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切実に悩んでることがあって、自分自身かっこいい内面を持ちたいと言うことです。外見ばかりに囚われたいましたが、内面が成長しないと人間としても魅力が出ないことに最近気づきました。
しかしその一方で自分は真反対の行動ばかりしているなと感じるんです。
毎日、毎日色んなことに悩んでしまう自分がいます。頭の中は壮大と様々な悩みで埋め尽くされ、自分では全く答えを見出せることはできずパンクしそうな毎日です。常に何らかしらの悩みと葛藤てしていて、もっと楽に生きたいと思うばかりです。
かっこいいというか、クールな内面でいつも冷静に物事に向き合える様な内面に成長したい自分とは裏腹に、毎日何からしらの悩みを考える癖だったりらいつまでも過去の事を引きずったり、ウジウジしすぎだなと思うんです。友人らはこんなにも自分がナイーブというか、小さい人間だとは思いもしないと思います。

今後悩みとぶつかったときは、悩んでも仕方ない。クヨクヨしないという考え方にシフトを変えた方がいいでしょうか。
別に悩むことは勝手だし、悪いことではないと思うのですが、自分は自分で答えを見つけれないくせに、いつまでも悩んでしまう事に男としてナヨナヨしてるんじゃないかと思うんです。かっこいい漢がこんな事で悩んでるわけないと思うんです。

今後どうすればいいか第三者の視点で皆さんから少しでもアドバイス頂けると幸いです。

A 回答 (5件)

人間はそんなに強くないのを認めてみては?


みんな悩んだり、考えたりして頑張って生きています。
こんなんではダメだって自分を追い詰めるより、もう少し気楽に
また悩んでしまったな・・・切り替えようって・・
どこかで区切れるようにするだけでも、良いかと思います。

理想が高すぎるのかなと思いました。
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悩んでいても 何もおきない


学べば本当の自分が分かる
何のため  が分かる
これまでの自分の人生体験など 必要ない
参考にならない

人間の魂を磨く事ほど、難しい事はありません
何故か
魂は、比べる物が無いほど高価な物だからです
例えるならばダイヤモンドです
魂は比べる物が無いほど傷つきやすく、汚れやすいのです
例えれば、車のフロントガラスです

ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨かれません
フロントガラスは毎日磨いてこそ、先が見えるのです

決論・・・・かっこいい内面を持つには
ダイヤモンドのような人格者、教養ある知恵者に、つまり
良き師に学ぶ事です、
そして、ガラスを磨くように、毎日学ぶ事です、
それしかありません。

ダイヤモンドのような人格者とは
深い哲学を実践する人です

今、自分の周りにそのような人物がいない場合
世界の名作や、古典に親しむ事です

「良書を読むのは良い人との交わりに似ているいる」
とはアメリカ・ルネサンスの旗手エマソンの言葉で
 良書を読めば、人の心を知っていける。人間の本質が見えてくる。
読書は、わが心の明鏡を磨いてくれるのです
良書に触れることは、良き師、良き友をもつことと変わらないのです

なぜ読書なのかといえば、第1に、それは読書経験が、ある意味で人生経験の縮図を成しているからです。

 なぜ読書か。その第2の意義として、蓄えられた読書経験は、巷にあふれ返るバーチャル・リアリティー(仮想現実)のもたらす悪影響から魂を保護するバリアー(障壁)となってくれからです。

 第3の意義として、読書は青少年のみならず、大人たちにとっても、日常生活に埋没せず、人生の来し方行く末を熟考するよいチャンスとなるからです

トルストイ、ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキーを読破し
ロッシの如く。ブルーノの如く。ナポレオンの如く。アレキサンダーの如く。ホイットマンの如く。ダンテの如く、魂を磨きたいですね。

長編を読め、古書を読め。今、読んでおかないと、人格はできません。
本当の人格者にはなれない
くだらない雑誌など読んで、面白がっているようでは、魂が腐ります

偉大なる文学作品とは、その意味で“問いかけの宝庫”といってよい。
 一つだけ、具体例を挙げれば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の最終章に出てくる、レーヴィンの「われとは何か、なんのために生きているのか」に始まる問いかけの場面です。

そこでは、作家の自画像といわれるレーヴィンが、生きるための規範への求道を続けるなかで、ある農夫の言葉に触れて新しい境地を開いていく姿、その過程での心の動きが、見事なまでの筆致で描き出されています

「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きてるです。神さまをおぼえていますだよ」

「魂のために」生きる――レーヴィンの心を電撃のように貫いたのは、こんな農夫の何気ない一言でした。それから彼は、広い街道を大股で歩きながら、「心のうちに新しい何ものかを感じて、まだその何ものであるかを知らないながらに、一種の喜びをもって、その新しいものを手さぐりしてみる」という、かつてない体験を味わいながら、自問自答を続けていく。

そして、ついに自分なりの「答え」にたどりついた彼は歩くことを止め、林の草の上に身を横たえ、こう心の中でつぶやきます。

「おれは何も発見したのではなかった。ただ自分の知っていることを認識したにすぎないのだ。おれは、過去においておれに生命をあたえてくれたばかりでなく、現在もこうして生命をあたえていてくれるその力を理解したのだ。おれは虚偽から解放されて、主人を認識したのだ」と。

こうした暗から明への回心のドラマは、トルストイの世界にしばしば登場するものですが、そこで織りなされているものこそ、「問いかけ」から「他者との魂と魂の触発」へ、そして「内省的な眼差し」を通して自身の中から「新しい自分」を発見し創造していく精神の営みといえるでしょう。

その健全な精神の営みを回復したレーヴィンであればこそ、戦争が覆い隠してしまう“人間が人間を殺す”という真実に気づき、セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がる自己犠牲への民族的熱狂に水をさすように、「単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」と叫ぶことができたのではないでしょうか。

「殺すなかれ」という不滅の徳目は、彼のような魂の苦悩と葛藤の果てに口にされる時、にわかに精彩を放ってきます。

そして私が『アンナ・カレーニナ』の中で、最も圧巻だと感じるのは、レーヴィンが、“自分の実感した「善の法則」は、キリスト教徒だけのものなのか”“ほかのユダヤ教徒や、イスラム教徒や、儒教や仏教の信徒には、この最善の幸福は奪われているのだろうか”と懐疑する最後のシーンです。

人間の内なる精神性、宗教性に迫って、古今の大文学中での白眉であろうと、私は思っております。
古典や名作と格闘する青春を
こういう古典を熟読吟味することが、どれほど自分の精神世界を豊かに、分厚いものにしてくれるか――優れた精神的遺産を“宝の持ち腐れ”にしておいては、もったいない限りであります。

トルストイに限りません。ドストエフスキーでもよい。ユゴーでもゲーテでも、何十年、何百年という時間の淘汰作用を経て生き延びてきた古典や名作には、必ず“何か”が含まれているはずです。外国の大文学が重すぎれば、日本の近代文学、あるいは河合隼雄氏などが推奨しているコスミックな児童文学の中からでも、いくらでも拾い出すことが可能でしょう。
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この回答へのお礼

お前は1人で何をずっと言うとんねん

お礼日時:2024/03/26 10:59

悩んだり過去の失敗を思い出すこと自体は問題ないですが、悩んでいるだけで何も決めず、何も行動せず、何も変わらなければちょっと困りますね



どうすればいいかというと、悩んでいる対象を言語化する、なぜ悩んでいるのか原因を考えて特定する、原因を解決する方法を考えて行動を起こす というサイクルを悩みの大きな物からやり続けるしかないのでは

解決方法が無かったらどこかでストレス発散しましょう!
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かっこいいカッコ悪いの基準は人それぞれなので、あなたがカッコいいと思う人間像をまずノートに書き留めてみてください。

そしたらあとはそれ通り実行するだけです。実行しない、またはできない人が世の中大半なので、もし実行できてそれが1ヶ月、半年、1年、3年5年と継続できたなら、自分を大いに褒めてください。気づけば成長しています。積み重ねです。
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場数踏むしかないですね


アタマであれこれ考える、行動が伴わない、
矛盾に苛立つ、の、繰り返し
いきなり強くはならない
一歩一歩ですね
紙に書き出すとか古風ですがいいですよ

自己啓発本もほどほどに、

実行出来ないなら意味ないので
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この回答へのお礼

場数が足りないから、色んなことに悩んでしまって、解決策を見出せないという流れが起こるのですか?

お礼日時:2024/03/26 01:52

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