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司馬遼太郎が次のように書いています。

<華厳の哲学というのは、日本人が大すきだった大日経、仏説阿弥陀経などに入っている思考法もしくは世界把握方です。いまは俗哲学として日本人の血肉のなかに入っています。>

質問は、華厳の哲学は、いまは俗哲学として日本人の血肉のなかに入っていますか?

質問者からの補足コメント

  • N0.7の月輪雷蔵様へのお礼が間違っておりましたので破棄して頂き、
    再度お礼を書きます。

    <日本人の感性たる”小さな者の小さな世界”という認識と、華厳の哲学である”極小の中に極大がある”という認識の両者には、大きな隔たりがある。>ですね。

    両者の間に大きな隔たりがあるから、日本人は(血肉に)華厳教を受容していない(できない)のですか?

      補足日時:2022/11/05 18:27

A 回答 (14件中11~14件)

★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~


イズモは、<自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を>なのですか。

私は、イズモが弱くタカマノハラに屈服した、単純に思っていました。
~~~~~~~~~~~

☆ レアル・ポリティークと言うのでしょうか 国と国とのあいだで チカラのつよさ〔のみ〕によって 支配関係が決まるということでしたら おっしゃるとおり単純な勝敗の問題だと思います。

チベットにしてもウイグル・モンゴルさらには台湾 そしてウクライナにしても そういうチカラ関係でものごとは決まる――となります。



クニユヅリは 次のように始まっています。:

▲ (ヰキぺ:国譲り) ~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%AD%B2 …
§ あらすじ

§§ 古事記

・ 天忍穂耳命の派遣

高天原に住む天照大御神は、
 「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ
 あかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」

と命(みこと)に天降りを命じた



§§  日本書紀(巻第二 神代下・第九段)

・ 天穂日命と大背飯三熊之大人の派遣

天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)は、高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の娘である幡千千姫 (たくはたちぢひめ)を娶り、天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎ)が生まれた。

高天原に住む高皇産霊尊(高御産巣日神)は、自分の孫をよく可愛がり崇めていたので、天津彦彦火瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと考えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 復唱するなら 古事記では 《我が子 オシホミミが〔じつはヨソの国であるイヅモは〕治める国である》という宣言から始まり 書紀では 《オシホミミの子のホノニ二ギを〔ヨソの国なるイヅモの〕君主にしようと考えた》ところからです。

前者は タカマノハラの主宰神であるアマテラスの神勅 後者は 同じくタカノハラのであるが別のタカミムスヒノ神のいだいた思わくによる話です。

言ってみるならば あそこに見える島々は わが国の天子がおさめるものと太古の昔から決まっている 統治しなさいと言ってその統治者を任命し実行させるというかたちです。



要するに 帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交だと思います。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
<帝国主義であり覇権主義でありあるいは戦狼外交>でしょうね。
大航海字時代、スペインやポルトガルは世界の各地で植民地を獲得し、それを法王に捧げていましたが、記紀側からみたら、イズモは(正当に)獲得したのでしょうし、イズモ側が譲った、ということにもなる(した)のでしょうね。

お礼日時:2022/11/05 13:24

№1です。



№2の春閑さんのお考えに 賛成と半分の批判とをしめします。


賛成から。
たとえば 本覚思想(如来蔵の思想)。

これは 太古の昔から原日本人が 《死んだらだれもが神になる》といったナラハシのような思想として すでに持っていた・・・というように考えるなら 華厳の思想と神道の思想との先行後行について 司馬とは逆であると言うべきかも知れない。

すなわち:
◆ (№2)
縄文以来の日本人の血肉の中に入っていた俗哲学が、華厳の哲学に似ていたということでしょう。




☆ しかるに・そこからひるがえって 半分(90度)だけの批判を 次のようにしめします。

つまり:
▲ (ヰキぺ:華厳経)
「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。

☆ というように 世界観があらわされたとき 前半と後半との二点にわけて考えてみます。


前半ですが 個人たるわが身心の〔将来の〕神性たる《一》が 世界にひろがって《即 一切》であるといった生命観 これを 神道が持っていたか?


後半は:
しかるに その《神即自然》に近いような思想をめぐって 華厳が《あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている》と言っている。

おそらく神道は この《無縁の関係性》といった見方を潜在性として持っていたのではないか。だから 神話の語る歴史として イヅモがアマテラスのタカマノハラ〔の服属要求〕に対して《くにゆづり》をした。

という意味は 人びとの社会関係として 積極的な友愛や博愛を主張するのではなく それよりは 自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を――思考も意識もせずに――持ち合わせていた・・・のではないか。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
折角のご回答の隅をほじるようで、失礼します。
イズモは、<自由・平等そしてユヅリ愛といった〔シャイな恥づかしがりやの〕倫理観を>なのですか。
私は、イズモが弱くタカマノハラに屈服した、単純に思っていました。

お礼日時:2022/11/04 18:04

おそらく逆です。


縄文以来の日本人の血肉の中に入っていた俗哲学が、華厳の哲学に似ていたということでしょう。

また、違う観点から考察すると、芥川龍之介は敬虔なキリスト教徒でしたが、ある時、日本のキリスト教が、神道など古代からの日本の精神文化によって改変されていることに気付いて愕然としました。
ひょっとしたら、華厳の哲学も日本風に解釈されていたのかもしれません。

いずれにしても、司馬遼太郎の解釈は、方向性が間違っていると思われます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<華厳の哲学も日本風に解釈されていた>ですね。
ある民族が外部から思想(宗教なども)が吸収する際には、否応なくフィルターが働き、100%元の思想を吸収できませんね。
日本古来(縄文から)のもの考え方・感じ方により、仏教(華厳も)もキリスト教も改変‣変容・俗化がありえますね。

お礼日時:2022/11/04 15:05

▲ (ヰキぺ:華厳経) ~~~~~~~~


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3 …

§ 内容
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。

これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 低俗だとは思いませんが 《毘盧舎那仏=大日如来》が 安易に日本神話のアマテラスオホミカミに当てはめられて習俗化しているというのかも知れません。




▲ (同上) ~~~~~~~~~~~
「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。

「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 華厳宗大本山の東大寺の大仏も そうである。





▲ ( ibid. )
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている
☆ これは 本覚思想とも言われ 人びとがみなブッダター(仏性=如来蔵)を宿すと説いている。

そして これが昂じると 人生なんの問題も心配もないといった事なかれ主義に落ち入るとも捉えられています。

◆ 俗哲学
☆ なのだろうか?





☆ 《あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている》といった《世界把握の方法》 これは 《法界縁起》とよぶそうです。おもしろいと思います。


これは《認識法》としては 関係性を軸として世界を把握する構造主義(=関係主義)にも似ています。

むろんそれでは ネットワークの筋のみで社会が成り立っているというだけであり 人間の主体的な意志行為が無に帰してしまう。


《思考法》としては 《一即一切・一切即一》というふうに捉える主体がいるわけです。ネットワークの結び目(結節点)の存在を忘れてはいけない。


《一》は 人びとそれぞれの個別の意志行為でありその現象。

これが 《即 一切》だというのは 世界が全体として 互いに切り結びする関係構造だということでしょうか。


しかも 《〈無 縁 の〉関係性(縁)によって成り立っている》と言っている。つまり 愛と言っても ねちっこさがなくておもしろいかも知れない。さしづめ ユヅリ愛とでも言えるかも知れません。

◆ 日本人の血肉のなかに入っています
☆ か そうではないか どうなんでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
ご回答になかで、理解でき気になった項目のみ列挙いたします。
1.<《毘盧舎那仏=大日如来》が 安易に日本神話のアマテラスオホミカミに当てはめられて習俗化している>
2.<人生なんの問題も心配もないといった事なかれ主義に落ち入る>
3.<ネットワークの筋のみで社会が成り立っているというだけであり 人間の主体的な意志行為が無に帰してしまう。>
以上3項目を奉じている(普通の・多くの)日本人にとって、仏教(華厳思考をとおして)は安直(厳しさに欠けている―一神教徒の視点から見たら)な姿勢で、司馬のいう俗哲学なのでしょうね。



とも捉えられています。

お礼日時:2022/11/04 14:54

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