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旧日本兵の方がフィリピンで見つかったそうですね。
もしかしたら数十人生きているとか。
(私の祖父もいないだろうか…と思ったものの、生存はおそらく不可能な地域に進軍したのでそれは無いでしょうね)喜ばしい事ではありますが、何故今ごろ?と不思議でなりません。
もっと早く見つかって帰還していれば、また別の人生を歩めたのに…。
日本政府は残留兵救出のためにどのような事をしてきたのでしょうか?こんなに経ってるのに今まで見つからなかったなんて・・・フィリピンの社会情勢も含めて発見が困難だった理由を教えていただけると嬉しいです。
出兵した祖父の事もあり、興味があるのでネットで調べているのですがあまり情報が集まりません…^^;

A 回答 (3件)

 こんにちは。


 私がうちの父(昭和一桁生まれ)から聞いた話では、やはり戦時中の日本の軍国教育では、敵地へいったん出向いたら、国からの期間命令が無い限り、現地に骨をうずめる覚悟でいなければ駄目だと、皆が教えられたようです。途中でいかなる事情があっても日本に帰ったり脱走したりすれば、軍法会議であっけなく死刑にされていたのも事実だそうです。つまり、「いったん敵地に行ったらそこで死ぬのが日本男児の名誉」と教育されていたわけです。
 現在、ニュースになっているかたがたもおそらく、まったく思考は当時のままとまっているのでしょう。戦争が終わったことを知っても、日本に帰ることは、彼らにとってみれば規律を破ったことになるのです。

 昭和49年に日本に帰還した小野田 寛郎さんにしても、政府が「もう戦争は終わったんだから帰還しなさい」と何度説得しても拒否し、結局当時、戦時中小野田氏の上官が現地に出向いて「帰還命令」を告げ、やっと帰ってきたという状態ですからね。しかも帰ってきてもマスコミに対して、「自分の中では大東亜戦争は終わっていない」と答えたのです。

 まあ結局、今現在フィリピンにいる方々が日本に帰ってきて、本当になじめるかどうか、日本に帰ったほうが幸せなのかどうかは全く未知です。小野田氏も現代社会になじめず、ブラジルに移住したくらいですからね・・・。

 あなたのお爺様も、もしかしたらどこかで生き延びていらっしゃったかもしれませんね。インドネシアやビルマにも日本に帰らない決心をした旧日本兵はいまだ生存している位ですから・・・。
 昨日、ニュースに現地で遺骨採集に当たっている旧日本兵の慰霊事業協力団体連合会の寺嶋芳彦会長も、「フィリピンにはまだまだ日本兵が生存している情報があり、我々はその都度確認に行くが、現地生存者は逮捕や軍法会議を恐れ、逃げるか抵抗するかなので、手紙すら渡せない状況」だと言ってました。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/蟆城㍽逕ー蟇幃ヮ
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 現在報道されているところでは、お二人はモロ民族解放戦線に参加していたらしいとのこと。

フィリピン政府にとっても反政府武装組織なので、もしかしたら、時々町で買い物くらいはしていても、おおっぴらには出てこれない事情があったと思います。軽く考えてもビザもパスポートも持たない不法滞在者ですし、重く考えれば国家反逆罪になってしまいます。
 まして当人たちが日本に軍法会議がいまでも存在していると信じていたらなおさらでしょう。

 この件に限らず、大使館の職員は一般の日本人に対しては非常に冷たい対応をとります。あなたがもし海外でパスポートを盗まれたら、きっと判りますよ。
 
 わたしは日本政府の助成金でフィリピンに2年滞在したのですが、マニラの大使館に挨拶というか長期滞在届けを出しにいったとき、職員の一人に「クーデタや大災害があっても、大使館に助けをもとめないように」と言われました。パスポートに書いてある文章(日本国民の保護)は、いざとなればおまじないに過ぎません。
 また、ルソン島北部の村に調査に行ったときも、村人から「最近、日本の若者がこの近くで殺された。マニラの日本大使館に連絡をしたのに、だれも遺体を引き取りにこなくて困った」と聞かされました。同じ村でフィリピン残留孤児のお婆さんに会いましたが、大使館が全く対応してくれないのを嘆いてました(その後認定されたそうですが)。

 ミンダナオ島は戦前は日本からの移民が盛んで、日本人の血を引いている(と少なくとも当人は思っている)人が、山奥に大勢住んでいます。また、ルソン島やビサヤ(フィリピン中部)と違って、地震や台風がなく、一年中温暖で割とすごしやすい気候です。また、フィリピン人全般にホスピタリティーというか、よそ者を開けっぴろげに受け入れる国民性があります。
 こんなに高齢になるまで元気でいらっしゃったということからも、たとえ貧しくて厳しい生活であっても案外現地の人々と仲良くして居心地がよかったんじゃないかと想像しています。現に、日本をドロップして定住した方にミンダナオの田舎町でわたしも会いました(八王子で元米屋をしていたとか)が、「家族がいっぺんに大勢できたような感じで、毎日楽しい」と言っていました(お金はどうするのか疑問ですが)。

 ただ、日本兵が歓迎されていたわけではないことも覚えておいてください。ミンダナオ島の山奥で聞かされた話ですが、日本兵が村人を襲って食べたという事件もあります。また、マニラは日米の戦闘で焼け野原になりました(今でもその残骸が遺跡として保存されているところがあります)。ルソン島北部の村では、いわゆる首狩り族が鳴らすゴングの取っ手に日本兵のあごの骨を使っている(敵の象徴として)というのを見ました。レイテ島出身の友人は「家の庭から日本兵の骨がゴロゴロ出てくるので、小さいころは弟とオモチャにして遊んだ」と言っていました。
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この回答へのお礼

反政府武装組織ですか・・・それでは迂闊に名乗り出られませんよね^^;
山奥とはいえ町に出れば日本が平和な国になったという情報は入ってくるんじゃないか?大使館に何故出向かないのか?と不思議だったのですが、難しい状況だったのですね・・・。
思わぬところでフィリピンのお話が聞けてとても参考になりました。そうですね、80代まで生きてて凄いなぁと思いましたけど、現地の人に受け入れてもらって生活していたんですね。その事が分かって本当に救いです。(まだ完全に報道された方情報が入った訳ではありませんが、フィリピンの方の国民性について聞けてホッとしました)

丁寧な御回答、本当に有難う御座います^^

お礼日時:2005/05/27 20:35

フィリピン奥地では、残留日本兵は戦時の復讐や、食糧確保のために家畜を荒らしたりするので、地元農民と対立する存在でした。

日本兵刈りという言葉があるようですね。
小野田さんの手記にも、地元農民との戦いのことが書いてあった記憶があります。二人の部下も警察との戦闘で亡くしています。

残留日本兵、民間人は相当数いたと思いますが、病気等でかなり減っていると思います。
当然外務省は把握しているはずですが、積極的には手を出さずにいました。
マスコミで騒ぎになると、やっと腰を上げるという感じです。
結局、旧軍は解散しているので、彼らを帰還させる仕事をするべき省庁が無いということなのでしょう。

日本は、終戦間際、日本降伏後は米ソが衝突することを予想し、満州や南方に小野田さんのような特殊任務の兵や、通常の兵、一般人を残すことにしました。
それらの地域で再び戦争が起こることを想定して、伏兵としようとしたのでしょう。

これも戦争の二次災害とでもいうべき事件です。
もちろんアジアだけでなく世界中に運命が変わってしまった人たちが大勢いると思います。
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この回答へのお礼

日本兵狩り・・・。折角戦争で生き残ったのに、そんな苦しい目に遭っていたんですね・・・。
小野田さんが見つかった時点で、日本政府はいまだ上官からの命令の呪縛から解かれておらず島に残ったままの人たちがいないか、ちゃんと捜索すべきだったと思います。
一刻も早く政府は彼らを日本に帰還させ平穏な生活を、と願わずにいられません。ひとまず、今後の動向を見守りたいです。

丁寧なご回答、本当に有難う御座いました。

お礼日時:2005/05/27 19:36

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