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キリスト教では「造物主としての神」を認めいているが、仏教では「造物主としての神」について言及していないように思います。

それは、仏教では、そういう神の存在自体を否定しているのか(つまり、そのような神はいないと言っているのか)、それとも、その存在について単に言及していないだけなのでしょうか?

単に言及していないだけだとすると、「造物主としての神」を認めたとしても、仏教の教えに反することにはならないのでしょうか?
それとも、「造物主としての神」の存在を認めることは、仏教の教えと矛盾する事になるのでしょうか?

お詳しい方のご意見、よろしくお願い致します。

A 回答 (9件)

仏教には様々な宗派があり、例えば原始仏教と大乗仏教ではだいぶ解き方も世界観も違います。


以下、原始仏教つまりブッダが説いたことにより近いとされるものに限って話します。

この点で注目すべき言葉があります。

「自灯明法灯明」

『自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ』ということです。
もうすこし意訳すれば
『主体的にしかし過たず法を使いこなせる自分であれ』
ここでいう法とは「世の中の仕組み」「人間関係の原理」というくらいのものです。
どこにも神は出てきません。
ブッダが追究したのはあくまで「この世でどう生きるか」でした。

ブッダは形而上学的なことについては判断を停止しています。
アートマンについてもそうですし、死後の世界もわずかな例外を除いて言及していません。(毒矢の譬え)
あくまで「この世で生きるための術」です。
その意味で、彼は神について言及していません。
ブラフマンを否定してはいなかったと思われますが。

神をまつることには否定的でした。
なにしろブッダの高弟が熱病にかかり苦しんでいた時、像を刻んで楽になろうとしているのを聞いて
「像など刻んだところで楽にはならないよ。それよりも法を追究したほうが楽になる」
と言った男です。
彼自身自分を絶対と思ったことはなく、ちょっと道の先を進むもの(導師)と規定していました。

ただ、彼は末法思想を唱えたとされる人でもあります。
「長い年月ののち、教えは歪め枉げられていくだろう。」
しかしこうも言った男です。
「それはそれでよい。諸行無常である。その時の人の判断に任せる」(大意)
大乗仏教の大日如来を祀っても「今はこれが最高の教えなのだな」としか思わないはずです。
これも「自灯明法灯明」です。
「神がこう言われるから」ではないのです。
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この回答へのお礼

>ブッダが追究したのはあくまで「この世でどう生きるか」でした。
>ブッダは形而上学的なことについては判断を停止しています。
>あくまで「この世で生きるための術」です。
>その意味で、彼は神について言及していません。

⇒ つまり、神が居るとも居ないとも、言ってない。
逆に言うと、神は居ない、とも言っていない。

だったら、私としては、この宇宙を創った神の存在を認めつつ仏教の教えの中で生きて行っても良いと考えることにしたいと思います。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 09:19

No.1です。



>>「"大日如来が、創造主といえる"という宗派もあります。」という回答がNo.1にありますが、そうした宗派があることを私は知りません。

ネットで調べれば、そういう宗派は簡単に見つかります。

>>1991年7月15日、東京ドームで、大川隆法は、自身がエル・カンターレであると宣言し、自らが地上に降りて法を説く使命、全人類を救済し、新文明を建設する等の大乗の仏陀の使命を宣言した。」とありますが、創造神だとはいってないようです

その後の幸福の科学と、大川総裁の御法話を全くフォローされていないのですね。
確かに、そのときの東京ドームの説法では、そういうことは言われていませんでした。
しかし、インドにおいても仏陀が悟りを得た後とその後の教えが変化しているように、大川総裁の話される内容も変化します。
だから、その後に「エルカンターレは宇宙の創造神である」と説法で話された時は、私もまわりの仲間も驚きましたし、宇宙人、UFO、多次元宇宙や裏宇宙に関して話され始めたときは、職員の人たちも「そういうことを話されないほうが布教的には良いのでは・・・」と言う方もいたそうです。

ちなみに、説法3000回突破記念となるカナダ・トロントでの講演会では、「香港問題に対するカナダや日本が持つべき視点やLGBTへの霊的視点」などを話されたそうです。
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言及していないだけだと思います。


諸行無常から色即是空という考え方の発展の中で
空という閾値以下の部分については無であり
そこに神がいるかどうかについては論及されていないと思います。

不確かなことについての掘り下げを後世に託すことを可能にしたのは
稲作文化と小麦文化の思想的土壌の違いだと思います。
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この回答へのお礼

>言及していないだけだと思います。

⇒ そのようですね。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 10:16

「"大日如来が、創造主といえる"という宗派もあります。

」という回答がNo.1にありますが、そうした宗派があることを私は知りません。 また、「大日如来=エルカンターレ」「地球神エル・カンターレ」「エル・カンターレは、仏教、キリスト教、イスラム教などの生みの親である。」とか「1991年7月15日、東京ドームで、大川隆法は、自身がエル・カンターレであると宣言し、自らが地上に降りて法を説く使命、全人類を救済し、新文明を建設する等の大乗の仏陀の使命を宣言した。」とありますが、創造神だとはいってないようです。
キリスト教では、確かに創造神が存在することになっているのですが、歴史時代の世界と創造神との直接の関係は判然とはしていません。通常三位一体が説かれているのですが、説くと言うよりも信じることを求められていて、創造神とはなにか、イエスや聖霊や被造物との関係がはっきりしているわけではないようです。
仏教というと、これまたやっかいですが、基本的には「法」、法則、ルールは問題にしても、創造や消滅については、苦や死や懊悩などについていっているだけで、存在そのものの始まりや終わりは問題にはしていないので、創造神を想定する必要そのものがないのだと思います。
至高神に認知され愛されているのは自分・自分達であるという見方をすることで、安心や承認欲求を満足させるという方法をとった結果、創造神と造反した被造物ということを考えざるを得なかったということが関係しているように思います。
承認要求そのものを否定するのは、あまり一般受けしませんから、仏教も、大乗仏教、密教などになれば、如来、菩薩などから救済されることを信仰する方向になってしまうのでしょうが、差別される少数民になっているという現状意識にならなくて済めば創造神話を必要としないし、創造神などは考える必要はなかったのではないでしょうか。 せいぜい、祖先神、祖霊を考えるだけでしょう。
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この回答へのお礼

>仏教というと、これまたやっかいですが、基本的には「法」、法則、ルールは問題にしても、創造や消滅については、苦や死や懊悩などについていっているだけで、存在そのものの始まりや終わりは問題にはしていないので、創造神を想定する必要そのものがないのだと思います。

⇒ そのようですね。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 10:14

>仏教では、そういう神の存在自体を否定しているのか



仏教においての『神』の定義は、「造物主としての神」としての定義
ではなく、『諸天善神』と『悪鬼』とに分かれます。

『諸天善神』
釈尊最後の説法である『法華経』において、未来において『法』を授持し広める
ものを守護する働きをする神である。

『悪鬼』
乱れた思想の世にあって、災害等、災いの起因とされる神の事。

要するに、仏教とは万物に存在する『仏性』と仏に成るための因である『法』の
存在を説き、正しい『法』に帰依する事の説明書である。
人々がこの『法』をないがしろにし誤った思想を持つ事によって悪鬼の増長を助け
様々な災いが起きる事を説いている。

あくまでも人が何を考え、何を信じるかなのです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 10:12

宗教は哲学を信仰させる手段ですからどう定義するかによってかいしゃくしていきますから


そうなるのでは
幾何学でも1点を通る平行線 1  ない 無数にあるといつた仮説で学問がなりたつのと
一緒
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 10:11

詳しくないですが



仏教は、ヒンズー教の派生として誕生したものです。
そのヒンズー教では、ブラフマン(ブラフマー)すなわち梵天が宇宙万物の創造神として位置付けられております。

仏教でも、ある程度その役割があり、梵天の死=その世界の終わりとなっております。
ただし、世界といっても、仏教宇宙には、世界がいくつもいくつもあり、消滅しても、どこかにまた世界が誕生します。

「 造物主としての神 」は、否定されているというよりも、無数の世界に住む、無数の有情の ” 意志 ” が世界を作る原動力になっているように思います。
そしてこれらいくつもの世界の中心に、結果として大日如来が常に存在するわけです。

何しろ、ゼロを発見した国の理論ですから。
キリスト教的には、世界の誕生は、無 から世界が誕生したわけですが、仏教的には元ある世界が壊れることから始まります。
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この回答へのお礼

>「 造物主としての神 」は、否定されているというよりも、無数の世界に住む、無数の有情の ” 意志 ” が世界を作る原動力になっているように思います。
そしてこれらいくつもの世界の中心に、結果として大日如来が常に存在するわけです。

⇒ 興味を惹かれるお話しですね。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/12 10:11

宗教は人が作り出した概念です。


乱れた世の中に秩序をもたらすための人の知恵です。
考え方、価値観などに一定の基準を作ったようなイメージです。

ひとつの神を信じるものも、そうでないものも
互いに他者の存在を受け入れて共生することが
宗教の本来の働きだと思います。

仏教は他者との関わりではなく自分の内面と向き合うために特化したものです。
自分を苦しめる囚われた考え方や価値観を疑えという具合です。
ある程度、人生経験するとグッとくる感じでしょうか


しかし、何事も考えすぎは危険です。
思考力は無限大です
精神を病むほどに考えてはいけませんね。
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この回答へのお礼

質問への回答にはなっていない様ですが、
実践的なご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/11 12:04

仏教はキリスト教と同じく、いくつもの宗派に分かれています。



「仏教は創造主について語っていない」という立場の宗派もあれば、「大日如来が、創造主といえる」という宗派もあります。
仏教系の幸福の科学は、後者の立場をとっていて、「大日如来=エルカンターレ」といわれています。
ですので、「創造主としての神」の存在を認めることは、ある仏教系宗派では矛盾しますが、矛盾しない仏教系宗派もあります。
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この回答へのお礼

>「仏教は創造主について語っていない」という立場の宗派もあれば、「大日如来が、創造主といえる」という宗派もあります。
>「創造主としての神」の存在を認めることは、ある仏教系宗派では矛盾しますが、矛盾しない仏教系宗派もあります。

⇒ そうだったのですか。
大日如来ですか、・・・。
勉強になりました。

仏教では、あらゆるものは無常であり、それ自体として独立して永遠に存在するものは何一つない、と言っているようなので、「創造主としての神」の存在も否定しているのかなと思ったのですが、・・・。

しかし、「創造主としての神」については「語らない」だけで、完全に否定しているお経ははなさそうなので、結局、神の存在などと言うとてつもなく大きな問題は、取りあえず横に置いて、それよりも、どうすれば人間が苦しみから解放されるか、という一点に集中して、お釈迦様は説かれた、という事なのでしょうね。

だったら、仏教において、「創造主としての神」を認めても差し支えないようにも思えます。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2019/10/11 11:59

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