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『自分中心の思考』って、こういうことですか?

例えば、美容院。
A院で、ちょっと失礼な対応をされたことに対し、
「なんであんな事言われにゃならんのだ」
「私のどこが悪いんや」
「私のどこに原因があるんや」
と、自分に非があるんじゃないか、と自分を中心に社会があると考え、自分を責める。


片や、
「他の美容院を探そうっと!」
「良さそうな美容院、無いかなあ!」
と、他を探す。
社会全体に自分がいて、合わないことも時にはあるよね!と考える。

社会を見る時に、自分を中心に置いて社会全体を考えるのではなく、全体社会が基本にあり、その一部に自分が存在している。

こういうことですか??

A 回答 (2件)

ご質問の例に関して言えば、


前者の例は単に驚いて傷ついている人の心理状態。
後者の例は傷ついた人が悩んで憧れる状態。
と思えます。

この回答が妥当かどうかわかりませんが。
別の質問で似たような話があったので書きますね。
以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

まずは、誰かに失礼な態度を取られたらゲームエンドであると思
いましょう。そういう流れに持ち込まないというのが本来の進め
方です。そのためには自分以外の人の事も視野に入れておかない
といけないというだけであり、そういう事態になった後に互いを
非難しあっても苦しいだけでしょう。

まず第一に忘れてはいけないのは、

「全ての人類は、
 自分の幸福の為だけに一生懸命に生きなければならない」

と言う原則です。

ここから、

「全ての人類がこれ(先ほどの原則)に成功すれば、
 全ての人類は幸福に成っているはずである」

となり、全ての人が幸せに成ります。

他の人の幸福を願うのは、その方が自分がより幸福に感じるか
らです。他の人の幸せを減らして自分が幸せに成るという発想
に心が耐えられなくなるというだけなんです。

「自分の幸せの中には他人の笑顔も必要であり、他の人の仲間
 であるという自覚が大部分を占めている」

という事です。

自分の幸福の為にだけ生きるのは当然であり、これを否定した
り疑ってはいけません。

しかし、

「そうなんだけどね。他の人も幸せだったらさ。
 何かと楽だと思うんだよね。怒っている人の傍にはいたくな
 いじゃないか。また悲しんでいる人と一緒に居るのも嫌だよ
 ね。酷い話だけどさ。正直に言えばそうなんだよ。
 周囲の人が幸せそうにしていれば、自分もリラックスできる
 でしょ。大丈夫だと感じて自分の事に集中できるでしょ? 
 何が正しいとか、難しい事を言っている人の傍にはいたくな
 いよねえ。それも正直な話だよね。
 だからさ、先に周囲の人を満たしてあげればいいんだよ。
 しばらくの間は落ち着いて自分の好きなことが出来るよ。
 それがコツなんだよ」

と言う人がいれば正しいと思います。

自分中心に考えるので問題は無いんです。
しかし自分の幸せの正体は安心感なんですよね。
自分の為に行動したと思っても、後で不安に成ってしまうよう
では意味が無いという事です。

では自分中心に考える話と「自分の事だけを考える」と言う話
は同じじゃないですよね。

「私は自分を中心にして考えざる負えない。
 私は自分の見え方しか分からないからだ。
 そして私は自分の幸せだけを考えたい。
 そのためには周囲の人をまず幸せにしないといけない。
 油断をしていて突然どなられたり、八つ当たりをされたりす
 るかもしれないからね。そのときビックリして傷つくくらい
 なら、今のうちに危なそうな人が居ないか探して、癒してお
 くほうがいい。私の周りに傷ついている人が居なくなったら、
 当分の間はゆっくりしても大丈夫なはず」

これが正しいと思いますよ。つまり先に周囲の人のことを考え
る事です。けっして政治家や芸能人の事を考えるというわけで
はありません。田舎にいる両親のことでもありません。今この
時、落ち着いて趣味に興じられる様に、周囲を見渡して傍にい
る人が幸せそうにしているか探るという事です。

私が良くいくコンビニでは、店員さんが私が来るのを待ってい
るようです。レジに並びますと私が頼まなくても袋を用意し、
私が頼むタバコの銘柄を覚えていて棚から取ってくれます。
(注文すると既に袋に入っている状態で笑えます)
地球温暖化への対策とか健康被害とかそういう話が沢山ある中
で、お店の人がそこまでしてくれるわけです。そういう関係性
の方が幸せですよね。こちらは現実なんですから。心も本当に
温かくなります。実は別のコンビニ(次によくいくところ)で
も同じように対応してくれるようになりました。頼んでいなく
ても人は自然に同じように変化するようです。

悩んだ後に今と何も変わらないようでは面白くないでしょう?

「頼みもしないのに他の人が自分を大事にしてくれます。
 どうも私はそういう人間になってしまったようです」

ってな感じに成る方が良くないですか?

自分が良く接する人が幸せそうにしていれば、当面は自分の事
に集中できます。家族を大事にしたり、隣人を大事にしたり。
友人を大事にしろとかいいますが、実際には接する頻度のこと
を言っているだけです。家族とか友人とかそういうキーワード
が凄いのではありません。

私たちはドライに、

・自分を幸せにする事に集中する
・しかし先に自分の周囲を幸せにしないと危険である
・拘らず自分が良く接する人を対象に重要度を設定する
・良く接する人が突然変貌しない様に常に観察する
・大丈夫と思ったら休まずに更にその外(頻度がやや減る)人
 に対しても気を配り、幸せにする
・偏ったやり方や癖が自分につかないように、見ず知らずの人
 を相手に練習をする(俺流はどこかで通用しなくなるから)

として行動しないと行けません。

皆さんが他の人とトラブルを起こすのは、上の様に環境づくり
と維持管理をする気持ちが無いからです。幸せそうな人や幸福
が集まってそうな場所を探して彷徨い、そこにあるものを採取
しようとしていますよね。狩猟民族みたいにです。輪に入れて
貰おうという発想もそこから来ています。また、自分中心とい
うのは、「幸せハンター」みたいな狩猟民族的な発想があると
いう事なんです。

しかし、本当の現実は、何も育っていない荒れ地みたいなもの
ばかりであり、幸せを探して旅をしても荒野をさまようだけな
んです。狩猟民族的な発想ではいつか力尽きます。

そこで、荒れ地に見える場所であっても、少しづつ耕していき、
幸せの種を植えて行くんです。それらが実ったあとは、少しだ
け収穫して、また実が実る様に丁寧に元に戻します。刈り取り
過ぎるとまた荒野に戻りますよね。

いくらお金を払う客であったとしても、店員が幸せそうにして
いなければトラブルに成るんですよ。逆にお店の店員の仕事の
範疇が定まっていたとしても、店員が自分の幸せのために、お
客にサービスをすることはあるんです。

「その幸せにするってどういう事をするの?」

って思いますよね。

「うん。相手の人が他の人から苛められていたり、酷い仕打ち
 をされている場合が多いと決めてかかるんだ。
 その時に…」

「あ、慰める? え、違う? じゃ、一緒になって悪口をいう?
 え…これも違う?」

「実は自分は『全く関係ない人』であると安心させることだよ。
 ああ…この人は違うんだな。そういえば関係ないな。
 と安心してもらう事が大事なんだ。
 同じような人だとか仲間だとか思われない様に気を付ける事だ。
 すると、勝手に『そうか世の中色々な人が居る。そうそう捨て
 たもんじゃない。世の中を恨まないで済みそうだ。良かった』
 って立ち直るものなんだよ」

敵である必要もなく、味方である必要もない。
無関係な人と最初からやり直せる。
そちらの方が救いになるんです。

「ええと、じゃあ、さっきのコンビニの店員さんの例は?
 どういう事が大事なの?」

「『俺様は客なんだぞ?』という態度のお客がいるかもしれない
 よね。そういう人に出会ったらトラウマになるよ。間違いなく、
 一回は経験していると思うんだよね」

「え・・・でも自分は違うよ。そんなこと思った事もない。
 そういうお客ばかりじゃないでしょ。
 いや、そんな変な客の方が少ないはず。
 だから…」

「だから我慢すべき? 普通のお客の方が多いから?
 トラウマを持つ方が悪い?
 自分は特に店員を馬鹿にしていないので何もしないでいい?
 そこだ。そこがポイントだね。
 分かり易くこの人は違うんだと言う印象を与えたらどうだろ?
 心の中で『自分は違いますよ』と唱えるのではなく、
 こういう人もいるから大丈夫と安心させるくらいにね」

簡単に言えば上司に接するように接してみるんです。
店員さんに対しても上司説明をするような態度で接する。
変に見えない程度に。

そして、これが本当に現実を変えたという話です。
では他の場合はどうなんでしょう?

別のサービスもありますし、他の関係性もありますよね。
その時には常に「この人はトラウマを抱えている。誰かに下にみ
られて蔑ろにされた経験があるはず」と決めてかかってはいかが
でしょうか? ほぼ100%あたりますよ。

やることは同じですね。上司に接するように接する。
これ以上の深い事をしなければ行けないというのは無いでしょう。

つまり私たちは「上司に接するような態度」をしないで済む相手
や立場を求めており、そのチャンスを逃さない。そして満喫しよ
うとしてトラブルを招いているんです。

そんな話で幸福を捨てるのはどうかと思います。
諦めて、人類を含む万物が全てが上司であるとして捉え、接し方
を一つにしてはだめなんでしょうかね?

これを道徳では「礼」と言います。

人類の誰もが自分の幸福を追求せねばならない。
人類の全てがこれに成功すれば全ての人類は幸福に成る。
自分の幸福を追求するためには、必ず先に(頻度高く)自分と接
する人を幸せにする必要がある。殆どの人は誰かに馬鹿にされて
傷ついたトラウマを持つため、上司に接するような態度(礼)で
接すると、安心してもらう事ができて良い流れに変わる。
実際に現実が変わります。

以上、ご参考になれば。
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まったく違いますよ。




自己中心とは、他者の感情、都合よく解釈し、他者の視点や意図を把握できず、自分の利益だけを追求し、意見を押し通すことです。

あてはまりませんね。
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この回答へのお礼

す、素晴らしい!!!
完璧な回答を、どうもありがとうございます。

もしや、こういう人間に育つ過程なども、ご存知だったりしますか?

お礼日時:2022/09/01 22:22

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