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院政期において、南都北嶺の僧兵が院の御所に強訴にいきますが、いったい僧たちは、何を訴えにいくのですか?院政に対する不満なのでしょうか。また南都(興福寺)は強訴の際に神輿を用い、北嶺は神木を用いたといいます。これらはなんの意味があるのでしょうか。以上の二点、教えていただきたいです。お願いします。

A 回答 (2件)

神輿、神木は神の宿られるものですから、それにたいして武力行使をすると神罰が下るということで手出しができなかったのです。

(武士の時代になると、そういうことは気にしなくなって効果がなくなりますが)
強訴でなにを求めたかというと、所領争いだとか、寺の上層部の人事への不満(このころの寺のトップは朝廷が決めて任命していました)、などで自分たちの主張を押し通そうと言う者がほとんどでした。

参考URL:http://www.tabiken.com/history/doc/G/G105L300.HTM
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当時の寺領は朝廷から与えられた、治外法権の独立地域でした。


さらに有力者の寄進や重税に苦しんだ農民などが避難の為流入する事もあって人口の増加もありました。

自衛の為に武装したのが僧兵で彼らはもと武士であった者も混じっており乱暴者の集団でした。
これらが不満があると強訴と称して朝廷(院)に押し掛けるのです。
武装したデモ隊のようなものです。

寺領の権威を守護神として担ぎ出したのは治外法権の独立集団であることを示し対抗する勢力に仏罰が下るという恐怖を与えるためです。
従って院の命令を受けて立ち向かった武士も恐れて弓を引くことはなかったのです。
当時はまだこのような素朴な信仰のある時代でした。
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