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統一教会の原罪の解釈の仕方(ネット上にある原理講論から引用しました)

罪を犯す前、アダムとエバは裸でいても恥ずかしく思はなかった。しかし、彼らが堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉を持って下部を覆ったのである(創3:7)もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかと言えば人間は恥ずかしい所を隠すのが本性だからである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったためで、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。

統一教会では裸を恥ずかしがるというより、下部をあらわにすることを恥ずかしがっており、キリスト教では裸であることを恥ずかしがっているように見えます。ここで質問です。統一教会では葉で下部を隠したということを上記のように詳しく説明していますが、キリスト教ではあの創世記にある「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」という部分で、なぜ恥ずかしがって先に腰の部分を隠したのですか?キリスト教の場合ではここはどう解釈しているのですか?

A 回答 (27件中21~27件)

神が私たちを愛し、また愛するために私たちを創造されたなら、一度の過ちをもって死ぬというなら私たちはもう死んでいる。

そして神は無から私たちを創造された。もし私が神ならすべてを焼き、滅ぼし、もう一度、新しい世を創造するでしょう。
もし、私たちが何かを作り計画がうまくいかなった時
何をするでしょうか?習字を間違ったとき、字を書き違えたとき、私たちはそれを消し、新しく書くでしょう。しかし神のやり方は私たちの考え方とは違います
間違っても何もいいません。もし神の言いつけを守られなくても罰することはしません。
だから聖書ノイザヤ書で「はわたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と


私たちの死という言葉を使うとき肉体の死という意味では使いません。なぜなら死は神、イエスと会える
事でまた喜びと考えたほうがいいのではないのでしょうか?あくまで死というのは霊的な死、つまり神から隠れ、逃げ、言い訳をする事、これが死ぬ、という意味と捕らえたほうがいいと思いますが・・・

聖書は部分的に切り離して解釈するものではありません。あくまで全体的な面から聖書(神)は何を語っているのか、考察すべきです

この回答への補足

>聖書は部分的に切り離して解釈するものではありません。あくまで全体的な面から聖書(神)は何を語っているのか、考察すべきです

確かにそれは私も思います。原理講論は聖書を部分的に引用して、都合の良い様に作られているようにみえます。
「先祖の恨み」などとよく統一教会では言いますが、聖書の申命記の18:11では「神」が、
  「呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。」
と言っています。これは「神」の命令を無視していますよね?このようなところがあると疑問を感じます。
神が言ったこととしてアダムとエバの問題のところを引用するなら、この申命記の神の言っているところも無視できないはずでは?と思ったりします。

補足日時:2005/06/19 12:25
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キリスト教では、神の命令を破って善悪を知る木の実を食べてしまったということが原罪の始まりで、裸を隠したのは原罪が生じた証拠です。

ここで重要なのは神の命令を破ったということです。これが原罪のもととなったのです。


この原罪というのは罪を犯す性質といってもいいかもしれません。確かに生まれたての赤ちゃんは罪は犯さないかもしれませんが、罪を犯す性質を持ち合わせていると言うことです。ですから、子どもにウソのつき方を教えなくても自然にウソをつくようになります。もし罪を犯すことが後天的なものであるなら教育や道徳によって罪を全く犯すことのない人間に育て上げることが可能だと思いますが、それは不可能です。なぜなら人間が生まれたときから罪を犯す性質を持ち合わせているからなのです。

ここでいう罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。

では、どうして人間は生まれながらに原罪をもって生まれてくるようになってしまったのでしょうか。

神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。

神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。

しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。

これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。

さてキリスト教でいう神について説明します。

日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。

もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。

しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。

その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。

しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。

その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」
「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。

そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。

イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。

十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。

ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。

私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。

しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。

それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。

イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。

そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。

イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。

この回答への補足

>キリスト教では、神の命令を破って善悪を知る木の実を食べてしまったということが原罪の始まりで、裸を隠したのは原罪が生じた証拠です。

統一教会ではこのように言ってます(原理講論より引用)

「多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。
 かつてイエスは、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ一五・11)と言われた。まして、食物がいかにして人間を堕落させることができるであろうか。人間の原罪は、あくまで人間の祖先から遺伝されてきたものであって、食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ないのである。
なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。」

補足日時:2005/06/07 11:04
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まず聖書を読む場合、全体を読まなければ意味がわかりません。

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
と言われてたのに蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。
3:3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」3:10彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
ここで一番大切なもことは2:17の言いつけを守らなかったという事、しかし蛇にだまされ、たべってしまった。
そして、女、男が言い訳していまった。(本来は誤るのが先ですね)
そして私たちはあんまり腰を隠したということにはあまりこだわっていない。それより神の言いつけを守ることが大事、そして隠れてしまったそしてまた言い訳しないという事が大事だとおもいます。
マインドコントロールするために、聖書を用いている
と考えたほうがいい。彼らは最初は聖書を使い正当化します。その先はビデオを用い、自分たちの宗教観を
植えつけますのであまり興味を持たないほうがいいと思います

この回答への補足

>それより神の言いつけを守ることが大事、そして隠れてしまったそしてまた言い訳しないという事が大事だとおもいます。

統一教会では神は下記のような存在だと言ってます。 

「ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。」

補足日時:2005/06/07 11:32
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「善悪が生まれた原因はなんですか?実を食べたからですか?」



 下記の内容を吟味してみてください。

 何も無いところには破壊(ここでは「破壊=悪」)は起きません。神は創造主であり、無から有を創造されたのです。

 神は創造をすることで、自らの存在をあらわしています。創造の初めには破壊はありません。全ての創造の初めは愛からです。

 言葉も愛から存在しました。だが言葉の全てには対象があります。無と有、無我と自我のように善があれば悪があり、肯定があれば否定があります。神の存在は、同時に悪魔を存在させる原因にも、なるかもしれません。

 当たり前の事ですが言葉の存在そのものにも、言葉を発信する者と受信する者としての対象が存在しなければ、言葉そのものは存在もできません。言葉は伝える対象がいるから存在できます。

 三位一体の神は「父と子と聖霊」だが、「聖霊=言葉」である。(ヨハネ6:63)

 聖書から言えば、初めて言葉を使われた方は神です。(創世記1:3)(ヨハネ福音書1:1)言葉はロゴスでありますが「ロゴス←→パトス」「コスモス←→カオス」のように、言葉の意味を定義する対象がない場合にも、言葉の存在はありません。

 言い換えて例えますと、「ある存在をAと定義する時、非Aの存在がなければ、Aという定義は意味を持てない」のです。

 Aに対する非Aがなければ、Aが何であるかは明確ではありません。例えば、(この色ばかりではないが)「リンゴ」は、「赤」くて「丸」い「食べ物」だと規定されますが、「赤」「丸」「食べ物」は、リンゴを規定するものであるものの「非リンゴ」である以上、非リンゴが存在しないならば、「リンゴ」は何も意味を持てません。「リンゴ」は、「リンゴ」であると言えるのは「非リンゴ」という対象があるからです。

 エバはその実を食べました。善悪の知識の木の実とは、リンゴのような果物ではないかもしれません。善悪の知識により、善の反対は悪である事を知ったのです。神の言葉を守らず、神に背いたことが原罪です。

 善を理解するには、悪を知らなくてはできません。悪が無ければ善もありません。人間にとって善悪を判断するのは主観的なものなのです。

 そもそも善と悪を分けることが、全ての人間に罪を与えることになります。なぜならば悪は罪と等しいものだからです。主観的な判断でですが、全ての人間は善悪を理解できます。それはその人自身が既に、罪人であることの証明になります。人間の誰もが自分に悪いと思っているものがあります。それで、この世は罪人の為の世界になってしまったのです。

 「この世は罪人の為の世界」の罪人とは、善悪を理解できる人の事です。善悪を理解できるから自分が罪人であるとわかるのです。(誰も見ていなくても、赤信号を横断することは罪です。^^)

 逆に善悪を理解できなければ、何が悪くて罪なのかはわかりません。だから悪い事をして罪を犯しても、自分が罪人である事がわかりません。これは非常に危険なことです。

 

この回答への補足

>エバはその実を食べました。善悪の知識の木の実とは、リンゴのような果物ではないかもしれません。善悪の知識により、善の反対は悪である事を知ったのです。神の言葉を守らず、神に背いたことが原罪です。

統一教会では実を食べて人が堕落するわけがないと言ってます。(↓原理講論より引用)

「ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。」

補足日時:2005/06/07 11:18
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創世記3章を読んでみれば判りますが、この物語を書いた人、またこの物語を伝承した人が統一教会のような解釈をしていたわけではありません。



この物語では、エバは蛇の誘惑により禁断の実を食べてしまいますが、その実をアダムにも食べさせたことになっています。もし、「実を食べること」がセックスを意味しているなら、エバはサタンと関係を持っただけでなく、アダムとも関係を持ったことになります。ところが、こういう解釈は著者の意図ではありません。なぜなら、4:1で「アダムは妻エバを知った。」とあり、ここで初めて肉体関係を結んだように読めるからです。

「原罪」という用語はアウグスチヌス以降のものであって、これを聖書物語に投影するのはひとつの解釈としては認められますが、本来の創世記の教えというわけではありません。

「なぜ腰を隠したか」という点については、キリスト教ではあまり話題になりませんが、普通の羞恥心の発生を示していると考えて良いのではないでしょうか。

小学生くらいになると羞恥心を持つようになるのではないでしょうか。セックスよりも羞恥心の方が先に発生するという事実をふまえて考えると、アダムとエバが腰を覆ったのがセックスの後であるという解釈は不自然に感じられます。

この回答への補足

>この物語では、エバは蛇の誘惑により禁断の実を食べてしまいますが、その実をアダムにも食べさせたことになっています。もし、「実を食べること」がセックスを意味しているなら、エバはサタンと関係を持っただけでなく、アダムとも関係を持ったことになります。ところが、こういう解釈は著者の意図ではありません。なぜなら、4:1で「アダムは妻エバを知った。」とあり、ここで初めて肉体関係を結んだように読めるからです。

エバとサタンが関係をもった後にアダムとエバが関係をもったことにより私たちはサタンの血統を持つようになった、と言われてしまいます。それが原罪みたいです。

補足日時:2005/06/06 15:58
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調べてみましたが、キリスト教は多数の宗派があり、宗派によって解釈が違うみたいです。




で、ローマの酒の神バッカスはいちじくが多数実をつける方法を教えた という事をちらっとネットで見かけました。

いろんな民族の言い伝えなどが各地に重複して混在していて、時には外部の言い伝えを内部の言い伝えに取り込んだりもすると思います。

ということからいちじくが多産という概念が昔からあり、自分達が自分達の子どもを作れるようになった って事じゃないかと。
つまり初体験をしたってことじゃないかと。


「子どもは神からの一時的に預かったもので神の所有物である」という解釈をするところもあります。
これだと人間の意志ではなく、神の意思によって子どもは授かるという事になります。

で、そのルールとは関係なく、セックスの仕方を知ったことで、神のコントロールから抜け出してしまった。
神による人間のバースコントロールができなくなった?

そう思考しているうち あれ? あれれ?って疑問が沸きました。
だって、創世記の最初に神が人間を創ったとき、「産めよ増えよ あらゆる物を支配しろ」って言ったと思うのです。
でも・・・・知恵の実を食べるまで、セックスはしていない というか それが意味のあるものだと知らないのでやってない つまり いくら神が人間に地の果てまで増えろって言っても無理 無理 無理。
エデンはファイアーフォールで囲まれていて、二人は閉じ込められており、外に出れない。
しかも 知恵の実 食べる前はセックスを知らないので、子孫を増やすことは不可能。
いくら増えろって言っても、無理 無理 無理。
永遠とアダムとイヴだけがエデンに住んでいる状況に代わりはなくなっちゃう。

この小さなホコロビ というか矛盾がやがて大きな亀裂になって 神の言っていることは矛盾しているとなり、天使達が反乱を起したんじゃないかと。

「神って言っていること矛盾しているんだもん。あっちで亀裂ができて こっちで亀裂ができて もう修復が大変」と天使達が言ったかどうか。

そして閉じ込められている人間を救出するためにはどうしたらいいか考えて、彼らに神から定期的に与えられる酒を飲むより、知恵の木の実を食べるよう言った。
酒による幻覚は消えだし、おろおろして、「これは一体なんだ この見えているものは今までのエデンとは違うぞ。ここはエデンじゃないのか 今まで見ていたものは幻だったのか」という混乱から恐怖心を獲得し、木の陰に身を隠した。
それを知らない神がやってきて「あれ? 人間がいない」といつもと違う事に気づく。
やがて人間が知ってしまったと気づき、そうなった段階で酒を飲めと言っても もう飲んでもらえない。
うーーん と考え 二人を拒絶することにした。
アダムとイヴに勝手にしろ もう守ってやらない って言って自分のテリトリーから追い出すことで自尊心を保つことになる。

アダムはイヴを知った つまりセックスをしたってことになってますが、いまどき、婚前交渉はあたりまで、親だけが知らないだけ。
知恵の実を食べたとき もうやっちゃっているんです。
神の知らないところでもうやっちゃっていたんです。


「キリスト教がよくわかる本」によると、宇宙の一角 地球にサタンを閉じ込めたらしいです。
その同じ地球に人間を作ったとあります。
これは全能の神が創った世界にどうして悪があるのかという疑問に対する答えだとか。

でも ええええーー です。
サタンを閉じ込めている空間に人間を閉じ込めたってどゆこと???
ライオンの檻に人間を閉じ込めたってこと。
残酷な行為を最初からやった神の概念を作った民族って一体・・・・。


もう一つ、聖書を読むと、アダムとイヴ以外にも人間はいたようです。
つまり、アダムとイヴの系統ではない人間の子孫がたっくさんいるってこと。
この言い伝えを継承する民族は、自分達とは違うところで誕生した人間がいると知っていたってこと。
つまり原罪を負っていない人間はたっくさんいるってこと。

って思えるのです。

他にもアダムとイヴを閉じ込めた者以外にも人間を誕生させたものはいたんじゃないかと。
するとこの団体が信仰している神以外の何かが人間を誕生させている可能性もあり、この団体の血族以外の割合の方がこの地球には圧倒的に多いんじゃないかと思います。
その子孫たちも、この宗教に触れて自分達には原罪があると思い込み、どんなに清く生きても、原罪があるから・・・って思い込んで鎖に繋がれていっているのかも。



ちょっと主題とは違いますが、やっぱり「この宗教の創世記の解釈はいろいろある」 以前に「そもそも その思い込みは正しいのか」って事から問いかけることが重要だと思うのです。
間違ったものをいくら理論でやっても、意味ないし。
「青は渡れ」はどうしてそうなったのかっていくら議論して納得いくものを導き出そうとしても意味ないです。
「青は渡れではありません。 渡ってもいい が正解です」って一蹴されてしまうあやうい思い込みです。

この回答への補足

>でも・・・・知恵の実を食べるまで、セックスはしていない というか それが意味のあるものだと知らないのでやってない つまり いくら神が人間に地の果てまで増えろって言っても無理 無理 無理。

統一教会的に考えるとサタンがエバを誘惑してセックスした、という風に考えられます。

>もう一つ、聖書を読むと、アダムとイヴ以外にも人間はいたようです。

聖書のどの部分ですか?
 

補足日時:2005/06/06 15:45
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 神に背く前には善悪はなく、罪などはありません。

原罪とは、善悪が生まれた原因です。神に背くことそのものが原罪であり、下部の問題が原罪なのではありません。

 確かに人間は罪を犯したときに、それを隠そうとしますね。ですが神はその罪を認め、悔い改める者を許してくださいます。

 アダムとエバはその罪に対して、神に悔い改めることをしませんでした。それは神に背くことになります。

この回答への補足

善悪が生まれた原因はなんですか?実を食べたからですか?

補足日時:2005/06/04 01:35
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