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マスクをするかどうか、自分で決めれば良いことであって、他人と議論する必要もなければ、他人に強制することでもないはず。
なぜ、周りを見て、周りと合わせないと集団的な抑圧を受けるまで発展してしまうのですか?
するもしないも、個人の勝手でしょう?
自分で決めれない人が、周りを抑圧してしまうのですか?

質問者からの補足コメント

  • 日本人は歪んだ平等感を持っていて、自分と違う人を見ると自分を正当化するあまり、集団で叩く性質があるのですか?集団になると強くなった気になって、人を威圧する性質がありませんか?
    個人の自由の尊重を理解していない人は、きちんと教育受けてないのでしょうか?
    どうしたら、自分で決められない人が出てくるのでしょうか?
    日本社会が、他人との差異を認め合えない歪んだ異質な社会を形成してしまっているのでしょうか?

      補足日時:2023/03/19 09:52
  • 教育に問題があるのではないでしょうか?

      補足日時:2023/03/19 09:53

A 回答 (13件中1~10件)

欧米キリスト教文化圏では、神との約束さえ


守っていれば、他人にどう想われようと
構わない、という個人主義的になります。

しかし、日本にはそんな神様はいません。

居るのは、他人であり、他人の集合体である
世間です。

他人に不快な想いをさせないとか、世間体を
気にする、ということで
秩序を作っているのが日本です。

つまり、文化の違いです。
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日本の社会構造は村が基本だから。

村という限られた空間で共生していくためには、あらぬ疑いがかからない様に自衛することが、大変重要になるから。そのためには村のルールを率先して遵守することが大前提。国際化だなんだと言っても日本は島国なので、村がより集まった共同体である性格はきほんてに変わらない。共同体内のルールを全員が守っていれば、大事に至らないという信仰があります。
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マスクなんて些細な問題だと思っている人が多いということでしょう。


その人たちにとっては、どうでも良いことだから、深く考えてパワーを浪費することは避け、周囲に合わせようという話だと思いますよ。

それを〈集団で叩く性質があり、集団になると強くなった気になって、人を威圧する性質がある〉なんて言われたらビックリするでしょう。
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教育に問題があるのは確かです。



日本であろうと海外であろうと、周囲を黙らせるくらいの絶対的な力を示せばどうとでもなります。その力を持たないのに自分の考えを認めさせようとしても無駄ではないですか? 日本に問題であるのではなく、そもそも自分の意見が通らないのが普通であり、お願いすれば何とかなると期待させた昨今の(子供への)教育が可笑しいんですよ。

今の歪んだ平等主義はここ最近のものです。道徳教育一時期やめてましたから。本来は自己判断(自分の考え)により、周囲に協調した方が良いと考えた場合のみ共闘や協力関係が生まれます。他者から強制されるものは本来の日本の和ではありません。判断が一致するというのが理想なんです。

ここ最近と言うのは俗に「ゆとり世代」と呼ばれる年代(今の年齢で16歳から36歳くらい)です。それまでの教育では「詰め込み教育」という方法論で子供に多くを求めて学習を強制していました。この方法で問題視されていたのは「自分で考える力が育たない」という危惧です。そこで政府が「ゆとりをもって成長を促す」方向に転換したんです。心配する声も沢山ありました。結果として子供の知能や学習・習熟度合いで著しい低下がみられ(世界ランキングを4つほど落とす)、日本の凋落が起きた(アジアでも他国に負け始めた)んです。

自分が頑張らないといけないシーンでも大人や先生、政府へ責任転嫁する子供が多く成りました。自分の為に頑張れない、すぐに心が折れてしまう、言い訳ばかりして戦えない。そういう精神的にも弱い子供が増えたようです。一方で海外で活躍できるような優秀な人も確かに誕生しました。

「ゆとり教育は海外で活躍できる超人を生み出したが、一方で
 凡人の激しい弱体化を招いた」

つまり、強制されないと勉強しない子供と強制されずとも自ら学ぶ子供の差が大きく成り、「ゆとり教育」は前者の子供にとっては糧(どちらかと言うと毒)に成らず、後者の子供にとっては良い仕組みだったんです。

「多くの子供たちを苗床(養分)にして、一人の天才を育てる」

「ゆとり教育」はこういう仕組みであったわけです。勿論やってみて初めて分かったというのが本当の所です。全員が天才になるのではないかと淡い期待をした日本政府は本当の間抜けです。そういうムシの良い話にはならなかったわけです。逆に言えば、それまでの日本は「一人の天才を犠牲にして多くの凡人を助ける」という方向性であったとも言えます。

・多くの凡人を犠牲(養分)にして一人の天才を助ける
・一人の天才を犠牲(奉仕)にして多くの凡人を助ける

どちらの方針が良いと思いますか?

日本では後者を支持する方が多く、それが総意になっていると思います。そのため才能のある方は海外に出てしまいます。それでも特別な才能の無い方も学習と訓練で底上げされ、団体戦や組織戦を学び、他国と張り合えるレベルに達しています。

では才能ある方の全てが海外に流出しているのか?

そうではありません。強い者は弱い者の面倒を見るべき。卑怯なことをするべきではない。そういう教育を各家庭で行っていましたから、日本を見捨てずに国の中で身を粉にして働いた人は沢山いました。

そういう方々がお手本を残しました。

「誰でもこの通りいすれば私と同じように出来ます」

そういった成果を活用する事で日本は(しばらくの間)発展しました。

一人の才能ある人を犠牲(奉仕)にして、他の凡人を助けるやり方とは、上の様な話になります。自分が見つけた秘訣(成功の鍵)を後輩に譲る。そういう文化です。教育におけるモラルですね。

・強い者は弱い者の面倒を見るべき
・相手がどんなに強くても逃げずに戦い勝つべき

この二つを子供たちに一律平等に強制する。すると才能あるものは勝ち残り、弱い者を守ろうとする。才能のない者も頂点を目指すため、簡単に負けない力を身につけて底上げされます。

「ゆとり教育」ではこの二つ目の「相手がどんなに強くても逃げずに戦い勝つべき」の精神性を破壊してしまいました。そのため才能ある者だけを生き残らせる結果になりました。そしてその方々はやはり海外に出てしまいます。成果に応じた報酬や待遇を与えないからです。「ゆとり教育」の残滓は悪い面だけが残り、日本の和の良い面を無くしてしましました。それが今の歪んだ平等主義に結びついています。

日本も海外も生き残りをかけて闘うという部分は同じです。大人に成った後も誰かが助けてくれると期待しては行けません。自らの力で切り開いていく必要があります。

「周囲の言う事を聞いていれば守って貰えるんだよね?
 でもたまにはズルしたいよ」

「家猫ですか? 人間はペットじゃないんだよ?」

ではどうすればいいのか? 自分の力を温存してここぞという時に勝負をかけるようにすればいいんです。日本はこの臨戦状態がゆるく、消耗が少なく有利であると思います。言い換えれば温室みたいなもので怠惰に成りがちですけど(一方で海外は常に緊張し続けている必要があり消耗が激しい)

昨今の歪んだ平等主義とは何か?

「お願いすれば貰えると思っている人が多い。
 自分の力で勝ち取ること。
 そこだけ平等であるというだけなのに。
 弱すぎてこの事実を受け止められない人が多いということ」

凡人が養分になるとはどういう事なのか?

「凡人は政府や大人、体制を批判しておねだりする。
 体制が反省して規制を緩めたり、恩賞を与えるとき、
 それはどうなるか? それが争奪戦となる。

 『手に入れるのは個人の努力次第です』

 この時、才能ある強者が全て奪い取ってしまう」

という事です。

ネットで政府を批判し、日本の在り方を批判し、日本に反省を促しても、体制側は一定の緩和をするだけであり、それらを勝ち取る競争は我々に残っているんです。つまり、弱い雛鳥がおねだりをしても、親鳥が与える餌は他の強い兄弟が美味しくいただく事になります。結果として強い兄弟はより強く成り、弱い雛鳥は力尽きるまで強い兄弟のために「おねだり」と言う仕事を無償で行う事になるんです。

「おねだり」は自分のライバルを強化するだけで何の得もしません。今の親御さんや学校は「これ」を教えていない。それが歪んだ平等主義(弱者にとって毒となる)の正体なんです。手堅いものに全力を注ぐべき。やるだけ不利に成る行為に夢中に成るのは賢く無いんです。

とはいえ日本の人口の半数は50代以上です。そのため「ゆとり教育」世代ではありません(広義では団塊世代以降はゆとり世代らしいですが)。生き残りにかけてはドライでしょう。何せ親の世代が神風特攻していましたし、祖父の世代は腹切ってましたから。強いってもんじゃない。

「野生動物は生き残れない子供を我が子であっても見捨てる」

人間であっても同じです。ペットじゃないんですから。そのため「おねだり」だけ頑張る子供に冷たいです。

「おねだりしているだけだと気づかないのか?
 それを自由な考えとか言う。
 そんな高尚なものじゃないだろ?
 周囲の人を黙らせるくらいの強力な結果を残せ。
 それを諦めて、ここでも俺たちにおねだりか・・」

では才能のある物と凡人の違いは何か?

・常に自分の考えや判断で生き残れる(才能ある)
・常に自分の考えや判断で自滅する(凡人)

中間とか無いんです。初めから自滅する因子が凡人には備わっています。少しでも自分の考えを取り入れると即死に近い形で破滅します。つまり野生の世界では本来は生きながらえては行けない淘汰されるべき(養分)存在であるという事です。私たちはそれらの方々も生き残らせ「凡人」として扱います。それだけ人間社会は底上げ文化なんです。特に日本はその傾向が強いでしょう。

「私は凡人の様です。自分考えで動いたとき必ず失敗して
 いると思います。しかし、うちの弟は親や兄弟が注意す
 る事を無視しても大成功をします。大人も驚いています。
 この違いは何なんでしょう? 悔しいです」

「そういう人もいるよ。でも君は違う。
 君はどうやって生き残るんだ?
 悔しいじゃないだろ? 怖いが正しくないか?」

分ると思いますが、自分の考えを採用したとき神の見えざる手により破滅する人(破滅の才能が埋め込まれている)もいます。自分がそうであるなら、それなりに賢く振舞わないと行けません。

「僕が拘る事は必ず破滅に結び付いているってこと?
 確かに弟は興味すらない見たいです。
 僕の拘る部分が僕の中の何かに操られているの?」

昆虫は沢山の卵を産みます。その中で生き残るのは僅かです。人も同じようになるはずです。しかし、神の意思に逆らって人は無理やり同朋を生き残らせようとします。しかし無理に生き残った人は、やはり自分の中の野生の呼び声に誘惑されます。自滅する様に誘導されるんです。

私たち日本人は、

「自分の方が正しいと思っても(自分が凡人であるなら)、
 周囲の人の方が正しいとしたほうが良いよ」

と教えます。()の部分は相手が気を悪くするから言いません。

またこれが本当になってしまう理由は、

・自己判断が常に間違っているから凡人なのだ

という、どうにもならない本当が混ざっています。

常に自己判断が間違う人の「自分の考え」を聞くような愚かな人は居ないでしょう。聞いて貰えるのではないかと甘える癖を子供の時につけてしまっただけです。

以上、ご参考になれば。
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もちろん、マスクをするかどうか、自分で決めれば良いことであって、他人と議論する必要もなければ、他人に強制することでもない。


周りを見て、周りと合わせないと集団的な抑圧を受けるまで発展してしまうことはない。 するもしないも、個人の勝手。 

よって、日本では大多数が全体主義になることもないし、教育に問題があることもない。 日本で全体主義になっているのは、一部のカルト集団と共産党だけ。
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花粉症なんです。

【顔を隠したい訳ではありません・・・・】
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其処・・?



単に 政府が 半強制的にマスクを着用させたのに 半強制的に外せとは言えないから 個人判断に しただけ・・

マスク効果が 思ってたよりも得られなかったのだから・・

日本人の大半がマスクを着用してもコロナの終息には繋がらなかった・・・

何億円もかけてアベノマクスを配布したにも関わらず・・

そんな政府の無駄遣いをチャラにする作戦なだけですよ
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#5ですが補足。


もちろん、他人への感染リスクが少ないシチュエーションならマスクは自己判断でいいと思います。
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連日のニュースやメディア、政府の動きによって国民に心理的恐怖を煽るという状態だったのかもしれないです。



この状態では、とりあえず最悪は植物状態でも良いからとにかく多くの国民の命だけは守ろうという偏った状態になってしまって、ロックダウン等で個々人の移動の自由とかの人権や社会性についてはとりあえず無視しようという形になってしまったのかなと思います。
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普通は仰る通りですが、それが当てはまらない数少ない例外が新型コロナです。


新型コロナは無症状でも他人に感染させる力があり、他人に感染させるリスクを下げるには感染者がマスクをすることが有効です。
ですので、全員のマスクが奨励されているのです。
マスクをしたくない人は毎日検査をして、陰性証明があるならいいと思います。
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