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デカルトは「我思う、ゆえに我あり」として、精神が実体として存在すると主張しました。
また、物体とはことなり、延長という属性を持たないという点で、精神は別種の実体であるとも言っています。

一方で、彼は物体から感覚が与えられることから、与える当のものである物体が存在しなければならないとして、物体の存在をも認めています(感覚が間違えることはあるので、本質をつかむことは出来ないとも言っていますが)。

しかし感覚器官自体の存在が疑いえる(精神は別次元の実体であるから、その存在から物体の存在を証明することは出来ないように思えます)ので、その感覚自体も疑いえるわけで、従ってその感覚を与える物体も存在するかどうか定かでない、と思うのですが。。

もちろんデカルト大先生がこのような矛盾を見過ごしているわけないので、ただの誤読だと思うのですが、よろしければ説明していただけると助かります。

A 回答 (2件)

さっそくですが,ゲーテは,かく語りき.


「自由でないのに,自分は自由だと思っているものほど
 奴隷になっているものはない.」
これが意味するところは,我が選択しているにもかかわらず,
そこには我に選択させているものがある.つまり,
「我思う故に,我をそうさせるものあり.」ということです.

この命題もまた,循環論法の域を脱しない感があり,不完全で
あり,あまりに人間的な感じがします.これはボクの意見じゃ
ないんですよ.ツァラトゥストラがそんな風に言ってました.
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

なるほど、そのような解釈も出来るのですね。
臆見ですが、デカルトは、人間は有限で不完全な知を有しているが、その知が不完全であることを認識出来るということは、完全な概念というものを了解できるということだ(つまり神の概念などのことですが)、というようなことを言っていました。ですから、彼はア・プリオリな概念の存在を認めているということで、そういう意味でも、「我思う」は純粋に能動的な精神行為足り得ると彼は考えていたのではないだろうかと思いました。

いずれにせよ、頂いたご回答を参考にしながら、もう一度著書を読み込もうと思います。
有難うございました。

お礼日時:2011/12/18 15:28

デカルトは、あなたの意見も含んでいると思いますが。



どちらにしろ、あなたの意見とデカルトの考え、両方私は支持します。

デカルトに固執しない、私の意見です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

心の存在範囲の定義の変遷について調べていたのですが、その途中で浮かんだ疑問でした。
私の意見を支持して頂けるとは思ってもみなかったので、改めてデカルトの著作を読み直してみようと思います。

お礼日時:2011/12/18 13:20

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