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似たような質問があったらすみません。。

 (1)日本人が生活に於いて西暦を意識したのはいつ頃からなんでしょう。西暦と言う概念が日本に入ってきたのは明治以降でしょうか。それとも、それより昔から定着していて、「今年は遂に500年になったね」(笑)とか思っていたのでしょうか。

 (2)あるいは西暦は庶民には無縁だったかもしれないが、公の書類(紙がなければ木簡とか?)には記していたのでしょうか。

 (3)西暦に関係なく、日本には独自の元号があり、人々はそれで「今年は桓武○○年」と知っていたのでしょうか。それともこの元号も昔は庶民には無縁だったのでしょうか。。
 または、天照大神を基準とした「紀元二千何年」なんていうのを使っていたのでしょうか(これは戦時中だけかな?)

 時代によっていろいろだと思いますし、質問が分かりにくくなってしまいすみませんが、お願いいたします。

 

A 回答 (5件)

 (1)について。

ふつうの人々は多くの場合、明治5年の太陽暦採用まで西暦というものを知りませんでした。しかし江戸時代中後期になると蘭学者のなかには西暦と和暦がことなっていて、年や月にずれがあることを認識していました。『解体新書』で有名な杉田玄白は寛政6年閏11月11日にその日が西暦1795年1月1日であることから、蘭学者仲間をあつめて「おらんだ正月」という行事を行っています。一部の知識人たちには「1795年になったね」という感慨を持つだけの情報があったわけです。
 (2)について。明治5年までは、国内向けの書類には和暦、外交書類には西暦が一般的であるといえます。これは江戸時代でも同じです。ご存知かもしれませんが十干十二支という干支を六十年サイクルでまわす方法があり、元号・年数・十干十二支を組合わせて「平成十六年乙酉」などという表記の仕方がもっとも一般的でした。江戸時代までは元号が五年くらいですぐに変ったので、十干十二支のような長いサイクルで勘定できるものをくっつけておくと年を数えたりするときに便利だったのです。
 (3)について。中世(鎌倉時代~室町時代)以降になると、庶民でも今の年号がなんであるかごくふつうに知っています。最近の年号を暗記するための歌などもありました。
 いわゆる「皇紀」というのは戦時中に言いだしたもので、当時も今もよほどの右翼しかそんなことは知っていません。これがたぶん日本人にとっていちばんなじみのうすい年の数え方ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、御礼が遅くなり大変申し訳ございません。。

十干十二支で書き表す方法もあったんですね。
年号を暗記する歌まであったなんて、なんだか昔の人であっても身近に感じます。

参考になりました!
ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/06 18:14

こんばんわ


相当昔(奈良時代とか…)の話ですが
(3)についてです。天皇の名前(○○天皇の○○の部分)はその天皇の死後つけられるものです。後醍醐天皇のように自ら名乗る人もいますが、あくまでつけられるのは死後となります。(現在は一世一代で元号がつけられることが慣例化していますが、つけられるのは死後)よって、たとえば「桓武○年」と呼んでいるのは主に元号ができる以前の年代についての後世の人の便宜上の呼び名であって、その時代の人が呼んでいることはありません。よって元号というものができる以前は元号という概念そのものがなかったと思われます。やがて、元号というものが伝わるようになり、公式に使われるようになります。このころは庶民にはなじみのないものだと思います。たぶん、知る必要もないのではないかと思います。(公地公民制が実施後は必要かも…?)
西暦もないので、元号がなければそもそも今年は○年という概念もなのでないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます、御礼が遅くなり大変申し訳ございません。。

確かに相当昔では元号などの概念がなかったか、あの時代は、、と言う形でのみ用いられていたのかもしれないですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/06 18:21

西暦というのは太陽暦(太陽の運行を基準とした365日/年)です。


日本に限らず農業が中心の世界では太陰暦(月の運行を基準とした360/年)を用いているところが多かったようです(八十八夜、二百十日などの節目は太陰暦)。

日本の場合、暦は政府が作成し(陰陽寮だったかな?)全国に頒布して暦どおりに農作業を行わせていました。
しかし関東以東と関西では暦が会わない(季節がずれる)ため後に関東では三島暦(伊豆の三島大社が発行)が使用されるようになります。

一般に西暦を意識しはじめるのは外交文書上と世界史を義務教育でみんなが学ぶようになってからでしょう。

天皇の名前は明治以前は死んでから選ばれていました。自分で○○天皇と名乗ったのは後醍醐天皇くらいです。
また元号はころころ変わりますので、庶民にとって無縁だったと思います。

だいたい時系列で過去を見る習慣は明治以降の義務教育の影響で、昔のプライベートな文書では「○○さんが生きていた頃」って感じでしか昔について語っていないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、御礼が遅くなり大変申し訳ございません。。

暦の歴史もいろいろ奥が深いですね。。
西暦や年号で歴史を見るのは教育の影響ですか、なるほどそうかもしれません。

参考になりました、ありがとうございました!

お礼日時:2004/12/06 18:18

1)


西暦については答えが出ているので補足。
本家本元のヨーロッパでも西暦が使われだしたのは10世紀からです。それまではローマ紀元。だから「今年は遂に500年になったね」(笑)というシチュエーションは日本だけでなく世界中のどこにも存在しないという事になりそうです(西暦500年時には誰も西暦を知らなかった)。
3)
皇紀について出てますが、皇紀が制定されたのは明治6年。それが日本人全般に認識されだしたのが紀元二千六百年(昭和15年)です。よく戦前はすべて皇紀と思う人がいますが間違いです。昭和の本当のはじめは西暦と元号の併用でした。皇紀が新聞に出てくるのは紀元二千六百年の前年あたり(昭和14年)からで、昭和16年の対米英戦で皇紀が西暦にとってかわるような感じで使われているのが目につきます。なお皇紀は昭和20年代終わり近くまで市販の学生参考書には記載されていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、御礼が遅くなり大変申し訳ございません。。

へぇ、、なるほど、西暦500年までは西暦を使ってなかったとはおどろきでした。

参考になりました!
ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/06 18:16

明治5年から太陽暦は採用されました。


http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/k …

それまでは太陰暦が一般的に用いられていました。
もちろん公の書類もです。

以下のサイトを参照下さい。
太陰暦も色々あるようです。
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/k …

http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/koyomi.htm

ちなみに戦時中に使われた皇紀は神武天皇の即位から数えます。

仏教では、釈迦の生まれてからの年号を使うこともありました。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/k …
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この回答へのお礼

ありがとうございます、御礼が遅くなり大変申し訳ございません。。

いろんなリンクを貼ってくださり、参考になりました、感謝いたします!

お礼日時:2004/12/06 18:11

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