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通りゃんせの歌で
「行きは良い良い 帰りは怖い 怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ」
と歌いますよね。

私はむかしこの歌について「7歳のお祝いに札を収めて成長をお祝いする」ために天神様へのお参りをするということで聞いたことがあるんですが、めでたい席の帰りでなぜ帰りが怖いんでしょうか?お払いとか受けた後のはずなのに。
むしろ細道の行きの方が感覚的に怖く感じます。子供の成長についても7歳までのほうが7歳からよりも危ないような気がしますし。

なにか魔物の伝承でもあるんでしょうか?

A 回答 (7件)

elthy さん、こんにちは~☆♪



下記URLによると、川越の三芳野天神(郭町、三芳野神社)が、
発祥地だそうです。

> なにか魔物の伝承でもあるんでしょうか?

三芳野神社の天神さまにお詣りするときは、行くときはいいが、
帰るときは携帯品を何度も城の驚固のものに調べられたので、
「帰りはこわい」(関所を通るので)となったと記載されております。

このわらべ歌は、全国のどこにでもある「氏神さま」に七五三のお参りに行く
母親の姿を描いたものではなく、関所を通らして下さいという女性の
切実な願いを描いた関所遊びの歌だったそうです。


ではでは☆~☆~☆        - by パピヨン -

参考URL:http://www.kgef.ac.jp/ksjc/ronbun/910540y.htm
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この回答へのお礼

なるほど、お城の中に神社があったんですね・・・。
これは警戒されても仕方がないです。有難うございました。

お礼日時:2001/12/22 16:51

初めまして、elthyさん。



「通りゃんせ」は、川越城の中にあった神社を参拝した客が見た機密事項を
外部に漏らさないように、管理していた事があり、それを揶揄した唄。
という解釈があります。

城の門番は、入る時は比較的簡単に中に入れてくれますが、
上のような理由で、出る時は、検閲が厳しかったといいます。

別の解釈は、これは有名ですが、
この唄は、口減らしの唄で、親が自分の子供を捨てに行く時の唄。
という話があります。

「行きはよいよい 帰りは恐い」と言うのは、
行きには子供がいるのに、帰って来る時には、
子供を捨てて来てしまっているので、 そのことを不審に思わ、
何か詰問されてしまうのが恐いようです。
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この歌は、埼玉県川越市の三芳野天神社のことをうたったものだそうです。



この神社は、天神様という事で昔から信仰が厚いのですが、参拝客が城内で見分した機密事項を外部に漏らさないようにと、一般の参拝客に対して大変管理が厳しかったそうです。

それを皮肉った唄が上記の「通りゃんせ」だといいます。

口減らしのうたという話しもあるようですね。

『かごめかごめ』もそうですが、解釈すると怖い話しになるものが多いです。

参考URLに、詳しく書かれています。

参考URL:http://www2.osk.3web.ne.jp/~ynari/ghost/kago.htm
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  こういう話というか、民謡に含まれる古い「恐ろしい真実」の意味については、『孔子暗黒伝』などの作者の諸星大二郎が書いていたはずだと考えていますと、検索した以下のURLのページで、やはり、諸星氏の作品に触れています。
 
  この何故「帰りは怖い」のか、というのは、多分、答えはないのだと思います。昔はあって、失われたという可能性と、もう一つ、言語化できない直観の真理認識のようなものがあったのかも知れません。
 
  もう少し散文的に言うと、これは、「神隠し」などと同じような地平の話というか、心の状態なのだと思います。「神隠し」とは何かというと、子供が行方不明になるのですが、これも散文的に理由を考えると、例えば、人さらいにさらわれたとか、山人とでもいうか、サンカとか、山男とか山姥などと呼ばれている人々が連れ去ったとも言え(サンカと山人や山姥との関係は必ずしも明確でありませんが)、または、迷子になって死ぬ子供とか、または、食人の野生人が山にいたのかも知れません。
 
  散文的な話ですが、子供が遊びにでかけると、行く時は、遊びに行くので楽しいが、帰れるかどうか分からない……「神隠し」に会う可能性があるぞ、という歌なのではないかと思います。「帰りは怖い」は、行って帰って来て、帰りが恐ろしいのではなく、帰ろうとすると恐ろしいものがたちふさがるということを警告している、あるいは、遊んでいる子供達は、直観的に理解していたのかも知れません。
 
  「七つのお祝いに、天神様の細道」ですが、天神は怨霊を神として祭ったものです。非常に古い日本の伝統的な宗教観が、怨霊は神として祭らねばならないということを教えるのです。そして「七」というのは、吉兆数ですが、神秘数でもあり、諸星風に言うと、「異界」への数とも言えます。
 
  諸星の話からの連想だと、「神隠し」の背後には、子供を神の生け贄にして殺すという儀礼が背景にあった可能性も想定し得るのです。七歳の祝いの日に、子供に晴れ着を着せて、神界への細道を進ませ、そして子供は消えて、帰って来なくなるのです。
 
  行きは、「神界」へと晴れて行くのですが、帰りは、「異界=黄泉の国」へと帰って行くのです。それでもよいなら、「通りゃんせ」という歌なのでしょう。
 

参考URL:http://homepage2.nifty.com/osiete/s683.htm
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この歌は諸説ありますよね~。


怖い意味の解釈が多いですが、私が聞いたのは「こわい」はどこかの方言(確か東北地方)で「しんどい、疲れる」という意味だ、という説です。
「行きはまだ最初だから元気があるけれど、帰り道にはさすがに疲れてる。疲れているけど、ここを通って帰らなきゃ」という意味だそうです。

ただこの説の場合、他の歌詞の言葉と方言があわない、つまり「こわい」が方言だとしたら、例えば「とおりゃんせ」といった歌詞中の他の言葉と地域があわないのでおかしい、という話も聞きました。
また、「~りゃんせ」「~じゃ」などを一緒に使う方言地域もなく、歌詞自体あちこちの方言が入り交じった物になっていておかしい・・・という話も聞きました。

聞きかじりで、参考資料がなくて恐縮ですが、ご参考まで。
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通りゃんせって最後に一人捕まえて終わるんですよね?私が聞いたのは、子供達が遊びに行って帰りはその中から一人神社の何物かに連れ去られるってことです。

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子どもの七つのお祝いに、お札をさげに、参ります。


 生活の苦しい、農民よりもずっと苦しい人々の歌だと聞きます。
食べるものがないので、子どもを仕方なしに殺すということです。ひとり殺しては一つ、こけし(子消し)をつくって供養するんですが、この歌では、子どもを殺すのを天神様に許してもらうってことでしょうか。死ぬ前の祝い事です。祝った後は悲劇が待っているので、怖いんではないでしょうか。その罪悪感、悲壮感たる壮絶なものでしょう。いまでも貧しい国の貧しい人たちは、貧しいのに何故か子沢山なんですよね。ああいうものなのでしょうか?それで、幾人かの子どもは餓死するんです。それしか楽しみがなく、慰めあって、避妊しないから、あのようになるのでしょうか?
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