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どなたかご教示くだされば幸いです。私はクリスチャン(プロテスタント)として生きていこうと思っていますが、妻の親戚はみなさん冠婚葬祭は仏教です。聖書的な解釈ではクリスチャンに他宗教は認められませんよね。では、こういう場合の冠婚葬祭、法事等はどうすればいいのでしょうか?やはり厳格に線香もあげずにクリスチャンとして立ち居振る舞うべきでしょうか?私はキリスト教の本当に愛に満ちあふれた教えは大好きなのですが、この辺の排他性はどうしても引っかかります。イエス様は仏教徒をはじめ他宗教の信者に対しては愛されておられないのでしょうか?

A 回答 (10件)

良きサマリヤ人の話はご存知でしょうか?


これが今回の答えとなるのではないかと思います。

良く考えてみて下さい。
十戒で何と言われているかを。
「あなたは私の他に何者をも神としてはならない」
さて、どう言う事でしょう?
私はこれを「あなたが信じている父と子と聖霊の三位一体なる神以外を自分の神として信頼、希望、望みを置いてはならない」と言う風に解釈します。
あなたが奥さんとその親戚の帰属する宗教を自らの信仰としなければ良いのではないのでしょうか?

「クリスチャンとして立ち居振舞うべき」とはどう言う事でしょう?
他の宗教の人に対してどのように立ち居振舞うべきなのでしょうか?
「お前たちの信じているものは虚しい」と教えてあげるべきなのでしょうか?

正直、私自身を含めてクリスチャンでもどうしようもない人間も沢山居れば、他宗教の方々でも素晴らしい方々は沢山いらっしゃいます。
信仰深いユダヤ教徒の世界的な脳外科の方、平和について常に心を砕いているイスラム教徒の方、常に深い愛情を持って他者に接するヒンズー教徒の方、常に慈悲の心を持って他者と接する仏教の方などにお会いすると、信仰している対象は全く別であっても、その方も同じ人間であるのと同じ位に尊敬の対象となることを教えてもらえます。

今更ですが信仰と言うのはあくまで個人によるものであって、強制されるものではありません。
私達の信じている方が完全に正しいから私達も正しくて、他の宗教を信仰している方達を無理やり説き伏せて良いのでしょうか?
神の前に誰も正しい者は一人としていないと書かれているのをご存知でしょうか?
その後にこう続きます「私達はイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる」とあるのを。
私達は神の圧倒的な恵みによってのみ義とされます。
この言葉は我々に謙虚さを求めます。
我々が神の為に為し得る業など天地を創造された方からすれば皆無に等しいのです。

イエス様は他宗教の信者は愛していらっしゃらないか?
いえいえ、そんなことはありません。(笑)
「神はその一人子を賜った程にこの世を愛してくださった」とあるのをご存知ですか?
圧倒的な愛は我々クリスチャンにのみ向けられているのではありません。あなたや私の好きなあの人やこの人のみではなく、あなたや私の大嫌いなあいつやこいつにも向けられています。残念ながら(笑)

あなたが他宗教の儀式に参加する時、もし、あなたの信仰的な良心が咎めるのであれば正直にそう言って辞退すれば良いと思います。
でも、他の方達の事を慮って焼香やお線香をされるのであればされても問題は無いと思います。
実は若い頃、同じ問題で悩んだことがあります(笑)
私は極力、他宗教の儀式を尊重します。
但し、拝む行為だけは避けてきました。
具体例で申し上げますとお葬式に行った時は焼香まではしますが手を合わさず黙祷だけして亡くなられた方への礼を失さない様に心がけます。
そうすれば周囲の方々も理解してくださいますよ。
長々と書き連ねましたが答えになりましたでしょうか?
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この回答へのお礼

真摯なご回答ありがとうございました。
ご挨拶が遅れて申し訳ありありませんでした。
非常に参考になり、今後の心の糧としていこうと
思います。

お礼日時:2005/08/31 08:44

>聖書的な解釈ではクリスチャンに他宗教は認められませんよね。


教派が違うので意味ないかも知れませんが、カトリックの場合は、神道など他宗旨の学校・会社・親族行事を特に避けなくて良いとされます。多くの人の善意に水をさす必要がないとの考えから、他宗旨への配慮・尊重が教派として明確に述べられています。初詣・墓参なども周囲の作法に倣って問題なしです。三位の神への信仰を持っていれば、個別のやり方に、周囲が当惑するまで拘る必要がないとの感覚でもあります。

また、親族の仏式葬儀・法事をカト信者が依頼、喪主を務めることも教派としては問題なしです(寺がどう言うかは別ですが)。焼香・合掌なども亡くなった方の為に神に祈りながら行いますので、問題無しです。一言で言えば、三位の神への信仰をもって周囲の習慣に倣います。

>排他性
歴史的には、キリスト教の救済論は狭義なもので「教会の外に救いなし」でした。だからこそ、ザビエルも命懸けでアジアの人々の救霊の為に宣教に出掛けました。初代教会の宣教も同様です。

今日、救済論は楽観的なものから、従来型の狭義なものまで幅があります。現代のカトリックは、善意の他宗旨・無神論者まで、神の救いから遠くなく、信者は愛と命の充満である神を信頼すべきとされます。確かに、聖書には、狭義の救済論を明言した文があります。ただ、新約の大前提のコンテクストは、神は「最後の一人まで救う愛そのもの」です。

>他宗教の信者に対しては愛されておられないのでしょうか?
そうでないと信じます。イエスの贖いは、全ての時代・全ての地域の全ての人の為になされたものです。信仰とは神への信頼のことです。安心して、愛・善の源である神を信頼されてはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

コメント有り難うございます。
最近ゆっくりと考える時間を持つ事ができ
このことを自分なりに考えてみました。
しかし、なかなか結論はでません。
でも私にとって教会は救いになっているのは事実です。
神様を信頼してもう少し流れに身をまかせてみます。

お礼日時:2005/08/31 00:17

個人的な考え方です。


私は法事に出て手を合わせます。死んだ人に対しての供養するわけで、何も阿弥陀様を救い主として見るわけでありません。またお寺にいかなければならない場合においても儀式的にあわせています

形より中身です。いくら大通りでクリスチャンぶって
祈っている人を神様は愛されますかね?
厳格なんて言う言葉はないと思います。もしあるなら
自分を基準として他の人を排除しています
(回答と少しづれました。ごめん)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに信仰は外見よりも中身ですね。
納得のいくアドバイス感謝致します。

お礼日時:2005/08/31 08:38

こんにちは。


私自身はクリスチャンではないのですが。

一部の信者さんの中には、ずいぶん厳格に聖書の解釈をされている方もいるようですね。
知人から聞いたときは驚きました。

ただ、信仰とは個々人の心の問題でしょうし、貴方がどうなさるかは貴方自身の考えに拠るのではないでしょうか?
私も、他の回答者様の意見にもあります通り、貴方の通われている教会の牧師様に相談されてみてはどうかと感じました。


ちなみに、私の知っているシスター(カトリック)方は、仏式の葬儀にも参列されていましたよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。
カトリックとプロテスタントでは他宗教に対する
温度差は大きなものがありそうですね。参考になります。

お礼日時:2005/08/31 08:41

日本の仏教は無茶苦茶で面白い!


人間が死ぬと仏になるなんて・・・仏様ですよ、あの。
こんな恐れ多い宗教は日本仏教だけでしょう。
しかも生前に全く何もしてなくても仏になれる。
どこでどう転んで葬式宗教に成り下がったのかな、仏教は。
そうなったきっかけを作った張本人は親鸞or法然?
法事なんか別に気にしなくてもいいと思うけど・・・
キリスト教の排他性をもって仏教をその対象とするなら、
仏教の何が問題か逆に教えて欲しい。
仏教と日本仏教は似て非なるものやのに。
啓示宗教と実践宗教は目的自体全然違うと思うが・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
ご挨拶遅れて申し訳ありませんでした。
宗教問題は本当に難しいです。私自身が
頭が混乱しています。

お礼日時:2005/08/31 08:39

マザーテレサは、収容した人の宗教を聞き、それに則った看取りと葬儀を行ってたそうです。



自分にとってカトリックの信仰が大事なように、あなたにとってはヒンズーやイスラムの教えが大事なのですね、という考えです。

彼女ほどのキリスト者がそうしてるのです。花嫁なり、故人なり、その場の主人公の宗教を尊重した振る舞いをするのが大人だと思います。

通ってる教会の牧師さんに質問されてはどうでしょう。多分ここで皆さんのおっしゃってることを言われるでしょう。

確かにある一派は、厳格に他の宗教行事に参加するのを禁止していて、本当に狭いコミュニティで暮らしています。社会生活とはいえませんね。
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この回答へのお礼

ご指摘頂いた件ですが、体の不調により迅速に
返事をすることが出来ず不快な思いをさせてしまった
事をお詫び致します。

お礼日時:2005/08/31 00:14

イエスの発想は、当時のユダヤ教に比べて、かなり仏陀の影響を受けていると思います。


教団としての締め付けの問題と、すばらしい人物の残した教えの世界は別ですので、思うままに行動すればいいと思います。
大切なのは、自分の信仰と、亡くなった親戚達の供養とおつきあいのバランスです。
心をひろくおおらかに持てばいいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
説得力のあるアドバイス恐れ入ります。

お礼日時:2005/08/31 08:45

あなたはクリスチャンとして、なにをしていこうとしているのだろう。


教義に忠実に行っていればクリスチャンだろうか。

私は宗教には門外漢ですが、自分をなにかに当てはめて、その権威で生きていこうとするなら宗教を利用することになりかねません。

まして、>やはり厳格に線香もあげずにクリスチャンとして立ち居振る舞うべきでしょうか?のような問いがでるようなら、宗教者として失格です。

自分がイエスになりかわるぐらいの気慨で望むなら、答えはおのずからでてくるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

有り難うございます。
体の不調がありコメントが遅くなった事をお詫び致します。
今は私が別の教会に通い、妻は子供を通して日曜学校に
通っています。妻はまだまだキリスト教一つにしぼれない
ようですが、我が家ではしばらくはこの形になりそうです。

お礼日時:2005/08/31 00:12

私の父はクリスチャンです。


毎週、日曜日ともなると一日教会に行っています。

ですが、私の家には仏壇があります。
寺の檀家にもなっていて、父には守るべき、先祖の墓地もあります。
妻である母、娘である私は教会へは行っていません。

将来の話しを父ともしますが、父が他界した暁には教会で葬儀をします。
そして、墓地はクリスチャンの共同墓地になると思います。

12年前、祖母(父の母親)が他界した際の葬儀は寺で仏式で行われました。
施主は父。
普通にお寺でお経を読んでいました。

私から見た父の思考はおそらく『郷に入っては郷にしたがえ』だと思います。
私も『信念』と『お付き合い』は別物だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。
納得のいくご教示感謝致します。

お礼日時:2005/08/31 08:36

どんな宗教でも、自分の信仰している


ものが最高としているので、たいていの宗教は
排他的という面があるでしょうね。

でもあまりに頑なになると他の宗教と
ギクシャクしてしまいます。キリスト教は
日本では少数派なので、なおさらです。
本来、人が幸せになるための宗教で
家族や親戚と不仲になっては本末転倒です。

仏教の法事なども、形式的な儀式と割り切って
参加されてはどうでしょう。
参加者の中で、心から仏教を信仰している人は
すくないでしょうね。
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この回答へのお礼

有り難うございます。
体の不調がありコメントが遅くなった事をお詫び致します。
今は私が別の教会に通い、妻は子供を通して日曜学校に
通っています。妻はまだまだキリスト教一つにしぼれない
ようですが、我が家ではしばらくはこの形になりそうです。

お礼日時:2005/08/31 00:11

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