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江戸時代は、農民は白米を口にする事ができなかったたんですか?
学校で、江戸時代は、武士を除いて農民は稗粟、大根飯を食べてたと習いました。小作に至っては、一生白米を食べられなかったとなんとか?

A 回答 (8件)

まず江戸時代は、現在よりも全耕作地に占める水田の比率が低いです。

台地の上や山間部などで水田を作れるようになったのは明治以降に動力揚水施設ができてからです。しかも、東北地方や北海道などでも、多少の例外でも着実に実る稲の品種が開発されたのも近代以降。現代人が思っているより水田比率は低いんです。
それなのに年貢は米で納めるところがほとんど。そのため、米を買って年貢を納める農民も結構いました。そういう人たちが白米を日常的に食べていたのか極めて疑問。
確かに、年貢米が毎年ゴッパリ集まる江戸や大坂などの都市部では、古米が比較的安価に売られていたので、庶民でも口にでき、白米ばかり食べてなるなる脚気が「江戸煩い」と言われていました。地方に帰って白米食ではない粗食にもどると治るので江戸煩いなんです。つまり、地方では白米食は日常的ではないのです。
そもそも、明治以降においても、「軍隊では腹いっぱい白いおまんまが食えて毎日風呂に入れて天国だ」なんて喜んでいた人たちが多かったんです。
お江戸パラダイス論者は過剰に美化しすぎです。

さらに、古代などもっと酷かったですよ。律令制下で租庸調なんて税で、租は3%程度の税率だから安いななんて思ったら大間違い。籾は強制貸付の出挙なので、そちらは年利が50%以上。農民の手元には米粒一粒も残らないくらい取られていました。ちなみに集められた租の一部は飢饉のときのための備蓄米「不動穀」として国衙の倉庫に厳重保管されたのですが、9年ごとに米を交換することになっていたのだが、9年後倉をあけるとほとんどネズミに食い荒らされていたり腐っていた。また、不思議と国司の任期交代が近づくと火事で焼けることも多く、当時の人たちは「神火」と言いました。
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年貢が4割、6割が農民の取り分だったから、毎日では無いけど農民も白米を食べてました。


毎日では無い事は簡単な計算で解ります。

当時の人口は3000万人。
1日に必要な米は5合(今と違って江戸時代は米から栄養素を摂っていた)。
日本全体では、年間で5400万石の白米が必要。

当時の石高は日本全体で3000万石
脱穀・精米すると半分になり、1500万石。

1500万石÷5400万石=28%

毎日満足に白米を食べられたのは、4人に1人と言う事になる。
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厳密なことは、何も知らないが。



鬼平こと、長谷川平蔵が松平定信に開設してもらった、石川島人足寄場の犯罪者更生施設での食事は、1日、コメ6合です。
1食、2合。
副菜は漬物や味噌を舐める程度。

日露戦争までは、6合。
 副菜がついたが。

農民も東北などでは、食べれるものはすべて食べたのでは。
コメが終わったら、麦などを植えていたとも考えると、食べてはいたのだろうか。

明治以後は、豊富な生活必需品が増えたので、米を売って金に変え、麦や切り芋の干し飯が多かった。

参考にもならないような回答だが。
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学校で習った「農民は貧乏で、白米もまともに食べられなかった」というのは、今ではほぼウソだと判明しています。



理由はいくつもあるのですが、そもそも「五公五民で農民が搾取されていた」というのがおかしいのです。

江戸時代の人口分布は7%が武士、3%が町人、残りの85%が農民です。
で、生産した農作物の50%で85%の農民が1年間ご飯を食べるとしたら、残りの50%のお米は誰が食べるのか?です。

武士と町民合わせて10%しかいないわけですから(他の少数の階級を合わせても)農民の5倍もの食料を食べるわけがないのです。また日本は鎖国していたので、他国に米を輸出することもありませんでした。
 つまり「どこかにウソがある」わけです。

このからくりの実態は「農民が他の作物や商品などを作り、お金を得て米を買い戻していた」のが基本的な部分で、つまり農民の大多数は「白米を食べることができた」のです。

また、江戸時代を通じて、検地は3回ほどしかできなかったし、それも全国規模ではなかったので「徳川幕府が実施した検地は江戸時代を通じて0回」とされています。

逆に、江戸時代は中期になると肥料などの技術が進み、同じ土地でも収穫量がものすごく増えていきます。

なので中期以降は農民や町民の生活の質はとても向上し、美味しいご飯を食べていた地域が多かった、のです。

ただし例外もあります。特に天候不良で飢饉が起きるとどうしようもありませんでした。
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年貢は収穫した米をすべて納付するわけではなく、一部だけです。



残りは町の商人に売るか自分らの食料にします。
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食料と生産性の違いが出て


地域格差が有ったんだ、最後は悲惨な地域から革命が生まれた。

江戸時代、江戸から関東平野、東北へ
多くの女性を食い減らしで地方の農民へ嫁に送った。
米が取れる地域が資産家だった。
農民が労働者を30人50人と雇っていた時代だね

東北の大名も年貢以外に残る米で酒を作る認めたり
それが儲かるとなれば、雑穀米を食わせる作戦に出たが
昼間、お仕事をする時は、おにぎりを食べても良い事になったり
汁物に、おにぎりを焼いて入れて食べたりしてた意味が無かった
農民は自家製で酒を作っていた。

汁物に色々混ぜて食え!じゃ、餅や小麦をこねて
うどん、そばならOKならそれを食おうとなった。

江戸時代に、ヒエ、アワが大量生産した記録が無いんだ
芋類も米が取れる土地には作付けしなかった
お上に見つからない所に、大量に食料を生産したようです。

風土料理やお酒の原料で主力農産物が今でも判るんだ

東北に芋焼酎は無い。 米のみ

めんどくさいから、農民はこうだったと、決めただけ
参考まで

ちなみに、江戸時代の温泉宿は、お米が通貨と使えたんだ
農家は何カ月も冬過ごしてたんだ
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そういう人々も居たでしょう。


江戸時代からみたら、今は、
自由で平和で、夢のような時代です。
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ちゃんと食べていました


年貢を納めた残りのお米を食べています
だから何度も農民は雑穀を作って食べなさいというおふれを出していたんです
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