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哲学の課題なのですが、デカルトは精神の存在だけでなく身体も存在することを認めた後で、精神と身体のあり方が異なるとしていますが、(私は考える、故に私は存在するの)「精神と身体の区別」と比べて何がどう異なっているのか考えて、疑問に思ったことを述べよとあるのですが、どう答えれば良いでしょうか?

A 回答 (4件)

"我"が存在するのは確かだが


"我"が精神なのか実体なのか或いはその両方なのか
これについて論理的な説明もできずに強引に精神と実体の二元論を展開する。そのあとはひたすら妄想が続く。
これを哲学とは到底いえないが、なぜデカルトがこうも持ち上げられてるのかは疑問
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私の疑問は、存在する 故に、私は考えるという状態があるのでは?



精神=概念の、私は考えるが、身体は考えない。
概念ではないし身体機能は意識がない。
身体の一部である脳の機能を意識できない。
その人の精神や身体の現状によって、自在に機能する司令部のように考えるのですが、脳やホルモンの生理機能に精神や感じ方が左右される場合があるのではないかと考える。
存在故に考える私もいるだろうって思う。
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わたしは、目の前にいるひとのお尻をつねります。



相手は「なんだよ、やめろよ。」といいます。

わたしはさらに相手のお尻をつねります。どれくらい強くつねっているのかは、わたしの指の感覚と、相手のお尻の肉のつねった状態の弾力の状態として感じます。どれぐらいの感じに相手が感じているかはわかりません。

さらに、強くつねってみると、相手は「いててて、おい、いいかげんにしろ。」といいます。わたしの相手のお尻をつねるある力と、この、「いいかげんにしろ。」とはなんらかの関係があります。

さらに、強くつねっていくと、相手は「やめろ!」といって、わたしの左の頬を張り手しました。
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まず、「私は考える、故に私は存在する」から、思推実体としての「私」の実在を確信し、延長実体である「身体」と別であると考えました。

(延長実体無しに、思惟実体は存在しうると言う事です)
この段階では、延長実体である身体の実在は確信されていません。
したがって、次の段階で延長実体の実在を確信する必要があります。
これは、「神」の存在証明と、「神」の完全性から、その被造物が存在する事の確信により導かれます。
この後、思惟実体が延長実体とは別に思惟する事のみで思惟実体となり、延長実体は思惟しない事により延長実体となる事を確信します。(思惟するか、しないかで分別できると言う事です)
ここまでが、デカルトの論点です。
したがって、デカルトの論点に対して、この違いが何故確信できるのかと言う事に対する疑問点を述べれば良いでしょう。
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