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1. デカルトの《われ思う ゆえにわれあり》なる命題は アウグスティヌス
( 354-430 )の

 ( a ) Si fallor, sum. ( If I err, I am. )
    《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。》
     (アウグスティヌス:『三位一体論』10・10 c.399-421)

なる命題の二番煎じです。

1-1. そして デカルトのほうでは ただ《〈考えるわたし〉がいる》と言
っているにすぎません。

☆ この事実〔の真実であること〕は しっかりと認識しなければならないと思
いますが どうでしょう。




2. アウグスティヌスは どう言っているか?

2-1. 
 ( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る
   舞いについて間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ こ
   のふたつの――時間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそ
   のどちらについても わたし〔が行為主体〕であることを確認します。

   《わたし》というもの(こと)の自己同一性(アイデンティティ)です。
   ――この自己・このわたしがあると知られます。


2-2.
 ( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもそ
   の欺かれたというコトは わたしが存在していなければ成され得ないこ
   とです。

   犬や猫も存在しているとすればそう見なされると思うのですが つまり
   もしそれらを人間がだましたとして ひとつに 存在しているとする限
   りで だからだまし得たとなるでしょうし もし存在などしていないと
   見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。
  
   そのようにです。


3. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うに
は――わるく言えば パクッたということになります。

3-1. 《あやまちに気づく》ならば なぜそうしたのかなどについてわれは
考えますし あるいは《騙された》とするならば やはりどうしてそうなったの
かと思いをめぐらし考えます。
だから 《思う・考える》という表現に替えたのでしょう。

質問者からの補足コメント

  • デカルトは コギト命題を のちにみづから考えなおしています。その点を
    おぎないます。

    ■ (ヰキぺ:我思う、ゆえに我あり) ~~~
    § 2 後世への影響 その1

    ガッサンディはデカルトの命題を、
    「(1)全て考えるものは存在する、
    (2)私は今考えている、
    (3)ゆえに私は存在する」
    という三段論法と異ならないと指摘する。

    しかし、デカルトにとって、「(1)全て考えるものは存在する」は、未だ疑
    わしい。意識作用の直接性から「直観として」導かれたものが、コギト命題
    である。故に、これを単なる論理の推論と考えるのには慎重を要する。

    これはむしろ「いかなる推理(syllogism)からも帰結され(concluditur)
    ない或る根本的な観念(prima quaedam notio)」であり、デカルト自身
    も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。
    ~~~

      補足日時:2020/02/05 04:48
  • コギト命題については じつは先駆者がいるとちゃんと分かっているようです。

    □ ( Wikip:Cogito, ergo sum)~~~

    § 4 Predecessors

    1.Plato : "knowledge of knowledge"
    2.Aristotle:Nicomachean Ethics
    3.Parmenides: "For to be aware and to be are the same"
    4.Augustine of Hippo:Si […] fallor, sum ("If I am mistaken, I am")
    5.Avicenna's "Floating Man" thought experiment
    6.Adi Shankara
    7.Mandukya Upanishad.
    8.Gómez Pereira
    ~~~~

      補足日時:2020/02/05 05:03

A 回答 (4件)

うーん、それをいうなら、その解釈も誰かのパクリでは?

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この回答へのお礼

ざんねんながら オリジナルです。

お礼日時:2020/02/04 15:04

> ざんねんながら オリジナルです。



そうなるとロジック的に
「あなたの意見はオリジナルだけど、元の意見はパクリ」だと
証明していただけないと話は進まないと思います。

仮に元の意見がオリジナルであればあなたの意見は的外れです
元の意見がパクリで、あなたの意見がパクリなら、
世の中のオリジナルな考えなどほとんどないという結論でよいでしょう。
あなたの意見がパクリでないという悪魔の証明ができないというなら
元の意見がパクリでないという証明も難しいと思いますけどね。
(まぁ本人がパクリだと言ってるなら別ですが・・・)

もちろん
私のツッコミもすでに誰かが同じような反駁をしている可能性を
否定するものではありません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ (B.パスカル on デカルト)~~~
わたしは公正な人々に尋ねたい

《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 
《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 
果たしてデカルトの精神においてと 
同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 
同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657 )


◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~
だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自
己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 
生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気である
と思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神
は自己が知解することを知っている。
 
精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知
っているものを認めよ。

  
  ▼ (デカルト:方法序説 4) ~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現
  われうるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真で
  あるとはいわれない ということを考えて 私は それまでに私
  の精神に入りきたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 
  真ならぬものである と仮想しようと決心した。
  ~~~


それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きている
ことを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに
関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きてい
ないことを誰も疑わない。
・・・
~~~~

☆ この末尾の命題を デカルトが 《物質は自然にかつ絶対に 思
考する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていました。明
らかに擁護しているので わたしは反対に――オリジナルな――批判
を展開しました。


コギトのほうも ご要望があれば照らし合わせられるように引用して
さしあげます。

お礼日時:2020/02/04 19:49

青で検索いsたら米津源氏に使用さえてました。


もう一人出演しているようです。pラス。

使用済み核燃料リサイクルなお出h層化。弁護士は先輩に騙されて速すぎですよね。ビン放胆とか灰とか


分子の運動とか周波数が難しいですね。
線はどこなのでh層化。
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アウグスティヌスが、私という概念語ったから、誰でもの私、を起点にした、人間の時代=世界=worldの過去、現在、未来という時間概念

を発想できたのではないですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


時間論としては:
過去は記憶として 未来は期待として それぞれ現在時にある。
永遠の現在。
を言っていると思います。


◆ (アウグスティヌス:あやまつなら われあり) ~~~
さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 
認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・
どうか人々は疑ったのであった。

或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。

それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知
り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑
うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っている
ことを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。

疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。

それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはな
らない。もし この精神の働き(*または《わたし》)が存在しない
なら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (『三位一体論』10・10 中沢宜夫訳))
~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2020/02/06 20:44

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