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7から8世紀に、日本では、推古天皇~孝謙天皇のように、6人8代の女帝がいました。
同時期に、中国では武則天、朝鮮では善徳・真徳という女帝がいました。

質問は、何故、7から8世紀に、東アジアにおいて、女帝が並び立っていったのでしょうか?

A 回答 (7件)

No.5 です。

「お礼」に書かれたことについて。

>歴史を振り返ってみると、男帝に比較し女帝は明らかに少数です。
それにもかかわらず、東アジアのある特定の時期に、何故、女帝が並び立って出現したのでしょうか、が質問です。

#5 に書いたように、男か女かはさほど重要ではないので、「たまたまそのときの適任者が誰だったか」ということかと思います。
つまり、「女帝が並び立って出現した」のは「たまたま、偶然」ということでしょう。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。

結局結論は<たまたま、偶然>ですね。

お礼日時:2023/02/22 06:06

偶然じゃないです。

こういうのは大体、それなりの理由があります。

なぜこの時代に東アジアに女帝が出現し、その後消えていくのか?その理由は
・6世紀から7世紀にかけての寒冷化で、2世紀から続いた温暖化による権力構造が壊れたから
・6世紀に玄奘三蔵が天竺に行き、東アジアで仏教の発展が進んだこと
・古代からの部族社会が、地域国家に発展する過程であったこと
などがあります。

女帝の出現を時系列にみると、朝鮮半島(新羅)・中国(唐)・日本の順番になります。同じ時期ではありますが、善徳女王と孝謙天皇では100年以上の開きがありますので「近くに女帝の国家があったから、それに習った」ということではなさそうです。


最初の朝鮮半島の善徳・真徳については、はっきりと「唐が男性の新王を立てることを要求した」と記録されていて、これが偽書だという話もありますが、唐の意向をうけて男性新王派と善徳派が王位をめぐって覇権争いをしたのは事実のようです。

 新羅は朝鮮半島内の覇権争いで、百済-高句麗連合に勝つために唐に接近していたわけですが、唐の要求を受け入れずに女王を維持するには、それなりの理由があったはずです。

その理由はたぶん「仏教勢力が新羅の権力争いの要だった」からです。男性が権力者にあるのはある意味普通のことですが、そこには必ず「権力を維持するための、利権勢力」があります。

特に東アジアは2世紀ぐらいから6世紀ぐらいまで続く温暖期に、地域独自の祭祀権などで、合併が相次だ時代であり男性の権力が伸びた時代で、寒冷化によってその権力が揺らぎ、逆に新興勢力であった仏教と同じく新興権力であった女王が手を握ったことが、善徳・真徳という女王を2代続けることにつながったのでしょう。

実際、新羅は朝鮮半島の中でも仏教が盛んな国であったと言われています。仏教を国内に広めるには権力と結びつく必要があり、その足掛かりが「女王の擁立」であったと考えるのが自然です。

しかし、朝鮮半島内の覇権争いが過激になるにしたがって、武力統率力の劣る女王では太刀打ちできず、男王に代わっていったのでしょうし、仏教勢力も女性を必要としなくなったのでしょう。

日本の場合もこれに構図がよく似ており、孝謙天皇が称徳天皇として再任される際には、明らかに仏教勢力の力を借りています。特に道鏡を太政大臣禅師に任じ、大嘗祭にも僧侶が参加する、という前例にない仏教勢力の伸長が見られます。

男子は当然に、自分の出自の軍事力とそれに連なる宗教勢力(神道勢力)とつながっていますので、仏教が政治権力に入り込むには「宗教勢力や軍事勢力との直接的なつながりが薄く、権力基盤がぜい弱な女帝」が有利だった、という理由が確実にあるといえます。

武 則天については、周囲の状況により押し上げられたというより「本人が女帝を希求して、権謀術数を駆使した結果、唯一の女帝となった」というほうが正しいかもしれません。しかし、武 則天も女性である以上「軍事力とそれに伴う宗教勢力」とは縁が薄かったといえ、だからこそ武 則天は仏教を優遇したといえます。

仏教勢力を使って、それまでの儒教や道教の儒者と軍事実力者を抑え込んだから女帝として垂簾政治ができたのです。

女帝(女王)が擁立されるのは「適正な継嗣がいない」からでもあるので、その点では「たまたま、東アジアで継嗣不足が起きた」とはいえます。

しかし、それだけなら女帝を擁立せず、男子の新勢力がとってかわってもよく、いわゆる易姓革命が可能になります。実際、他の時代の中国に女帝の例は無いし、ローマ帝国などでは皆無です。

女性が担がれたのはたまたまでも、歴史に名を遺す成果をあげた女帝が6世紀から7世紀の東アジアに集中するのは、権力を握りたい仏教勢力と権力者に押し上げられた女帝が結びついたからです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
1.<6世紀から7世紀にかけての寒冷化>によって、社会変動が著しくなり、通常なら男帝が繋ぐ権力継承が揺らいだのですね。
2.新興勢力である仏教と同じく新興勢力である女帝が結びつき、男性勢力や既存の軍事力・儒教や道教に対抗できたのですね。

お礼日時:2023/02/23 12:49

別に、東アジアに限らず、現在考えているほど「男女の差」がなかったということでしょう。



旧約聖書にはシバの女王が登場し、エジプトにクレオパトラあり、イギリスにメアリー・ステュアートやエリザベス1世・2世やヴィクトリアあり、ロシアにアカテリーナ1世・2世あり、ハプスブルク帝国にマリア・テレジアあり、などなど、古今東西に女王がいました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<現在考えているほど「男女の差」がなかった>ですね。

気になった点
歴史を振り返ってみると、男帝に比較し女帝は明らかに少数です。
それにもかかわらず、東アジアのある特定の時期に、何故、女帝が並び立って出現したのでしょうか、が質問です。

お礼日時:2023/02/21 18:20

> 質問は、何故、7から8世紀に、東アジアにおいて、女帝が並び立っていったのでしょうか?



ただの偶然でしょう。 日本と、朝鮮と、中国で、女帝を並び立てようなどの発想はだれもしてないでしょう。 
推古の即位にしても偶然の重なりと勢力関係のなせることで、朝鮮や中国、その他のアジアの関係は無関係です。
皇極、善徳、真徳にしても、それぞれの周辺の事情の偶然の重なりと勢力関係のなせることで、他のアジアの事情は関係ないです。
もちろん、持統や武則天にしても、それぞれの事情です。

女だから、この時期に即位させようというような意図を持った勢力があったということもないです。
皇后の地位から王の死去で即位するものも、男子継承者がなく呪者的役割面を期待されて即位するものも、自らの権力欲で勝ち取るものも、それぞれです。 時代背景や社会情勢が産み出したものではないです。

在位期間の長短も、それぞれの事情です。 即位年齢も、偶然です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<ただの偶然>ですね。

気になった点
質問は、<並び立てよう>としたのではなく、何故、並び立っていたのか、です。

お礼日時:2023/02/21 18:11

日本は、三国志の魏志倭人伝の影響でしょう。

卑弥呼という女王が居たと書かれていたので、日本書紀にウソ800を書いた畿内ヤマト王権も、女性を王にしとかないとバレバレと思ったわけです。
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この回答へのお礼

そもそも、記紀は信用ならない、ということですね。

お礼日時:2023/02/21 09:17

最初に即位したのは推古で、蘇我馬子が朝廷の主導権を確立していく過程で、馬子に男性の有力天皇候補がいなくなったことから、かなり強引に推古を即位させた。



新羅の善徳女王は、聖骨と呼ばれる正式な王位継承権を持つ男性がいなくなったため、日本で女帝が誕生したことに影響されて即位させられたということでしょう。

武則天は垂簾政治を長く行っていたが、日本に持統天皇が即位し、白村江の戦いの後始末問題で何度か交渉するうちに、反乱を制圧したことをきっかけに、反対勢力が弱体化したこともあって自分も即位しようと決断したのでしょう。
非常に優秀な人物であったことは間違いない。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<新羅の善徳女王は、><日本で女帝が誕生したことに影響されて即位>はあり得るのですね。

お礼日時:2023/02/21 09:15

偶然です。


ただ、松本清張は光明子は武則天を意識していたと主張しています。
根拠としては
・4文字元号の導入。
・則天文字の導入。
・残された文字から、聖武が気弱で繊細、光明子が強気で男勝りと高宗と武則天の組み合わせとそっくり。
などなどで確かにうなずけます。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<偶然>・たまたまなのですね。

<光明子は武則天を意識>はあり得るのですね。

お礼日時:2023/02/21 09:12

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