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古代中国や古代朝鮮、昔の日本(江戸時代までの)の人々は足の骨や腕力が凄まじく強いと聞きましたが本当でしょうか?
その人々の中には馬以外で1ヶ月近くも歩いたことがある人もいるそうなので…

A 回答 (5件)

江戸時代の力自慢は沖仲士ではないでしょうか。

船の荷物を積んだり降ろしたりする人たちのこと。クレーンなどなかった時代ですから人力で積み降ろすしかありません。ニシンかすなどの肥料袋は100~150Kgもあったとか。これを一人で積み降ろしできなかったら仕事にならない。米俵は一般に60Kgですが2つ持つのは当たり前だったとか。
彼らが力くらべに使ったのが力石(ちからいし)。港町では神社などに今でも残っているところがある。
https://bingo-history.net/archives/17674
ツワモノは200Kgを持ち上げたという。

近代の力持ちは強力(ごうりき)でしょう。山の上まで建築材料や食糧などを運んだ。新田次郎が小説「強力伝」を書いている。
現代ではピアノ運送の人かな。アップライトピアノは必ず2人で持たないといけないらしい。持って良い所は2か所しかないのだそうで、大勢で持つと形がひずんで音が狂うのだそうだ。
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江戸時代人と現代人の体力差 イメージと実際 松下尚(日野市ふるさと文化財課)


https://www.city.hino.lg.jp/_res/projects/defaul …

これによると、「足の骨や腕力が凄まじく強い」という理由ではなくて、大量にカロリーを摂っていた、つまり大食・大食らいだったという可能性が高いように思います。

土方歳三は毎日薬箱を背負って何十 km も歩いていたから家族や村人がその健脚ぶりに驚いて「鬼あし」と呼んだんだと言われた。
新選組の原形となった浪士組の、文久 3 年(1863 年)2 月の上洛で、浪士組は毎日概ね平坦道では 40km、山道では 30km、14 日間を平均して一日あたり 37km 歩いており、途中で「全く歩かない休日」は一日も無かった。一方、一日あたり歩行距離の最長は道中も終盤に入った 10 日目の 47.5km、次いで 11 日目の 45km であり、長期間の歩行によるペースダウンは見られない。浪士組の行程を見てみると、最も消費エネルギーが大きかったと考えられるのは1863 年 4 月 1 日の和田峠越えである。この日の行程は中山道長久保宿を出発して、中山道最高点の和田峠を越えて、下諏訪宿に宿泊しており、標高差 900m 以上、平面距離 29.5km を移動している。幕末期は現在より 2 ~ 3 度ほど平均気温が低かったので、現在の暦で 4 月 1 日の和田峠周辺は雪道になっていた可能性が高く、その下の標高 1000m ~ 1200m あたりは融雪で泥濘と化していたと考えられる。そうなるとさらに歩きにくくなり体力を消耗することになったはずである。この行程について、インターネット上の運動時の消費エネルギーを計算するサイトで計算した限りでは、この日の消費エネルギーは運動によるものと基礎代謝を合わせて5000kcal を超えている。5,000kcal を現在の食事に換算すると、ごはんなら 20 杯、ラーメンなら 10 杯、牛丼なら 8 杯、高カロリーの代名詞であるピザ(直径
25cm)でも 5 枚という凄まじい量である。つまり文久 3 年 2 月 14 日の浪士組は、現代の成人男性の 2 ~ 2.5 倍は食べたということになる。
大量に食べている江戸時代の壮健な成人男性が 40km 歩いたときの疲労は現代人が 6km 歩いたときに感じるものと同程度でしかないと考えることができる。
「松尾芭蕉が奥の細道で当時としては老境に差し掛かる年齢でありながら毎日 40 ~ 50km も歩けたのは超人的な体力を持っていた隠密だったから」など。 これも現代人の体力を基準にした同種の俗説といえる。
また、現在健脚のイメージが非常に強い江戸時代の人の例として、伊能忠敬が挙げられる。商業都市佐原の商人だった彼は 50 歳を過ぎて隠居してから地図作りを始め、死去する前々年の 71 歳まで日本中を歩いていた。彼は江戸時代人の平均寿命を超える老齢でありながら街道を歩くときは一日あたり平均 40km 前後歩いていたが、これも彼が超人だったわけでも地図作りのために特別なトレーニングをしたわけでもなく、元々体力のベースがあったと見るべきであろう。現代人の感覚ではあまり体力が無さそうなイメージがある「裕福な家のご隠居さん」でさえ、江戸時代当時は一日 40km 歩いても疲れない人もさほど珍しい存在ではなかったのではないだろうか。
ちなみに忠敬の後蝦夷地測量・探検を行い、間宮海峡を発見したことで知られる間宮林蔵は、江戸から青森まで徒歩で行き、そこから船に乗ったが、このとき江戸から青森まで10 日で歩いている。多い日には 1 日で 80km 以上歩いており、100km 以上歩いたことがあるともいわれる。

昭和初期に農村の清貧な生活を謡った「雨ニモマケズ」の宮沢賢治が《一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ》とあります。

軽自動車のようなものでも、燃料さえ継続的に補給すれば、大型4トントラックと同様に長距離走れることを考えれば、排気量・馬力、馬力/総重量、車軸・タイヤのスゴさの問題ではなく、燃料が入れば、オーバーヒートさえしなえれば、長距離を毎日連続して走れるということなのでしょう。

食べずに歩く、もともと飢餓状態であった人が歩くと、大変なことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF …
フィリピンにいた元日本軍兵士の証言として以下の発言を紹介し、「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と評している。
日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。毎日午前2時に宿営地を出発し、20kmの行程を遅くも午前10時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てた。 …… 背嚢を背に、小銃を肩にして、20kgの完全武装に近いわれわれ …… いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。
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江戸と言わず


明治時代でも
夏目漱石の記録を読むと
東京の真ん中あたりから
鎌倉まで
友人と歩いて旅行に行っていますね
途中一人脱落したのがいますが

他の当時の作家でも
東京散歩などを読むと
とんでもないところまで
歩いて遊びに行っています

落語「堀の内」というのは
そそっかしいのが直りますようにと
お寺さんにお願いに行く話ですが
東京神田から杉並の荻窪あたりまで
(地方の人には距離感がわからないかもしれませんが)
迷子になりながら歩いて行っています

なんでもないような話ですが
昔は
これであたりまえだったんでしょうね
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そりゃ、荷物は人力で運ぶしかなかったのでね。


今でも農家のおじさんは、街中の兄ちゃんより力持ちで、平気で重いもの持ち上げて運びますよ。
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本当です


歩くしか手段がありません
伊能忠敬は日本一周の地図を書くのに歩いてしていたそうです
草鞋を履いていたから足の裏にあるツボを押していたとか
荷物を持ったり運ぶのも機会を利用できなかった
食べ物を得るために木を登って進化していく動物と同じです
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