ハムレットの中で、オフィーリアの語る、
「you must wear your rue with a difference」(第4幕5場)は、
一般的に「あなたとわたしでは、つける意味が違う」と訳されています。
一方、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」の中で、同じシェークスピアの言葉が引用されていて(47章)、訳者の故清水俊二氏は、
「そなたは分別をこえて悲しみの衣をまとわねばならぬ」と訳されています。
しかしこれは誤訳ではないでしょうか?
ハムレットにおけるrueとは、ヘンルーダという植物で、「後悔」と「悲哀」の2つの意味があり、オフィーリアは王妃に対して「後悔」を、自分に対して「悲哀」を表したものと解されていると思います。
その2つの意味があるrueという言葉を「悲しみ」と訳すのは、少しおかしいのではないでしょうか?
実際、チャンドラーの研究者として知られる各務三郎氏は、著書「チャンドラー人物事典」の中で、自らの訳として、
「あなたはちがった意味のヘンルーダを身につけなくてはいけませぬ」としています。
(そしてヘンルーダには後悔と悲哀の2つの意味があると説明しています。)
各務氏は清水氏の訳について何もふれていませんが、もし間違っているのなら、「長いお別れ」という日本でも人気の高い作家の名作が、きちんと翻訳されていないまま、60刷以上も刷られ続けているのは、甚だ残念なことに思われます。
(もちろん清水氏の訳業には、敬意を表しますが。)
マイナーな質問で申し訳ありませんが、ご興味のある方がいらっしゃいましたら、意見を聞かせていただきたいと思っています。
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
私の言葉が足りませんでした。
清水氏の訳が誤訳であることは同意致しております。(翻訳に誤訳はつきもの、というのはそういう意味でした)
ただ、rue に「悲嘆」と「悔恨」二つの意味がある以上、これを「悲しみ」と訳していけないとは言えません。with a difference は誤訳でしょうが、「そなたは私とは違う悲しみの衣をまとわねばならぬ。」でも、悪くはないのでは?
とにかく、私は清水氏の翻訳を責める気にはなれないのです。
第一に翻訳として、訳注はつけるべきではないということ。専門書や研究書ではないのです。この本の場合、読みやすさを最優先させるべきです。註はもってのほかです。
第二に、シェークスピアはそれなりに研究されていましたし、それを参照しなかった(かもしれない)清水氏にはそれなりの責任はあるでしょう。しかし、最も重要な辞書が今とは比べものにならないくらい貧弱だったあの時代に、あれほどの翻訳をされた清水氏を、尊敬することはできても責めることは私にはできません。
第三に、たった1行のために(あえて、「たったの1行」と申し上げます)、改訳をすることは商売上できません。文体も古びていますから、やるなら他の誤訳の訂正と一緒に全面改稿ということになるでしょう。
しかしそんな贅沢が許されるのは一部の文学書(サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)や専門書(ソシュール『一般言語学講義』)くらいのものです。最近まで、鼻も引っかけられなかったハードボイルドにそれを期待することは無理です。(もっとも、ハメットやチャンドラーを今の若い人が読むかどうか、非常に疑問にも思うのですが)
また、全面的に改訳をするとなると、気力体力とも充実していなければできません。初訳よりも大変なのです。しかし、働き盛りの清水氏には次々と字幕だの何だの仕事が舞い込みますから、難しかったかもしれません。
おっしゃるとおり、「『長いお別れ』という日本でも人気の高い作家の名作」ですから、早く新訳が出版されるといいですね。シャーロック・ホームズの新訳もたくさん出ましたし。
#以下、オフトピ。
研究されていても誤訳はつきません。
ホームズの『緋色の研究』は『緋色の習作』であるべきだといわれていますが、今更そういわれても、という気がします。
源氏物語の冒頭部分にある「いとやんごとなき際にはあらぬが」の「が」は逆接の接続詞ではなく、同格の格助詞ですが、現代作家による現代語訳でそう訳しているのは谷崎潤一郎くらいです。
ハムレットだって、太っていたのかどうか、いまだに議論の的です。fat は「デブ」なのか、「汗をかいている」のか?
丁寧なご回答をいただき、大変感謝しております。
私も清水氏を責める気は全くありません。
ただ私自身が、シェイクスピアとチャンドラーを敬愛していることもあり、
その両者の作品上の接点とも言うべき箇所が、きちんと日本語にされていないまま「放置」されているのかと思うと、残念に感じたのです。
私は当初、清水氏の訳が誤訳かどうか、はっきりと自信がもてませんでした。
この場をお借りして、ご親切な回答をいただくことができ、感謝している次第です。
No.1
- 回答日時:
まず第一に、翻訳に誤訳はつきものだということ。
シェークスピアや聖書のように研究し尽くされたかのように見える著作にさえ、誤訳があります。
現在市場に出ているシェークスピア全集を読み比べれば、ずいぶん違うのがお分かりのはず。シェークスピアという「日本でも人気の高い作家の名作が、きちんと翻訳されていないまま、○○刷以上も刷られ続けている」わけです。
第二に時代背景。
『長いお別れ』の初訳はおそらく1958年。現在のシェークスピア研究の成果を要求するのは、木によって魚を求めるようなもの。もちろん、その後改訳をしなかったのは問題かもしれないが、出版社の事情もあるし、訳者だけに責任を押しつけるのは酷です。
残念ながら、清水氏がお亡くなりになって久しいのですが、翻訳出版権や著作権が切れれば、新訳も出るでしょう。『星の王子様』のように。
第三に、何のため、誰のための翻訳か、ということ。
一般読者が娯楽のために読むということを第一に考えるならば、「ヘンルーダ」などという見たこともない単語を出して、さらにそれに訳注をつけるなど、御法度です。翻訳の目的を最優先するというのは、現代翻訳論の基礎の基礎です。
#一般にこの翻訳でもっと問題視されるのは最後の
To say goodbye is to die a little.
「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」
でしょう。
「さよならをいうのはすこし死ぬことだ」
の方が正確だ、ということですが、どうでしょうか。私には、「少し死ぬ」に違和感を覚える人は少なくないと思われるのですが。
ちなみにこのせりふの元はおそらくフランスのエドモン・アロクール Edmond HARAUCOURT の詩「別れのロンデル Rondel de l'adieu」ですが、
Partir, c'est mourir un peu
'to leave, it is to die a little'
これの日本語訳は
「出立はそこはかとなく死に似たり」
「去りゆくは死にも似たり」
何が正確か、どういう訳に味があるのか、読みやすい訳とは何か、考えさせられるではありませんか。
この回答への補足
お返事どうもありがとうございます。
(以前にも別の質問でご回答をいただきました。)
少し補足させてください。
翻訳に誤訳がつきものなのは充分に承知しております。
ただし、許されるケースと許されないケースがあると思います。
「長いお別れ」のこの箇所は、殺人事件を揉み消そうとする検察と、それを暴こうとするジャーナリストの間での重要なやりとりであり、誤訳は許されません。
私は最初、清水氏は意訳して、
「そなたは分別をこえて悲しみの衣をまとわねばならぬ」とされたのかと思いました。
初訳が1958年とはいえ、当時でさえすでにかなりの研究が進んでいたはずのハムレットの邦訳を(http://homepage3.nifty.com/nada/Hamlet.html)、清水氏が参照しなかったわけがないと思うからです。
あるいは氏の新解釈かとも。
しかし私の手元にあります新潮社のシェークスピア大全(CD-ROM)のハムレットの10人の翻訳者の中で、rueを悲しみと訳している方は1人もいらっしゃいません。
清水氏の訳は、「長いお別れ」の中の文脈とみてとれるかもしれませんが、登場人物自ら、ハムレットの引用だと言及しているのです。そうするとハムレットの文脈にそって訳すべきではないでしょうか。
ですから、私はやはりrueは悲しみではなく、ヘンルーダだと思いますし、ヘンルーダが聞き慣れない言葉だとしても、きちんと訳出しないのは、翻訳者の怠慢だと考えております。(坪内逍遥は悔やみ草と訳していますが)
またNsuikaさんは、「シェークスピアや聖書のように研究し尽くされたかのように見える著作にさえ、誤訳があります。」とおっしゃいますが、果たして「誤訳」と言えるでしょうか。「解釈の違い」ではないでしょうか。
もちろん翻訳は、読者に楽しんでもらうことが大前提です。その意味で意訳をしなければならないケースは出てくるでしょう。
ですから、私にとって、
To say goodbye is to die a little.
を、
「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」
にするのか、
「さよならをいうのはすこし死ぬことだ」
にするのかは、
全く問題になりません。前者が清水氏の「解釈」と捉えることができますから。
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