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あり得ない。

宗教は オシへであって 実質的には《考える》べき思想である。

あたかも《信じている》ような状態になったとしたらそれは 思想を神のごとくあがめ絶対視し《つよい思い込み》状態になったに過ぎない。


なんで仏教を信じるとかキリスト教を信じると言ったりするのか?

A 回答 (12件中1~10件)

No.10、11です。



>☆ 別次元だということで けなす必要はないのですが 六識のほかは はっきりしませんね。

>第六識は―― manas =英 mind ですから――心ないし意識ですね。

・意識と捉えてください。

>第七識つまり末那識も manas= mind ですね。おそらく意識の意識を言おうとしたのではないかと。意識の自己確認のごとく。

・心、思いと捉えてください。


余談ですが、、、ついでに、、、

・第八識(アーラヤ識)、、、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁楽界、菩薩界、、、と捉えてください。

・第九識(アマラ識)、、、仏界(仏性)と捉えてください。

>あらためて言うなら 人間の知性による認識にかかわる《思考の緑野たる識》とそれらを超えた生命性としての《非思考の庭つまり信》とを区別するのがよいと考えます。

第八識、第九識を生命と捉えるという事で良いと思います。
何せ、そこには【十界】があるのですから。
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この回答へのお礼

☆☆ >第六識は―― manas =英 mind ですから――心ないし意識ですね。

・ 意識と捉えてください。
☆ 了解しました。それがいいと思います。

☆☆ >第七識つまり末那識も manas= mind ですね。おそらく意識の意識を言おうとしたのではないかと。意識の自己確認のごとく。

・ 心、思いと捉えてください。
☆ つまり 意識していることそのことを意識するわけです。とわたしは解釈します。


・ 余談ですが、、、ついでに、、、

・ 第八識(アーラヤ識)、、、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁楽界、菩薩界、、、と捉えてください。
☆ なるほど。むしろ人間の心の状態ないしその源泉の全体を言う。といった感じですかね。


・ 第九識(アマラ識)、、、仏界(仏性)と捉えてください。
☆ おそらくそうなるでしょう。と思います。つまり ここが――識で同じように並んでいますが―― 思考を超えた信仰の庭なのだと見ます。


☆☆ >あらためて言うなら 人間の知性による認識にかかわる《思考の緑野たる識》とそれらを超えた生命性としての《非思考の庭つまり信》とを区別するのがよいと考えます。

・ 第八識、第九識を生命と捉えるという事で良いと思います。
何せ、そこには【十界】があるのですから。
☆ つまり 特には仏界なわけなのだと見ます。

お礼日時:2022/03/26 21:18

>そも上で 学ぶすなわち考えると 信じるとの違いを明らかにする必要があると思います。



・それは仰る様に、違いますよね。

■学ぶ(考える)⇒第六識、、、意識の範囲。

■信じる⇒第七識、、、思量の範囲。
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この回答へのお礼

■ 第七識
☆ 以下の末那識・阿頼耶識・阿摩羅識については 前回=№10で触れました。

識なら 人間の知性――思考の緑野――であり

法=ダルマにかかわる真如のことなら すでに仏性です。非思考の庭です。


そういう区別を して欲しいと考えます。いかようにかは――わたしは―― 問いません。

お礼日時:2022/03/26 20:56

No.8です。



>信じると考えるとを 次元が別だと捉えると思います。

・それはそうですよ。

>信は信です。思考を超えています。どこまでも。

・それもそうですよ。

■要するに、以前、九識論で説いたところの、思考は第六識にあり、信は第七識にあると思います。階層は違えども、そこは連動する部分がある。


>☆ 非知なる神については 文底秘沈の本尊を言うと受け取ってください。

・では、それを今後『法』としてください。
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この回答へのお礼

>信じると考えるとを 次元が別だと捉えると思います。

・それはそうですよ。

>信は信です。思考を超えています。どこまでも。

・それもそうですよ。

■ 要するに、以前、九識論で説いたところの、思考は第六識にあり、信は第七識にあると思います。階層は違えども、そこは連動する部分がある。
☆ 別次元だということで けなす必要はないのですが 六識のほかは はっきりしませんね。

五識は 感性です。
第六識は―― manas =英 mind ですから――心ないし意識ですね。

第七識つまり末那識も manas= mind ですね。おそらく意識の意識を言おうとしたのではないかと。意識の自己確認のごとく。

第八識(アーラヤ識)や第九識(アマラ識)は はっきりしません。

識 vijñāna ヴィジュニャーナと言うならそれは あくまで人間の精神の能力を言っているはず。

しかし 根本識だとか真如だとかと言うならそれらはすでに ブッダター(仏性)のことを言うにおよぶはず。つまりは 信じるの領域であり 神の霊性ないし生命性のことになるはずです。


あらためて言うなら 人間の知性による認識にかかわる《思考の緑野たる識》とそれらを超えた生命性としての《非思考の庭つまり信》とを区別するのがよいと考えます。


>☆ 非知なる神については 文底秘沈の本尊を言うと受け取ってください。

・では、それを今後『法』としてください。
☆ 分かりました。ダルマですね。けれども これを 普遍神と捉えています こちらは。

お礼日時:2022/03/26 20:50

>宗教は 《信じる》ものか?



そもそも、日本の仏教の歴史を紐解いてみるに、《そうしたもの》は『学ぶもの』である。学んだ結果、信じるものである。これは、伝教大師、弘法大師、法然、日蓮、栄西、全ては『学ぶもの』から始まっている。

ここで、あえて『宗教』という言葉を用いてしまうと、明治時代にキリスト教などを表す『religion』までを考慮しなければならないからである。
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この回答へのお礼

・ そもそも、日本の仏教の歴史を紐解いてみるに、《そうしたもの》は『学ぶもの』である。学んだ結果、信じるものである。これは、伝教大師、弘法大師、法然、日蓮、栄西、全ては『学ぶもの』から始まっている。

☆ 《勉強ないし学ぶこと》がつねに必要でありじっさいおこなわれていると捉えたことは すでに触れました。

そも上で 学ぶすなわち考えると 信じるとの違いを明らかにする必要があると思います。




空海は 密教ですからねぇ。マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)を 普遍神の名として理解できますが あとは何とも分かりづらいですね。

《非知なる神》の信仰だと言えば――思考に非ずという点で――まさしく信仰であると言えそうですが。



法然は 念仏という修行の一本にしぼったと思います。

親鸞は 念仏も非行非善だというのですから――修行ではなく善行でもないというのですから―― まさに《非思考の庭なる信仰》が成るかどうかの一点にすべてがかかっています。



日蓮は 《唱題・勤行》という修行がつけ加わっていますね。そしてそれは 本尊が――もしそうだとしたら―― 目に見えるモノとして〔仮りにでしょうが〕成っていることと関係しているはずです。

《学ぶ(つまり 考える)》からは自由だと言える姿勢であるかどうか よく分かりません。




★ ここで、あえて『宗教』という言葉を用いてしまうと、明治時代にキリスト教などを表す『religion』までを考慮しなければならないからである。
☆ ですから オシへを宗教組織とは切り離して捉え得るなら 話は分かりやすくなるとは思います。

お礼日時:2022/03/26 19:08

No.7です。



>★ 信じる
>☆ こととの兼ね合いでは どうでしょうか。

・信じて行じる事で、また新たなる疑問が生じる。
そして、それを探求する。解決すれば、信は更に深まる。
そして、信が深まれば、信力、行力が更に深まる。

>《信じる》は 感じるや考えるといった経験事象を相手にしている場合とは別ですね。

・別ではあるが、全く関連性を持たないわけではない。

>信じるとは 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ:つまり 非知》なる神を 無条件に無根拠にてわが心に受け容れること》だと思います。
>そして《非知》は 経験世界を超えていますので その《非経験の場ないしチカラ》を受け容れることは 人間の側の意志行為ですけれど その相手たる神を信じる経験行為は 考えるや感じるを超えています。
>神を受け容れるという信じる行為と経験的なものごとを考える行為とは 同時に両立します。対象となる相手がはっきり別ですから 同じ経験行為であっても 質が違います。
>(信じたあと ヒラメキをとおして――主観にとっては――神を感じたと思ったり神について考えたといった経験を〔あくまで主観的に〕持つことはあるわけですが)。
>(そうして このヒラメキから出発して 神についての思いや考えを 人間の言葉で表現することも生じます。神観です)。

・これについては、そもそもの『神』議論が共通認識ではないので、何とも言い難い。
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この回答へのお礼

・ 信じて行じる事で、また新たなる疑問が生じる。
そして、それを探求する。解決すれば、信は更に深まる。
そして、信が深まれば、信力、行力が更に深まる。
☆ 通常そういった捉え方になるかと思います。

ただ――わたしだけかも知れませんが 哲学のげんみつな行き方では―― 信じると考えるとを 次元が別だと捉えると思います。

信は信です。思考を超えています。どこまでも。

・ 疑問が生じる。そして、それを探求する。解決すれば、信は更に深まる。
☆ というとき 《思考の緑野》で展開する疑問とその解決――あるいはつまり 自己表現とその自己批判そして新知見へと上がること――は あくまで思考として展開します。

(信じるから生起するヒラメキにかかわった思考というものがありますが 思考の段階からは あくまで思考だけです)。

・ 信が深まる
☆ 通常では まったく間違いのない認識だと思います。思いますが げんみつには 《信》は 浅いも深いもないのだと思います。

《深まった》という思いが生じるのは 思考の問題として深い理解が得られたという内容を〔のみ〕言っているものとやはり思います。

神を《無条件に無根拠にて心に受け容れた》なら そこに信の浅深は 関係なく 信についての疑問という意味での思考がかかわるとも思えません。

信をめぐる人間の言葉による説明――またはいわゆるオシへ――についての理解が浅かった・つまり深まったとか 疑問に思っていた論点について分かって来たとか こういった内容が起きている〔のみ〕かと考えます。


☆☆ >《信じる》は 感じるや考えるといった経験事象を相手にしている場合とは別ですね。

・ 別ではあるが、全く関連性を持たないわけではない。
☆ それは 理解できます。おそらくヒラメキが両者をつなぐかたちになるかと。




☆☆ >信じるとは 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ:つまり 非知》なる神を 無条件に無根拠にてわが心に受け容れること》だと思います。
・・・

・ これについては、そもそもの『神』議論が共通認識ではないので、何とも言い難い。
☆ 非知なる神については 文底秘沈の本尊を言うと受け取ってください。

そちらの神は あくまでその本尊たる普遍神から派生する(またはその分身たる)副次的な神々のことです。

お礼日時:2022/03/26 18:51

信じる前に勉強しろよ、、、と言いたい。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


そうですね。

★ 勉強
☆ は 基礎の素養を修得したあとでも・いつでも 必要でしょうし じっさいやらないはずはない。専門のことがらでもあらたにまなぶことはありますから。


★ 信じる
☆ こととの兼ね合いでは どうでしょうか。


そもそもですが 《信じる》は 感じるや考えるといった経験事象を相手にしている場合とは別ですね。

信じるとは 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ:つまり 非知》なる神を 無条件に無根拠にてわが心に受け容れること》だと思います。


そして《非知》は 経験世界を超えていますので その《非経験の場ないしチカラ》を受け容れることは 人間の側の意志行為ですけれど その相手たる神を信じる経験行為は 考えるや感じるを超えています。


神を受け容れるという信じる行為と経験的なものごとを考える行為とは 同時に両立します。対象となる相手がはっきり別ですから 同じ経験行為であっても 質が違います。




(信じたあと ヒラメキをとおして――主観にとっては――神を感じたと思ったり神について考えたといった経験を〔あくまで主観的に〕持つことはあるわけですが)。

(そうして このヒラメキから出発して 神についての思いや考えを 人間の言葉で表現することも生じます。神観です)。


こういったところでしょうか。

お礼日時:2022/03/26 17:44

信じるものは救われるという教えだからじゃない?


マジレスすると「教え」だけでは求心力がないため権威として「神」という偶像を掲げたため信じることが必要になったのだと分析しています。
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違います


先ず信ずるのです、次に実践です、次に学ぶのです

宗教に限らず
信じなければ一歩たりとも動けません
信ずればこそ実践できるのです
実践すればこそ学べるのです

宗教に限らず
世の中全て、信じて行動、信じて行動の反復堆積なのです

宗教は《考える》べき思想ではなく、結果を出す思想です
考えているだけでは何の価値も生まない
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 違います
☆ ん? 何がでしょう?


★ 先ず信ずるのです、次に実践です、次に学ぶのです
☆ ふむ。つまり そのことと 《宗教ないしオシへを信じるという表現とその実態は 考えるべきところを無条件に受け容れる(つまり 信じる)としているからには あやまちである》こととは 別なのでは?



★宗教に限らず
信じなければ一歩たりとも動けません
☆ いえ。宗教は 思想たるオシへを神とし絶対視することがダメであると言っています。


★ ~~~
信ずればこそ実践できるのです
実践すればこそ学べるのです

宗教に限らず
世の中全て、信じて行動、信じて行動の反復堆積なのです
~~~
☆ ここも 同じだと思います。



★ 宗教は《考える》べき思想ではなく、結果を出す思想です
考えているだけでは何の価値も生まない
☆ 意味内容が入り組んでいるようで 直接の応答はむつかしいように思います。

問題点として 宗教が 神ではないオシへないし思想を 神として絶対に守りなさいと言っている〔としたらその〕ことが ただの思い入れや思い込みで突っ走ることになり あやまちであると考えます。



★ 実践
☆ うんぬんの以前での問題になります。

お礼日時:2022/03/25 08:20

No.1 です。


まあそうは言っても信教の自由が法律で認められているのでしょうがないんと違いますか。賢い僕らだけが本当の事知ってたのでええでしょう。勝手にせいやちゅうことですわ。
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この回答へのお礼

いいえ。良心・信教の自由と 結社の自由とは 別です。


結社の自由も 組織宗教のばあいは――ヒエラルキアの権限体制による締め付けも重なって―― オシへをそのまま鵜呑みにしなさいという圧力が加わるという点で 果たしてそういった自己表現の自由がゆるされるか疑問ですが それはいま別としまして

オシへを神として絶対視することは 人間性に違反すると考えます。



ほらごらん あの円い月を! と言われてそこで指差しているその指を見る人はいないでしょう。つまり 月を指す指は 月ではありません。

それと同じように オシへは 信じるべき神をたしかに指し示していますが 指に当たるオシへが 神であるわけはないです。


オシへは 別の言い方をすれば 正解たる神へとみちびく補助線なわけです。ですが 補助線が 正解でもなければ オシへが神でもないと言わざるを得ません。


このように考える以上:
★ 勝手にせいやちゅうこと
☆ にはならんのです。

お礼日時:2022/03/25 08:12

ありがとうございます。


多くの宗教は髪の教えを人間が解るように訳されたものですか?

  とはいえ、そのオシエは神の啓示ではないと疑ったことは無いですか?

   タリバンは女性には教育を施してはいけないと言ってます。
あれは人間が歪めたオシエですか?


また神が人智を超えた存在ならば、思考、オシエすらも人智を超えるとは思いませんか?

  つまり、神は定義不可能であり、逆説的に自然界のすべての事象が神ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

★ 多くの宗教は髪の教えを人間が解るように訳されたものですか?
☆ ええ。

★ 人間が解るように〔☆ 人間によって〕訳されたもの
☆ だと思います。



★ とはいえ、そのオシエは神の啓示ではないと疑ったことは無いですか?
☆ ふたつあります。

① ヒラメキには げんみつに捉えるなら 直感と直観とがあります。

《まだ中身の混沌とした・ただしあたかも光が差したように感じ取れるまさにヒラメキそのもの》と《そこから何らかの言葉を得てなおまだナゾめいた部分をのこしつつも或る程度中身が見えたと思える直観》と。

光のヒラメキは 神の啓示かと思われます。

直観として得た内容は すでに実際には人間が考える思想と成っているものと思われます。


② 直感としてのヒラメキは 疑いようがありません。否が応でも起きるときは起きます。また 考えて疑うという内容のある対象ではないと思います。

直観として得たともかく思想 これについては 考えに考え また大いに疑いもします。(自己の考えについて自分で批判をします)。




★ タリバンは女性には教育を施してはいけないと言ってます。
あれは人間が歪めたオシエですか?
☆ はい。そうだと思います。


★ また神が人智を超えた存在ならば、思考、オシエすらも人智を超えるとは思いませんか?
☆ 《人知を超えた場ないしチカラ》は 人間の身(感性)も心(精神)をも超えているのですから 《思考に非ず》だと見ます。


身:感じる:感性の原野
心:考える:思考の緑野
-----------
生命性:信じる:非思考の庭

 

★ つまり、神は定義不可能であり、逆説的に自然界のすべての事象が神ではないでしょうか?
☆ 定義不可能なのを 哲学は奥の手を使って《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ:非知 incomprehensible incomprehensibility 》というふうに規定します。


この《非知》なる神について スピノザは《神即自然 deus sive natura 》と言いました。

この自然には 身や心から成る自然本性がそなわった人間存在も入ります。

神の遍在といった神観だと思われます。

神観は 主観の数ほどあり得ると考えられます。

お礼日時:2022/03/25 00:23

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