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仏教の事、かなりザックリとしか分かりません。

業の深い者は輪廻し苦しみの世界(この世)に戻って来る。
僧は煩悩に打ち勝ち輪廻から解脱し極楽浄土を目指す。
と理解しております。

それ自体が間違っていたらご指摘ください。
一先ず上記理解が大筋あっているテイで質問します。

という事は、輪廻は悪い事ですか?

質問者からの補足コメント

  • 本文一行目に明記の通り「仏教の事」として質問しています。
    仏教の世界観において輪廻転生は悪い事でしょうか?という質問です。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/01/07 20:35

A 回答 (7件)

No.6が長文で、一杯になったので、No.7で後半を書きます。



> >「極楽往生(極楽で生きる)のを目指すな」「煩悩を捨てろ」と言っても
てっきり極楽を目指すものと思っていたのに、本来は真逆の教えだったのですか?
> 上記一説を見るに、極楽と煩悩は同義語、少なくとも類義語と受け取れます。

用語の使い方、言葉って、難しいと思います。
「地獄はヤダ。極楽がイイ」、「この世は煩悩ばかりで辛い。煩悩のない人生を」、「極楽往生したい・極楽で生きていたい」、、、、などは、"煩悩"と言えるでしょう。 愛憎や欲得から離れたい、恨みや嫉妬をなくしたいなども、"煩悩"でしょう。 激情・瞬間湯沸器型で怒りまくるとかすぐにうつうつめそめそ泣くとか、自分の欠点などをなくしたいと強く願望するのも、考えてみれば"煩悩"です。
極楽のイメージで多いのは、花が咲きいい香りがしこころが落ち着く楽曲が適度に流れ飢えも病も疲労も憎しみもないような状態でしょう。 そのような「極楽で自分が生きることを強く願望する」のならば、それは"煩悩"でしょう。 極楽そのものは煩悩ではないとしても、自分が極楽に行き・極楽で生きることを望むのなら、煩悩です。 金と才能と名誉と健康とを望むのが煩悩の一つなら、極楽往生を望むのも煩悩です。
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この回答へのお礼

つらい・・・

>No.6が長文で、一杯になったので、No.7で後半を書きます。
長過ぎるんですよ
自己満ですよこれは

お礼日時:2023/01/12 23:50

> 仏教に解脱という概念が無いという事ですか?



「十人十色というか、見解は色々とあるのではないかと思います」と、最初に書きました。 

https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq …
この上のサイトには、「寺川俊昭(てらかわしゅんしょう)(大谷大学教授・真宗学)」という方が、「解脱ということは、字を見ても分かるように、人間を縛っているさまざまなものから解放される、ということである。もともとインドの宗教一般で、修行の目ざすものを表すことばであった。仏教はそれをうけ継いで、“悟り”にかかわる大切なものを表すことばとして、積極的に磨いていったのである。だからそこには、仏教の独特の人間理解がある」と書かれています。 で、サイトの最後部には、次のように書かれています。
  ~~~~~ 部分の抜粋です。 全体はwebサイトを  ~~~~
仏教は「煩悩にまみれて生きるもの」という、まことに興味ある人間理解を示していることになる。富と物とに対する飽くことのない欲望も、その空しさを指摘されても止むことはない。人を自分の思うようにしようとする我儘な要求も、権力と名誉に対する固執も、いくら非難されても捨てはしない。怒りと憎しみ、果ては怨み、さらには他人と自分とを比較して起こす劣等感と優越感、これがどんなに人間を苦しめるかを知っても、止めることができない。 これが、「人を束縛するもの」と理解された煩悩が乱舞するすがたである。ふと、このような人生に、底知れない空虚さと無意味さを感じたものが、いまさらのように真剣に求めるもの、それは、この煩悩から解放されて、自由の主体となることではなかろうか。解脱とは、人間のこの深い要求を表したことばである。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

また、「宮田矢八郎:1948年長崎県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、中小企業金融公庫(現・株式会社日本政策金融公庫)入庫。1999年産業能率大学教授https://researchmap.jp/read0192658」という方は、次のように書いています。 https://diamond.jp/articles/-/87239
  ~~~~~~ 部分の抜粋です。 全体はwebサイトを  ~~~~
仏教の核心は釈迦の解脱です。ここでその思索と実践のプロセスに迫りたいと思います。それによって、本連載がテーマとしてきた自己超越という現象が、どのようにして人間にもたらされるのかを具体的なプロセスとして跡付けてみたいと思います。 私の理解によれば、釈迦の解脱は次の五つのステップによって達成されました。
【考】
●四苦八苦:生老病死が四苦、これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦(五蘊とは、色=形あるもの、受=感受作用、想=表象作用、行=意志・形成作用、識=識別作用という肉体・感覚(=色、受、想、行)と認識(=識))の集合体としての人間。これら構成5要素への執着が苦しみの元)を加えて八苦。釈迦の求道がここから始まることを肝に銘じたい(注1)。
●十二支縁起:無明(根源的無知)→行(潜在的形成力)→識(意識・心)→名色(心と体・世界)→六入処(眼耳鼻舌身意の六根。これが機能すれば、色声香味蝕法という境を得る)→触(接触)→受(感受作用)→愛(愛執)→取(執着)→有(業と報の存在)→生→老死。
苦の連鎖を断ち切るために生老病死という苦しみをもたらす因縁果のプロセスを逆に遡って行くと、究極原因たる無明に至る。
【断】
この項だけ、十二支縁起に関連させて【考】の中に挿入して説明します。
●行・潜在的形成力:「行」は非常に重要な概念で、釈迦の言葉の最初期の記録『ブッダの言葉 スッタニパータ』では「潜在的形成力」とあります(例えば、730,731等)。その次のステップに「識(意識、心)」があることを考えれば、これは要するに本能レベルの力で、生存への盲目的意志――その結果が食欲、性欲、睡眠欲等――とでも称すべきものです。
とりわけ、人間にとって最も身近で大きな苦しみは「倫理無縁の性欲」――色欲、色情――に振り回されることで、『真理のことば ダンマパダ』では第24章で「愛執」(愛欲、渇愛、欲情とも表現されている)なる一章を設け、色欲、色情を断ち切ることを繰り返し述べています。
【考】に戻ります。
●四諦:「諦」とは真理の意味で、苦・集・滅・道の四つの真理を四諦と言います。苦諦とは人生の真相は苦であること。集諦(じったい)とは苦の原因は「渇愛」、すなわち執着であること。滅諦とは苦の根源たる「渇愛」から離れ、これを滅し、捨て、解脱すること。道諦とは解脱への実践道たる八正道(後述)を踏むべきこと。これは十二支縁起の逆観の、別の説き方でもあります(『感興のことば ウダーナヴァルガ』第26章18)。
【定】
●禅定:身体化の方法論です。腰立の姿勢で呼吸を数えつつ(数息観)複式呼吸をする。意識の暴走、空回りを抑え、精神集中によって意識と身体の融合・一致をもたらす――「定」――。後述する八正道のひとつです。
【脱】
●解脱:このように見て来れば、解脱の要点は「行(潜在的形成力)」と「識」の切り離しにあり、繰り返しになりますが、その中心は盲目的な生存本能と化した自我の根切り――キリスト教的な表現かもしれませんが――をどう行うかとなります。忌避でもなく抑制でもなく、心における捨断であり死滅です。ここが解脱成否の分岐点となります。
前提なき探求者たる釈迦にとって、解脱が何であるかはそれがもたらす結果によって評価されます。心の中に相争うものが一切なくなり、平和と静寂がもたらされた。同時に、これが人への温和な態度として表に出てくる。この驚くべき「境涯の変化」を釈迦は涅槃と表現しました。彼はここで探求の重荷を降ろしたのです。
●涅槃:涅槃を知ることが自己超越であり自己超越の世界に入ることです。この自己超越の世界は実在するもので、釈迦はこれを知ることによって輪廻から逃れたと述べています(例えば、『ブッダのことば スッタニパータ』436、730)。別の個所を引用すれば「不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離を常に語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば作られたもの(=有為)から離脱する」(『感興のことば ウダーナヴァルガ』第26章21)。縁起や輪廻の根底にある実在とそれを知る境涯とを忘れてはいけません。
このように眺めてくると、仏教がどのような特徴を持っているかわかります。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この方は、「縁起や輪廻の根底にある実在をしっかりと知っていて、その上で、解脱に成功したハイレベルの境地・ゾーンが涅槃である」という理解をしているようです。
たぶん、仏教関係者の多くの理解はこの方に似ているものだろうと思います。
「大正大学梵文学研究室卒業生有志」を名乗る方の公開しているサイトでも、次のように書いています。 http://www.evam.ne.jp/evam/evam/faq/qa/faq02.html
   
   ~~~~~~  webページの終わりの方の抜粋です ~~~~~
Q.解脱とは?
A.解脱(げだつ)とは,すべての束縛・煩悩から解放され,輪廻の世界から脱して自由で安らかな境地に到達することです。涅槃とだいたい同じ意味と考えてよいでしょう。
Q.涅槃について教えてください
A.涅槃(ねはん)とは,煩悩を完全に消滅させた安らぎの状態,悟りの境地のことです。「涅槃」という言葉は,サンスクリット語の俗語の音を写したもので,「滅」「寂滅」などと訳されます。 原語(サンスクリット語)はニルヴァーナで,「(火が)吹き消された状態」を意味します。煩悩を燃えさかる火にたとえて,このような使われ方をされたようです。また火は「命の火」とも考えられたため,「死」のことも意味します。
仏教の究極の目標は,天に生まれることではなく,あらゆる煩悩を消滅させ,安楽な境地に入ることです。この涅槃の境地に達した人は,苦しみに束縛された世界である輪廻から脱し,もはや再び業によって無理矢理,不本意に生まれ変わることはありません。
修行によって煩悩を完全に消滅させても,まだ肉体という制約・束縛があります(有余衣涅槃<うよえねはん>)。そのため死によって肉体も消滅し,すべての制約・束縛がなくなった状態をとくに般涅槃(はつねはん,完全な涅槃。無余衣涅槃<むよえねはん>)といいます。この般涅槃という言葉は釈迦の死に対して使われます。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この上の記載には「この涅槃の境地に達した人は,苦しみに束縛された世界である輪廻から脱し,もはや再び業によって無理矢理,不本意に生まれ変わることはありません」と書かれていて、輪廻そのものから離脱するように理解される書き方です。 
たぶん、そういう説明がポピュラーなのです。 
しかし、それでは矛盾すると私は思います。 私は、本意も欲も老・衰・死・貧・愛も苦も超然あるいは自然に受ける《解脱の境地》ならば、「輪廻は続く」が「業がどうであろうが」気にならないということだと思います。
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この回答へのお礼

つらい・・・

>輪廻から脱し,もはや再び業によって無理矢理,不本意に生まれ変わることはありません
>そういう説明がポピュラー
>それでは矛盾すると私は思います
十人十色というか、あなたが一般論と違った解釈をお持ちという事ですね。
ポピュラーが存在する時点で十人十色ではなく、ある程度の仏教に対する共通の観念が存在するという事だと思います。
そしてポピュラーを語っている時点でその存在を十分認識している筈だと思われます。
質問の文面でも大体分かると思うのですが、私は全ての解釈を求めてはいませんし、少数派であるあなたの個人的な解釈には何の関心もありません。

お礼日時:2023/01/12 23:50

もしかすると、十人十色というか、見解は色々とあるのではないかと思います。



単に、言葉の意味だけを追って理解すると、
A:業の深い者は輪廻し苦しみの世界(この世)に戻って来る。
B:僧は煩悩に打ち勝ち輪廻から解脱し極楽浄土を目指す。
このAとBとは、無関係でしょう。

「輪廻」は「輪廻転生」のことで、業が深いか浅いかには関係がなく、当然に巡るもので、「死んだら万巻の終わりにはならず、ある一巻が終わって、次の巻になっていく。廻り巡って他の生にいく」というだけのことです。

煩悩に打ち勝つのではなく、煩悩を捨てる、煩悩に悩まない状態に自分を持っていき、輪廻転生しても平然と受け入れるので、もはや輪廻転生は、朝昼晩夜や四季が巡るのと同じ、それを苦に思わない。
「僧は、極楽往生(極楽で生きる)のを目指している」のではない。
ただ、(この世で辛い別れや病苦、愛憎、恨み嫉妬、愛欲、金銭欲、権力欲を持ちすぎていたり、死ぬことや、畜生道、餓鬼道、地獄道に往くことを今恐れている人)がいた場合に、「極楽往生(極楽で生きる)のを目指すな」「煩悩を捨てろ」と言っても、そのようにはならないことが、経験的に分かっています。
むしろ、「大丈夫、必ず救われます。救ってくれると尊い誓願をしてくれています」「仏に感謝してお祈り」と言った方が、結果的に恐れおののくことを遠のけ、結果煩悩からちょっとは離れて安心の境地になる人が多いという現実をみて、『極楽往生出来ることは確かです。祈りと感謝を』と言うのです。 
 ⇒ 便法と言います。
https://www.weblio.jp/content/%E6%96%B9%E4%BE%BF

> 仏教の世界観において輪廻転生は悪い事でしょうか?という質問です。

仏教の世界観では、輪廻転生は決まり事、法則です。 イイもワルイもないのです。
『輪廻転生は辛い・ヤダ』と思う人には、あえて説明しないだけです。
釈迦も 何度も仏になったり、人間になったり、悩んだりしているのです。
「輪廻転生は悪い事?」の回答画像5
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>当然に巡るもの
仏教に解脱という概念が無いという事ですか?
分かりました。

煩悩を捨てる、煩悩に悩まない、受け入れる、こういった精神に至るまでの葛藤や過程を「煩悩に打ち勝つ」と表しました。

>「極楽往生(極楽で生きる)のを目指すな」「煩悩を捨てろ」と言っても
てっきり極楽を目指すものと思っていたのに、本来は真逆の教えだったのですか?
上記一説を見るに、極楽と煩悩は同義語、少なくとも類義語と受け取れます。
意外な事ばかりです。

お礼日時:2023/01/12 12:33

>輪廻は悪い事ですか?



そうです。

悪い事の意味合いによりますが、輪廻転生は苦痛で、そこからの脱却が課題になります。
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超克されるべきもの. として否定されて


いる、というのが一般的解釈だと
思われます。
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この回答へのお礼

主語等色々抜け落ちていて読解するのが難しいのですが、輪廻転生は悪いという事でしょうか?

お礼日時:2023/01/08 14:52

仏教は、世間を離れて、産業を離れて、科学を離れては存在しません


少し難しいですが
法華玄義卷一に「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せざるが如し」とあります。
仏教が分からなくても、
極小物質や宇宙が少々分かれば、それが仏教と理解してよいのです
生命科学や深層心理学や量子論は、仏教の正しさの証明になっています

過去現在を含めて、素粒子から大宇宙に至るまで、すべて回転しているのです、生命だけ例外、と言う事はありません
仏教で言う、
因果応報や自業自得は科学であり、輪廻転生は宇宙の法則です

仏典を少し深読みすると、
極楽浄土や地獄は、あの世にあるのではなく、この世に存在する事が分かります。
さらい言えば、我地域に、我家庭に、我生命の中に存在します

輪廻転生を信ずれば、悪事を止める事ができるので、善い事です

少々仏典を深読みすると、質問者さんの言う
煩悩に打ち勝ち輪廻から解脱し極楽浄土??・・は、間違いです

「煩悩即菩提」という法理があり、「煩悩」を断じるのではなく、そのまま「菩提」へと開いていけると説きます。
また「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」という法理があり、苦悩(毒)を転じて、その身のままで成仏という人生究極の幸福を勝ち取っていける(薬)と説きます。
さらに「転重軽受(重きを転じて軽く受く)」という法理では、過去世・現世・来世という三世の生命を踏まえ、正しく信ずれば、過去世の重罪を転じて、現世で軽くその報いを受けるのだから、現世で宿命転換に挑んでいくよう教えています。
 こうした法理に基づくならば、苦しみや悩みが大きければ大きいほど、
正しく信ずれば、大きな幸福、大きな歓喜に転換していくことができると強調しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ちょっと難しいのですが、結論、輪廻転生は悪い事ではないという事でしょうか?

お礼日時:2023/01/08 14:49

そもそも輪廻転生は仏教を、知識の乏しい庶民に都合を良く信じさせる、ために作られた妄想に過ぎず、実際には一切存在しません、純然たる事情なので書きます、そもそも輪廻転生も、天国も地獄も呪縛霊も一切存在しないのです、逝くと、何も感じなくなり楽になります、


どんな死に方(例え身勝手な自死や大量殺人を冒しての死刑であっても)
死んだら平等に、肉体だけで無く、心とされる(魂や精神)は瞬時に消えてしまい、意識の無い、永遠の完全な無が待っているだけで、完全に終わりで、死後に苦しむ心配は一切ありません、さらに詳しくはこちらの知恵ノートを御覧頂ければ幸いです ⇒http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n260621
もちろん、最近大流行りの異世界転生もののアニメように、死後に異世界転生して素晴らしい、来世が待っている可能性も完全に0%。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

つらい・・・

かなり的外れな回答。
繰り返しになりますが冒頭、仏教の事と銘打って質問をしていますし、そもそも宗教学というカテゴリーで質問をしています。
自信ありスタンプがイタかったですね。
更にはセルフgood、ご苦労様です。

お礼日時:2023/01/12 23:49

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