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記憶についての質問は過去にあり、参考になりましたが、もう少し詳しく調べてみたいのです、参考になる資料などをお知らせ願えないでしょうか。

特に、記憶の内容として、感性的作用そのもの(情景や痛みや味そのもの)が、
記憶できないのでは、と言う仮定が、成立するかどうか中心になります。

例えとして、具体的な事例で説明してみます。
一年程前に、出雲から米子まで、自転車で走り、
たくさんの雪の大山を見てきました。
国府の跡地からの、遥か遠くの大山。
海を隔てた、目の前にそびえる大山。
このような大山は、まざまざと思い出すことが出来るのですが、
その時、海岸の松が海に向かって傾いていた記憶があるものの、
その松がどのような枝振りかは、記憶に無いようです、
しかし私は見たはずなのですが?

つまり、写真のように記憶しているわけではないとすると、
記憶されたものと忘れられたものの選択は、どのように行われるか?

上記のような、問題意識に都合のよい、本などありましたらお知らせください。
記憶については、哲学のカテでも行う予定です、
ご関心があれば、そちらも宜しくお願いします。

A 回答 (2件)

失礼をすいません。


おそらくカテが違うと思います。記憶でしたら心理学、医学関係などが適当だと思います。特に心理学だと記憶の研究をされてる方が多いと思いますよ。

ちなみに人間が細かいところまで覚えていられないのは、すべてを覚えてしまうと人間の処理能力の限界を超えてしまうためで、睡眠は記憶の再処理、最適化をしているといわれます。
その判断基準は覚えている必要があるかないかです。
つまり自転車で走ったことはとても大事な思い出で、覚えていようとします。しかし、松の枝振りまで覚える必要はないと脳は判断して、その光景を処分してしまうわけです。

もしあなたが松の枝振りまで重要な情報と考えているのなら、その光景は鮮明に残されているはずです。例えばあなたも感銘を受けた風景画だと、描かれている木の枝振りはおろか、光の差し方だって覚えているのではないのですか?

とまぁそんなとこです
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この回答へのお礼

う~ん、カテ違いですか。
私が、心理学は文系の系列と考えていたことと、
喩としての、松の枝が不味かったですね。

失礼しました、ご回答有難うございます。

記憶に関する疑問を、文系(私の考えていた)の心理学ではなく、
実証科学としての生物学に求めた意図が、松の枝でぼやけたようです。
学者ぶらずに、机上の空論を避けて、出来るだけ、自分の経験に即して、質問すべきと言う考えが、いつの間にか、自己顕示欲に摩り替えられたようです、多いに反省せねばなりません。

ここでは、脳の細胞の中に、心や理性といった、判断能力を持つような、特殊な機能を持った細胞がまだ見つかってはいない(私の知識不足かもしれません)とすれば、
心が判断すると考える心理学では、解決できないのでは。
といった、意味があったのですが、

記憶のあり方について
覚えようとしても、憶えられず。
忘れようとしても、忘れられない事、
つまり、記憶は、心とか意志ではなく、衝撃では?

此処で質問するには、相当長文な質問が、必要なのかもしれません、
無駄かもしれませんが、適切な喩を、後日補足欄に入れさせていただきます。毎度のことですが、決してご回答者様に対する批判的な意見では有りませんので、誤解されませんように。

ところで、医学は、目のうろこが取れました。
有難うございます。

お礼日時:2005/01/19 17:46

医学面のアプローチは、記憶を失った人が記憶を取り戻すケースを研究されている例があるかな…と思って挙げてみました。

僕は医学畑ではないので、自信はないですが…

ただ、心理学はあなたが思っているより実証科学的手法を使っていると思います。脳波の活性などからどこに感情が司るかなどなど…
心理学の根本は心の探求であり、その過程で脳の働き、記憶についての研究も盛んです。
記憶はまず短期記憶(コンピューターでいうメモリ)に貯蔵されます。短期記憶は例えば今日明日の予定、すれ違った人の顔や最近習った数学の公式などを保持します。
その後、短期記憶で反復して使われた情報、長期間保持するべきものを長期記憶にして貯蔵します(コンピューターで言うHDD)
あなたの場合は旅行に行ったこと自体は重要な体験として長期記憶に保持されましたが、光景の詳細までは記憶に値しないと弾かれたわけです。

なぜなら長期記憶に保存されるためには、まず本能によるふるいにかけられます。『これは危ない』『これはおいしい』など…次に本人の意志による反芻によって保存されます。…というようなことを教養の授業で学びました。まぁ諸説あるもののひとつだと思いますが。松の枝についてはいずれにもひっかからなかったというわけです。実際、そこまで覚える必要はないでしょ?

つまりあなたの言う『記憶は衝撃』が本能、『反芻』が意志によるものです。どちらか一方で決まるものではないと思います。

ちなみに僕の知識でも判断能力を持つ細胞は存在してないと思いますが、判断能力は神経ネットワークによって構成されているものです。例えばPCでも0や1だけでは何の意味もないですが、組み合わさることで計算ができるのと似たようなものだと思います。

あと、心理学について…
心理学は確かに心や脳の働きを前提としていろんな理論が出ていますが、根本である脳や記憶、心の探求も行っています。
面白い事例を挙げると、臓器移植でドナーの嗜好がレシピエントに移る。例えばベジタリアンが肉食に替わる、ドナーの恋人の名前にレシピエントが反応するなどの事例が稀ではありますが報告されています。そこで心臓や肝臓などの臓器にも記憶が宿るではないかと主張されています。今なお決着は付いてないのです。
上記の例については特命リサーチ200Xの本でも紹介されていたと思います。

ちなみに哲学では記憶に関しては扱っていないと思います。哲学は学問の最高峰であり、それは他部門では扱いきれないものが分野になります。
例えば進化論についてはとうの昔に生物学に任せて投げ出しているそうです。(私が哲学のカテに進化論の哲学的解釈を質問した結果です)おそらく記憶も扱ってはいないでしょう。
タンパク質やDNAが盛んな現在、生物学も記憶についてはほとんど研究されていないと思います。
私の学生時代の主専攻が生物化学系統でしたが、記憶に関しては情報工学や心理学などで学んだからです。

だらだらと長文乱文になってしまいすいませんでした
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この回答へのお礼

再度のご回答、感謝いたします。
今回の不出来な質問を、反省的に検討し直し、整理せねばと思いつつ、なかなか考えがまとまらず、困っておりました。
ここ数年、20世紀初頭以前の古典的本を中心に、経済哲学の可能性に関して、無駄な努力を続けて、自己満足していたような状態が続いていましたが、最新の科学と整合性の取れない点など、もう少し現在の科学にも目を向けねばと思い始めたところです。
心理学を文系の学問として捉える辺りが古いのかもしれません。

ところで、お約束の「松の枝」に代わる喩ですが、
生まれたばかりの、自我も何も無い、赤ん坊が、何を記憶し何を記憶しないかの選択はどのようにして可能か?
この事は、短期記憶にせよ、長期記憶にせよ、選択がされる、と言う前提があるのですが。

此処から出発すると、記憶は記憶によって選択されると考えるほうが、心や意志を持ち出すよりは、合理的なのでは?
心や意志は、記憶によって作られており、これに感情がどのような作用を及ぼしているのか?
このように考えていくと、記憶による心の成立過程を、進化論で言われる「自然選択説」に近い考え方で説明できるのでは?
臓器が記憶すると言う、興味深い指摘とも、矛盾しないような気がします。
ただ、本能による「危険」・「おかしい」と言う部分は確かに有りそうですが、「反芻」する意志の源泉が、どこにあるのか、この辺りはもう少し勉強してみたいと思います。

問題は、このような考え方で、進むのか、あるいは、謙虚に後退して、別の道を探すのか、そのヒントを、最新の脳性理学等の生物学的分野に求めてみた事が、適切ではなかった、と言うことかもしれません。

それと、もう一点、記憶が保存される、つまり一時的刺激が、記憶として残る、この点も見失ってました。

最後に、哲学には「身心問題」が有りますから、「記憶の哲学」が有っても良いのでは、と私は思います。これは、素人の思い込みと、見逃してください(笑。

こちらこそ、長々と無駄なことを書き込み、大変失礼致しました。
ご回答と心理学、参考にさせていただきます。

お礼日時:2005/01/22 06:53

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