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僕は(自己診断ではありますが)自己愛性パーソナリティ障害で、ちょっとでも小ばかにされた、見下されたと思うと異様なまでに憤慨し、しばらく悶々とします。
はっきり貶められたのならまだしも、「憧れを持って見てない」「すごい人と思ってない」「凡人の物差しで測った」などで憤慨してしまいます。

崇め奉られてないとムカつきます。

それは面倒くさいのでどうにかならないかなー、治らないかなーとは思ってます。
ただ、反面、その「こいつ、オレが如何ほどの者かわかってない。わからせてやる。」と思って、自分アゲを頑張ります。
おかげで今、そこそこ金回りのいい社会的地位のある状態にあります。
顔も元々小綺麗な顔ですが、ちょこちょこ整形して結構なハンサムになりました。

でも、どんなにレベルを上げても、やっぱりどうやっても僕を羨望の眼差しで見ない奴はいるし、ハンサムだと認めない奴もいるし、金持ってることを察することができない奴がいるし、要は僕を「普通人・一般人」と見做す奴は一定数います。

それは極あたりまえで、おかしいのは自分であることは重々承知です。どこでカースト最上位であろうが、所詮井の中の蛙だし、自分で思ってるほど大したもんじゃないことは頭でわかってる。
だけど、恭しくちやほやされてないと気に入らないんですね・・・。
ちやほやされたい、じゃなくて、ちやほやしてこない人に驚く。「え?コイツ馬鹿なの?」って思っちゃうんです。

一例としては・・・・僕は今ベンツに乗ってます。とある、ほぼ初対面のような女性ですが、ベンツで送っていってあげてるとき「次はポルシェにしようかなと思ってる。」と言ったら「え~!ポルシェになんて高いって!」と言われたんですが、僕はどうもこれが引っかかって仕方がありません。「コイツ、オレにはポルシェを買うだけの力がないと思ってるのか?凡人にポルシェなんか無理って言いたいのか?ポルシェは到底無理、届かないって人間に見えてるのか?お前ごときでポルシェなんてアホをぬかすなと言ってるよな・・・」と、どんどん大げさに考えていってしまい、「早くポルシェを買ってこいつに頭を下げさせてやる」と念に憑りつかれます。
何気なく言った「ポルシェもいいな~」ぐらいの発言だったのに、もう、何が何でもポルシェを買うたるで!という歪んだ思考回路に支配され、どうしたらポルシェを変えるか、いつ買えるかの逆算を始めてます。


ああ、本当になんなんだろう。どうしてこんな劣等感の裏返しに翻弄されちゃうんだろう。

この自己愛性パーソナリティ障害を肯定すれば、僕はもっと頑張ってもっと金持ちになるでしょう。しかし、きりがない。死ぬまでイライラし、死ぬまで頑張る。

自己愛性パーソナリティ障害を克服してちやほやされなくても平気になれば、とても穏やかな日々を過ごせるのかもしれない。でも、「なにくそ!こいつにオレがどれほどすごいのかわからせてやる。」という原動力のない僕は特に頑張らないだろうなあ。小ばかにされても「ふ~ん。」って受け流すだけ。そしてどんどん輪郭がぼけていくのだろう。

どっちがいいのでしょうかね。どっちがいいか決めたところで人格障害が治ることはないのだろうけど。

A 回答 (4件)

20代後半以降でそのままの心理だとかなりやばいです。


頭の中が赤ちゃんのままだから。
現実と脳内の乖離がどんどん進んでいき、ますます生き辛くなります。
精神科の治療やカウンセリングは、歪んだ認知を現実に擦り合わせていくことです。
自分を客観視できない人は大人とは言えません。
どちらというと、おっしゃる通り、障害の一種です。
一般人どころか、病んだ人、未熟な人、イタイ人ですよ。
成長しましょう。
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どちらか選ぶのではなく両方ではダメなんでしょうか? 



貴方の質問を読む限り「貴方は本当に凄い」のではないかと思います。「馬鹿にされたくない」「分からせてやる」という気持であったとしても、自分を励まして結果を出しているのならば「それのどこが悪いのか?」と私は思いますよ。

ポルシェいいじゃないですか。

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

自己愛性パーソナリティ障害を少し調べましたが「治療は難しいが投薬と認知行動療法で治る場合あがる」そうです。またこれにしたって重症の人についての話でしょう? 質問者さんは自己診断なのですから「違うかもしれない」し「軽いのかもしれない」でしょう?

またこの病気は「本人が苦しんでいる」「接している人が苦しんでいる」と言う問題が生じて始めて問題にするそうです。そこまで行っているなら話は別ですが、そうでないなら「白黒つけに医者にいってみる」のが最初の一歩じゃ無いでしょうか。その後で「結局は自分で何とかする」という事に成ろうとも「今まで自力で色々なしてきた」わけですよね? そういう人がそこで臆病になるなんてもったいないですよ。そういった経験談も含めて「凄いネタ」にしたらどうでしょう。

ではこの問題の何が良くないのか?を調べてみますと、

「自己肯定感の弱い人をターゲットにして自分を称賛する
 道具として操ろうとする。特にそういう人と家庭を持つ
 と家族が被害を受ける」

のだそうです。この点を抑えて置き「そう成らないようにする」と言うので対策できるはずです。

「自分がやっている事を自覚して『それだけはダメだ』と
 自分に釘をさす」

自分を称賛しそうな人に自分は依存するはずと捉えて「その誘惑には負けない」とするわけです。そして「その努力を分かってくれて凄いと言ってくれる人」を探せばいいでしょう。もし本当に自己愛性パーソナリティ障害であるならば「その誘惑に抵抗できる」と言うのは本当に凄い事です。

「自分を誘惑する自分の中の何かに対して『お前ゴトキが
 俺を操るな』とやればいい」

他人を見下しても良いと思います。しかし失礼に成ってはいけませんよ。自分は見下されても良いですが「負けてはいけない」でしょう? 何時も闘いっていたら疲れますから逃げても良いはずです。その時に「強がってはいけない」と思います。その代わりに「負けた。凄いよアンタ」くらいは述べるべきです。自己愛が強いからと言って卑怯者に成る必要は無いからです。そのままの自分で生きつつ「他者に対しても礼を尽くす」というのは並行してできるはずです。

「相手を侮蔑するのがやり過ぎなのであり、その代わりに
 多少褒めたとしても損はないだろう? それが苦しいと
 感じてもそこで自分に負けなければ良い。その苦しさを
 同じ気持ち(または同じタイプ)の人は理解すると思う。
 その時始めてその人は俺を凄いと思うはず」

つまり「悔しい」「負けたくない」と言う気持ちが強いのに「尚、相手を褒める」と言う行為が出来たら凄いじゃないですか。

「自己愛が弱い奴は分からないかもしれないが、俺と同じ
 自己愛が強すぎる奴は分かる。俺がドレダケ凄いか。
 とりあえず同じタイプの奴が俺の凄さを分ればいい」

自己愛性パーソナリティ障害を克服するのがそんなに難しいと言われているのならば「それこそチャレンジして自分を証明するチャンス」であると私は思います。

冒頭に述べましたが「負けるもんかと頑張る自分」「寛容に成って今を楽しめる自分」という二つがあったとき、このどちらも持っている人が凄いのだと思います。どちらか一方しかない人は道半ばなのですよ。どちらが優れているという話をして一つに絞るべきではないでしょう。

「どちらか一方に自信がある人は、もう一つの自分を作り
 あげて、ケース毎に使い分けるべき。すでに半分の仕事
 が終わったのだとして残りに取り掛かればいい」

「負けるもんかと頑張る自分」を持っていない。その上で「寛容でない」という人もいますよ。こういう人はどうすればいいでしょう? 手に負えないでしょ。そういう意味では貴方は実際に片側の力を証明しているんです。いいじゃないですか? 残りの「寛容な自分」をどうやって新たに作り上げるのか? 楽しんでやりましょうよ。無茶苦茶難しいと思いますが「残りの人生けっこうある」と思えば長期戦で攻略する時間的な余裕はあるはずです。

「優しさとか寛容さとか。他人の気持ちが分かるとか。繊
 細であるとか。そういうジャンルであっても俺は負けな
 い。その分野でも凄いって言わせてやる」

この発想が貴方に必要に思えます。

自己愛の強い人は「他人の気持ちが分からない」「寛容ではない」等と色々言われますが「それは自分に負けた奴の悪いケース」であり「努力をしなかったダメな自己愛者」なのでは? 自分がそうなるとは限らないでしょ。これは私の勝手な期待ですが「貴方は違うのではないか?」と冒頭の文章を読み(ちゃんと実績があると書かれているので)思いました。

ですので強い自己愛を持ちつつ他人と接する時は「寛容の塊」の様な自分を外に出し「ここでも負けませんよ?」とやってください。

一つの自分(つまり今の自分)がこうであると悩むくらいなら、もう一つ追加しましたとする。多様性を実現するもっと凄い自分に成りましょう。自己愛の強い自分はそのまま保存して「ここぞという時は切り札とする」んです。普段使いの自分を新たに作る必要があるという事でしょう。

敬語と礼を大事にしてください。使った人が下に見られるという事はありません。上手に使える人は一目置かれます。誰であっても「誰かにへりくだっているようで悔しい」という心理が働きますよね。しかし実際は「だからこそ凄味が増す」ものです。私はこれが突破口だと思っています。

「負けるのが嫌なので逃げます」

と言う人と比べて貴方は全く違うんです。もっと自信を持ってください。その上で「他人に優しく出来るのか?」という競技で負けているのだと捉えましょう。

私は「優しいって何?わからんわあ」という所から始めました(つまり私も似たような悩みを持っていました)。その時は「こりゃだめだ。このレースでは俺は素人であり、負けを認めない限り追い付けない」と諦めましたよ。そこから「優しい」「寛容」と言われている(それまで見下してきた相手)を師匠として捉えなおし、その人達の研究を重ねました。

「いまだけだから。後で追い越すから。負けないから。
 でも確かに俺は負けてるから。悔しい。苦しい」

こんな感じで泣きながらやる感じでしたねえ。

貴方はいま「世の中で凄いと言われている物」で分かりやすい勝ちを狙っています。それはそれで続けるべきです。一方で「世の中で言われている分かりにくい物」においても負けてはいけないんです。

「嫌な奴」と馬鹿にされることがあるのならば「イイ奴」と言わせて「分からせる」べきでしょう? また「俺よりイイ奴だ・・」と落ち込ませるべきではないですか?

そして考えてください。

「良い人競争をして自分が負ける」という事は「こいつイイ奴だなあ」と嬉しくなった時なんです。こういう勝負はガンガンやるべきじゃないでしょうか。

最後になりますが「凄いと言われるだけでは寂しい」でしょう。満足できるんですか? どうせなら「凄いと言われた上に更にイイ奴だ」と言われる道を選んでください。殆どの人はどちらも手に入れておらず悩んでいるはずですからね。

以上、ご参考になれば。
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人格障害というより単に粗暴で負けず嫌いな性格の人という感じがする。


本物の人格障害は認知がおかしいです。常人には理解不能な思考回路があります。
本物は滅多にいませんよ、と精神科医も言ってました。
まあ性格にせよ人格障害にせよ、歳をとると大人しくなってくるものです。
今のところ何ら問題起きてないのでそのままでいいんじゃないですか。
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いかなる問題も、それをつくりだした


 同じ意識で解決することはできません。
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