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西暦は6世紀にエウシグウスが考案し、次はwikiからの引用ですが
西暦1年から531年までは概念上の存在であり、実際の紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、10世紀頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという。
西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。

一般に浸透したのが15世紀以降とありますが、例えば1453年のコンスタンティノープル陥落の報などは、当時の人もその出来事が「1453年」のことであり、この数字は世界史上に刻まれる年であるといったような感覚は持っていたのでしょうか?
wikiの説明だとざっくりしすぎているので、当時の人々が自分が生きている世界は今何年なのかという感覚をどのように持っていたのか、何の暦で年数を測っていたのか、その理解はどの程度広まっていたかということを詳しくお聞きしたいです。

例えばローマ人のことでもいいのですが、彼らは建国記念が紀元前753年なので、この年を起源としてそれから2年・・・3年・・・etc という感じで自分たちの世界の年数を把握していたのでしょうか。例えばビザンツ帝国は自分がローマの正当の後継者だという意識を持ち続けていたとすれば、滅亡の1453年のことは起源から数えて2206年目にあたるから、彼らは2206年という年数を把握していたのでしょうか?
当時のビザンツの愛国的な歴史家が祖国の滅亡年を2206年として歴史書に記したというような、こういうエピソードは存在するでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

>例えば1453年のコンスタンティノープル陥落の報などは、当時の人もその出来事が「1453年」のことであり、この数字は世界史上に刻まれる年であるといったような感覚は持っていたのでしょうか?


「当時の人」とありますが、どこの地域に住んでいて、いかなる宗教を奉じていたかで変わるでしょう。

>当時の人々が自分が生きている世界は今何年なのかという感覚をどのように持っていたのか、何の暦で年数を測っていたのか、その理解はどの程度広まっていたかということを詳しくお聞きしたいです。
暦の歴史から始めませんと判り難くなるかとおもいます。
古代から世界中の人達は各々のグループ(民族)ごとに暦を持っていました。
最大の理由は農耕と祭神の為です。

ローマに御興味がお持ちようですので、取敢えずローマの暦の変遷をご説明します。
ロムルス暦:前753年制定・・・304日/年→厳冬期は無視(どうでもいい日)
ヌマ暦:前710年制定・・・355日/年→月の周期から計算して354日として1日足しました。(奇数を尊重)
ヌマ暦の改革:前153年(現在の英語の月名の原語が確定した)→地球の公転365日とのずれは閏年を設けて調整した
ユリウス暦:前46年制定・・・365日/年→4年に一度閏年
アウグストゥスの改暦:各月ごとの日数を変更した→8月の名称をsextilisからaugustusに変更した
これ以降、歴代の皇帝が自分の名前を月の名称にしようとしてすったもんだやってます
当時のローマでは1年の始まりは春分の日でした。

ローマ暦の紀元は西暦前753年を紀元としていました。
西暦3世紀にディオクレティヌスが西暦284年を紀元と改定しました。
ディオクレティヌスはキリスト教を徹底的に弾圧した皇帝でした。
西暦525年に神学者ディオニュシウス・エクシグウスが悪魔が定めた紀元である、と法皇に進言してキリスト生誕を紀元としする現在の西暦を定めました。
ただし、聖書の記述とは矛盾があり、現在の天文学の推定から実際のキリスト生誕は西暦4年となるとされています。

一方で古代エジプトでは、365日/年とした太陽暦が既に使われていました。

イスラム教圏では、イスラム暦が使われていました。354日/年→30年間に11回の閏年を設けてありました。
西暦622年に相当する年をイスラム暦の紀元としました。(ジュラ紀元)

イランでは西暦192年に、このイスラム暦を改めて独自のイラン暦を作りました。
これが現在でもイランで使われている暦です。

ユダヤ教では西暦前3761年を紀元とするユダヤ暦が使われます。

ミャンマー(ビルマ)では西暦前544年を元年とするビルマ暦を今でも使っています。

フランスはフランス革命のときに共和暦(フランス革命暦)という暦を作りました。

ソ蓮では1929年10月1日から1940年6月27日の間ソヴィエト連邦暦というものが使われていました。

中国ではローマ時代よりも遥か昔から太陰暦(旧暦)が使われていました。

>一般に浸透したのが15世紀以降とありますが
キリスト教圏での話です。
9世紀にヨーロッパに広まったという考えもあります。
実際に世界中に広まったのは植民地が拡大した18世紀以降です。

>滅亡の1453年のことは起源から数えて2206年目にあたるから、彼らは2206年という年数を把握していたのでしょうか?
自分の国の歴史は自分の国の暦で考えます。
イスラム教圏の人が、異教徒であるキリスト教徒が使う年号に一々換算して考えていたとは思えません。

日本でも、
江戸時代にはオランダと通商しており、領事館もありました。
とうぜんオランダ人が使う西暦は知っていました。
定期的に領事館から上がってくるオランダ風説書の作成時にはオランダ側は西暦を使っていたでしょう。
おそらく和文の報告書を作成した通辞が、年数を逆算して日本の年号表記にしていたのではないのでしょうか。
それはそれ、これはこれで、相変わらず太陰暦(旧暦)を使い続けました。

>当時のビザンツの愛国的な歴史家が祖国の滅亡年を2206年として歴史書に記したというような、こういうエピソードは存在するでしょうか?
寡黙にして知りません。

暦を共通なものとするのは、あくまでも国際交流の上で必要があるからだけです。
日常的には、昭和だの平成だのと日本国内でだけ通用する年号をお使いになられていませんか?
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この回答へのお礼

詳細な回等ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2013/12/29 02:50

http://en.wikipedia.org/wiki/Julian_calendar

Year numbering

ローマにおいて

1 共和制時代
二人の執政官の名前を使っていた

2 帝政ローマ
皇帝治世X年 ッて感じなので、平成だの昭和に感覚は近い

Only rarely did the Romans number the year from the founding of the city (of Rome), ab urbe condita (AUC). 一般庶民という意味では、ローマ建国何年というのは使っていなかったらしい。
This method was used by Roman historians to determine the number of years from one event to another, not to date a year. 専門家が専門分野でのみ使っていたそうだ
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2013/12/29 02:56

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