プロが教えるわが家の防犯対策術!

徳川幕府の扶持米の年間支給量は平年と閏年で違ったのでしょうか?
確か1日あたり玄米5合との規定だったと思います。平年は354日前後、閏年は384日前後ですから、閏年は約30日分多かったのでしょうか?
ご存知の方教えてください。

A 回答 (3件)

#2です


>家来として抱えられた時の書面には給与として扶持数だけだったんでしょうか、
修富氏の19歳の頃の「御蔵御証文」にはこうあるそうです
以下引用
......
御広敷[この部分上司4名の名前]組添番並御天主台下御庭番ニ成  
 元西丸御広敷[この部分上司1名の名前]組添番並山里御庭番    
 高拾人扶持  川村繁之丞
右の通りに成り候間、引き付け直のの御扶持方、向後、頭裏判を以って手形相渡されべく候
......
一行目は新部署、二行目は元の部署、以下棒給・氏名となるわけですが、(どうでもいいが長い役職名です)ここにはただ『拾人扶持』とあるだけです。
まあ、扶持数だけの場合もあるようです。

また、修富氏56歳の時の日記には『「御蔵御証文」のこれまでの家禄元高"十人扶持"を"五十俵高"に直してもらった』という記述が見られるとの事です。きっと二つの間にはナニか違いがあるのでしょうが、筆者はそこんとこはっきりとかいてくれてません。
何なんでしょうね?


ところで、この本を読んでいて重要な薀蓄に出会いました。
以下引用
「江戸幕府は幕臣たちの俸禄を春(二月)に四分の一、夏(五月)に四分の一、冬(十月)に残り四分の二、と、三回に分けて渡す決まりで、春と夏の支給を「御借米」、冬のを「御切米」と称し、じっさいには米相場と連動した「御張紙相場」で換算した金額を通貨で支給した。」
......
!!幕臣は月給ではなく、年俸を三回に分けてもらっていたのですね。しかもキャッシュで。
であれば、先の川村氏は閏月がない場合でも
2月~4月の3ヶ月に1/4
5月~9月の5ヶ月に1/4
10月~翌1月の4ヶ月に2/4
の割合で給料を手にしていたことになります。

さて、じゃあ当時の暦はどうなっていたかですが....
http://www.geocities.jp/planetnekonta2/hanasi/20 …
によると、天保暦では、「春分を含む月は2月、秋分を含む月は8月、夏至を含む月は5月、冬至を含む月は11月」とあります。
春分と夏至の間は今も昔もきっちり3ヶ月ですから、閏月は2月から4月の間には発生しないことがわかりますね。
ふむ...年末年始になにかと物入りなのは理解できますが....この5月~9月の5ヶ月はなんでこんなに少ないんでしょう?
ああ、わからなくなってきました.....

謎は深まるばかりでございます.....(鈴木健二 風)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変長文の回答をありがとうございした。
諸兄のご回答では一定という気がします。支給する主人にとっては一定の方がしやすいですし・・・
手元の資料を改めて見たのですが、「日本史辞典(角川)1986年」では「1ヶ月ごとに米や金で支給」とあり、「武士の生活II(柏書房)1982年」では「日給制」とありました。これらの記述からは平閏で違うともとれます。
・・・余計にわからなくなってしまいました・・
これからもご教授よろしくお願いします。
追記
閏月のことですが、嘉永5年は閏2月が、万延1年は閏3月があります。

お礼日時:2005/10/14 01:26

このあたり、なんだかややこしいのですが...私も変わらない(年棒)説ですね



「旗本の経済学」/小松重男 新潮選書 
ISBN:4-10-600392-9
によると、当時の給与システムは
まず、直参旗本へは幕府より「御蔵御証文」なる辞令(「年収」を示す給与事項つき)が交付され、旗本はその書付を「毎月」御蔵役人へ提示することにより月あたりの収入(米?)を受け取っていたとあります。
で、「御蔵御証文」には、年収についての規定はありますが、月収についての規定はどこにもありません。

この本では主人公となる 幕府直参(御庭番)川村清兵衛修富氏の、48歳の「御蔵御証文」が出てきます(若いころの「御蔵御証文」も紹介されているのですが、割愛)
以下引用
......
御足高百俵 川村清兵衛
最前御足高五十俵
元高拾人扶持五十俵ニ被直下
都合弐百俵之高ニ成
外御約料百俵
右の通りに仰せ付けられ......
......

三行目の「元高拾人扶持五十俵」に注目!
これは、修富氏が19歳で初出仕をした際の元高のことで
十人扶持=五十俵を表しており、要するに当時の幕府が「10人が1年間で50俵は必要だろう」とだけ認識していたことがわかります。
閏月を考慮している様子はどこにもありません。

ちなみに50俵とはどのくらいの量かというと
著者の小松氏によると
1俵=3斗5升=350合
なのだそうで、ここから、
50俵=17500合
17500合÷350日=50合
50合÷10人=5合
で、だいたい「1日あたり玄米5合」に合致します

この本によると、当時の旗本は元高以外にも臨時手当やアルバイト的な仕事(もちろんお城のお役目)で臨時収入を得ていたのだそうで、基本給はあまりアテにしていなかったのかもしれませんね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳細にありがとうございました。
証文などの書面に「拾人扶持五十俵」となっていれば正閏に無関係だったことはわかるのですが、
単に「二人扶持」となっていたらどうだったんでしょう?
薄給の人では30日分の差は大きかったと思うのですが・・
家来として抱えられた時の書面には給与として扶持数だけだったんでしょうか、俵数も書いてあったのでしょうか
お手数ですが、ご意見をお聞かせください。

お礼日時:2005/10/11 00:57

江戸時代は年俸だった筈です。


明治5年に太陰暦から太陽暦になります。その前に官吏の俸給を月給制に変えていましたが、明治6年は太陰暦で閏年で給料を13ヶ月払わないといけないことに気付いたので明治5年の末に急遽変更しました。
江戸時代は年俸制だったので、年の正閏に関係なかったので直前になるまで気付かなかったのですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
明治6年のことは何かで読んだことがあります。明治5年12月は確か3日間しかなかったのでこの月の給与も払ってなかったと思います。

お礼日時:2005/10/11 01:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!