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 隋や唐の時代に存在したという「犯夜」という制度(?)についてお訊ねします。
 とても困っているので、ご回答お願い致します。
 この制度自体がどのようなものなのかは判っているのですが、その制度が敷かれた場所が判らないのです。
 ネット上で見たところ、ほとんど長安で行われていたものとして書かれてあるように見えたのですが、この制度は長安独特のものなのでしょうか?それとも中国全土に敷かれたものなのでしょうか?
 変な質問で恐縮なのですが、この制度をからめたレポートを書こうとしているのでどうしても知りたいのです。
 ご存じの方おられましたら、どうかご回答お願い致します!!

A 回答 (2件)

犯夜の禁は、唐だけの制度ではなく、古代から通常行われていた制度です。


秦漢など古代(春秋戦国にもあったとおもわれますが)においては、通常百戸(異説あり)を里と称し、里が十集まると郷と称し、郷が十集まるものを亭としました。
 生活の最低単位である「里」は版築と呼ばれる泥を付き固めた塀で四方を囲まれ、一方だけに門が設けられます。これを閭門と云い、左右に番人が詰める部屋がありました。
 この門は夜明けとともに開かれ、夜明けとともに閉じられ、閉じられている間は通行を許されません。その合図は楼上の太鼓を打って知らせたと伝えられています。
 大陸は都市国家より発達したため、この制度は唐時代まで残り、大規模な
都市でもこの制度を拡張した形式で、高い城壁と門により、通行を制限されます。現在見ることのできる長安の図などで、区画が整理されていますが、道路に面したあの区画は原則的に高い塀が立っていました。もっともそれをぶち抜いて、数区画共有したり、池や湿地がある場合はこの限りではありません。
 このため、「村」という漢字は遅くできたと伝えられ、高い城壁を持つ居住区以外に集落ができたのは、唐以降であるとも云われます。古代においては「聚」という村に似た単位もありますが、これも粗末ながら城壁を持っていたことには違いがありません。
 史書の酷吏伝などに、よく権門の親戚や係累がこの犯夜の禁を犯し、亭長や校尉などに撲殺されたり、投獄されたというような記述があるのは、従来から夜歩きは厳禁であったためです。
 古代においては、夜歩きするものは賊であるとみなされました。
 このような慣習法は、北宋になり、都開府が開明的な都市であったため消滅したとされますが、地方にあってはどうでしょう?
 ちなみに、大陸をまねた日本の都、平安京や平城京には、この居住区を囲む塀はありません。虎も北方遊牧民族も夜中に襲ってくる心配のない国ですから。
 参考までに後漢書酷吏伝の一部をご紹介いたします。
皇 后 弟 黃 門 郎 竇 篤 從 宮 中 歸 , 夜 至 止 姦 亭 , 亭 長 霍 延 遮 止 篤 , 篤 蒼 頭 與 爭 , 延 遂 拔  擬 篤 , 而 肆 詈 恣 口 . 篤 以 表 聞 . 詔 召 司 隸 校 尉 、 河 南 尹 詣 尚 書 譴 問 , 遣  戟 士 收  送 廷 尉 詔 獄 . 數 日 貰 出 .[一]帝 知  奉 法 疾 姦 , 不 事 貴 戚 , 然 苛 慘 失 中 ,[二]數 為 有 司 所 奏 , 八 年 , 遂 免 官 .
(欠字あり)
 これは皇后の弟が宮中から夜になって帰宅し、亭長である霍延という人物に誰何されて留められ、追い返されたという記事です。
 つまり亭の入り口で門を通してもらえなかったわけです。
 
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さして詳しくない上に、ご質問の意味を取り違えているとしたらごめんなさい。



「犯夜」は城を護るための制度ですよね。
ですから、城以外のところでは意味がない禁だと思うのですが....。

つまり、全土にわたって行う性質のものではない、と思うのです。
(間違ってたらすみません。)
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