。

(かみよわれをつかいたまえ)と思っている人は、こころを世界に開いており、状況に応じた振る舞いを振舞える。これは〈10 0〉を向いている人

ある程度、環境や他人のことも配慮して、自分の自由をいくらか制御することを考える人は、〈cosφ sinφ 0〉のように表現できるのかな、とも思いました。
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この回答へのお礼

なるほど。《かみ》は このz軸としては あたまの中の観念だと
いうことですね。

ご回答をありがとうございます。


観念なのに活発である。活発だが それはあたまの中の観念。
★ 意志が決まらないので、足の赴くままあちこち歩き回っている。


したがって かみとしてのz軸は ゼロでもよい。ゼロであってよ
い。
★ (かみよわれをつかいたまえ)と思っている人は、こころを世界
に開いており、状況に応じた振る舞いを振舞える。これは〈10 0〉
を向いている人


★ ある程度、環境や他人のことも配慮して、自分の自由をいくら
か制御することを考える人は、〈cosφ sinφ 0〉のように表現でき
るのかな、とも思いました。
☆ なるほど。意志の軌跡が 球面にはならず その x軸 -y軸上
の《わたし》の位置(ベクトル)は その位置じたいは動いている
としても 原点に対する回転角度 φ が――意思表示として――明ら
かであるなら 互いに分かり合えて 話し合いを進めて行ける。






ということは z軸は《かみの意志》を呼ぶにせよ おおむね《虚
数》軸と同じようだと言えるような感じがします。

x軸(意志の――行動の以前の――思い)において あたかも空へ
舞い上がる。・・・これが z軸の《想像力(?)》のなせるわざ
です。

この舞い上がりとしての虚数《 i 》を なおそれでいいんだと言っ
てその想像の飛躍を肯定する。すると―― i x i = -1 となって―― 
x軸の負の地点に・そしてそれとして現実の中に 着地する。

ウソをそのままにして開き直った感じです。開き直りは 現実のも
のとして 受け取られる。《虚数人間》。


       *


なお オシヘが それだけでは(それをまなび推奨するだけでは)
足りないか? と言えば オシヘは 正解をみちびく補助線にしか
過ぎないからです。

正解――しばしば 神のことですが――を指し示すゆびでしかない。
ゆびの先を見なければいけない。・・・ゆえに オシヘに対して批
判的です。

お礼日時:2018/06/17 18:23

わたしの構想というよりかは、理学工学を学ぶひとたちが、通常使うであろう極座標について述べておきたいと思います。



z 軸を、x 軸のほうへ、それは y 軸で回転させるように、θ だけ回転させます。

〈001〉を、y軸回転(z→x) させると、〈sinθ 0 cosθ〉となります。(このベクトルの長さは 1 です。)

このベクトル〈sinθ 0 cosθ〉を、今度は z 軸のまわりに、x 軸から y 軸へ向けて φ だけ回転させます。

〈sinθ 0 cosθ〉を、z軸回転(x→y) させると、〈cosφsinθ sinφsinθ cosθ〉となります。

x = cosφ・sinθ
y = sinφ・sinθ
z = cosθ

この、(x, y, z) は、球面 x^2 + y^2 + z^2 = 1 の上の点になると思います。


わたしの意志(x 軸)、かみの意志(z 軸)、その他の影響(y 軸)、のようなものでしょうか。


VR を開発しているようなひとたちは、観測座標を、右向きに x のプラスの向き、前方に y のプラスの向き、上方に z のプラスの向きに取るでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ z軸=かみの意志
☆ ということは いま取りあえず《意志としての虚数(想像の飛躍もしく
はウソ)》は 関係ないのですね。


とすると 或るとき 《わたしの意志(x軸)》が 《その他の(=おそら
く他者や情況の)影響(y軸)》とともにあって 発揮される。

そこではさらに 《かみの意志(z軸)》が想定されているし 実際にはた
らくかたちである。

すると わたしの意志行為は 原点(?)を中心とした球面の上にその行為
の軌跡をしめして行く。


――ということですか?



ということは 任意のひとりの他者も 同じような意志行為の軌跡をしめす。

ということは 人間にとって意志行為の場は 各自の(もしくは それぞれ
大きさの違う)球面であり その上のどの地点で いつ・どのように位置し
ているか。このことで 互いに人間関係ないし行為の諸関係が成り立ってい
る。・・・のかなぁ。


たとえ同じ球面の上を互いに動いていても その位置が互いに違っていて
なかなか相手を捉えられないし 理解しあうことも むつかしいことが多い。
・・・のかなぁ。




いや むつかしいですね。

《かみの意志(z軸)》が なおはっきりとは掴めていないかも知れません。

お礼日時:2018/06/17 17:32

はい、i, -i は、4回掛けると 1 になるので、4 の倍数回自身の積は 1 になると思います。

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この回答へのお礼

これで 落ち着きました。

ありがとうございます。



独自の構想で どうぞ。

お礼日時:2018/06/15 20:33

弱りました。



z 軸を、神としての(人間には到達しえない、という意味での)向き。

ある平面 z = p (-1 ≦ p ≦ 1)における人間社会のありよう。

のようなものをイメージしていたところだったので。
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この回答へのお礼

どうぞすすめてください。――ご回答をありがとうございます。





また 間違えました。あちらのほうで:

i^n = ±i or ±1

がただしいでしょうか。つまり:

1^n は n が 4またはその倍数のとき +1 になるのですね。

お礼日時:2018/06/15 19:54

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