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鉄砲伝来(1543年)による影響として、鉄砲の国内生産、足軽鉄砲隊の出現などは理解できますが、もうひとつの影響として「築城への影響」というのがありました。なんで鉄砲伝来によって築城が変化するのかわかりません。

ちなみに、ノートには

影響
 1国内生産
 2戦法-足軽鉄砲隊の出現
 3築城-山城→平山城→平城

とあります。

教えてください

A 回答 (7件)

初期や山城では木柵や木製塀などが多く用いられた簡単なものでした。


これは接近し難い地形や天然の川、沼などの利用がおもであったからです。
また山城では物資の搬入が大変だったからとおもわれます。

弓矢の防御を考えるだけならこれでも十分に効果が期待できました。
しかし拠点としての性格が増し、城下町の発展が重要になって来ると次第に規模が増大し物資の集積が可能になる平地や丘に築城されるように変化しました。

さらに鉄砲の伝来によりその威力をふせぐには木造では無理で土壁も厚くし接近を妨げる堀、石造の障壁の必要性が増大したのです。

堀も二重、三重にし、中間に櫓を設けそれから鉄砲で狙撃して防御する工夫もされるようになり近代要塞の体裁に近いものに進化したのです。
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だって、火縄銃は、


下に向けると玉が出ちゃうもん。^^;
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たしかに鉄砲の波及により築城方法が変化したという話はよく聞きます。


でも私は、鉄砲の使用ではなく、戦国大名による経済政策の理由から築城法に変化が生じてきた…というのが本質だと思っています。

だいたい平城なんてものは、そんなに存在していませんよ。有名なのは松本城くらい…?
厳密に言えば大坂城・姫路城…みな平山城です。
また山城がまったく無くなったわけではありません。信州などの山国には、江戸時代に入っても山城が存在していました。高遠城などです。

あえて変化を言うなら、山城には城壁がほとんどありませんよね。しかし平城や平山城では、城壁があり、その壁には三角・四角・丸…の小さい穴があいていますよね。あれは自分の身を守りながら鉄砲を撃つためのものです。
そのような観点での築城法の変化なら納得できるはずです。

理不尽なことも多々あると思いますが、テスト対策上は、ヘンだなぁ…と思いながらも、そう答えるしかないでしょう。
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 築城の形式が変化したのには、単に鉄砲の導入ということだけでなく、その時代が、ただ砦が砦としての機能だけでは足りず、経済や流通と大きく係わらなくては維持できないものになってきたということが挙げられるのではないでしょうか。


 したがって、信長が鉄砲隊を編成したころの砦のスタイルから本格的な築城へと、そして次第に低地にと変遷し、同時に、また逆に、次第に城下の発展がそのまま城の維持存続に影響を与えるものとなったと思います。

 こんな話をご存知でしょうか、日本三名園のひとつとされる岡山の後楽園、この公園は市内を流れる旭川に一面を接し。川を挟んですぐ前に岡山城(烏城)の天守閣を望むことが出来る大変風光明媚なものです。

 この洋風の庭園である後楽園は、時の池田忠政公(だったかな)が公園として築造の許可を幕府に申請したものですが、その実、これは密かながら一種の要塞としての機能を持たせた戦略上の要衝でもあったのです。もちろん、最初から防衛の目的として工事の許可を求めたのでは当然幕府は許可しなかったはずです。

 時代は鉄砲と大砲が主力に、そうなると、その射程は弓矢の比ではない。となると城下の経済発展のために平城にした岡山城も、ただ旭川の川幅だけでは攻撃を防ぎきれないというわけです。
 そこで考えついたのが、幕府の目をくぐって、表向きは公園だが実は銃砲の射程を外す距離を稼ぐスペースとしてこの後楽園を作るというナイスアイデア。

 まず川側以外は茶畑になった日当たりの良い長い土手で囲んでいますが、これ実は大砲方を川に近づけないためのハザード。しかも庭園の中は広い芝生と池で回遊路がその中に、この穏やかなレイアウトも実は川に、そして城に接近する兵力が城から一目瞭然となる仕掛け、そして川側には竹薮が、これは射撃の妨げになるだけでなく、船を出すことも出来ないという仕組み。その他、一見して風雅に見えながら、実は戦略上のアイデアといったものもまだまだ。

 こうして、鉄砲の時代を迎えた岡山城は、「民の後から楽しむ園」という奥ゆかしい名前の公園によって、実は時代の変化に対処したのだと言われています。

 これはほんのエピソードまで。よろしかったら後楽園のレイアウトでもご覧になりながら、如何に岡山城は銃砲による攻撃に備えたかをお考え下さい。
 
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築城といっても砦のようなものだと思って下さい。


今風にいえばサマワの自衛隊のような野営地です。

とにも角にも戦場ですから、
寝たり飯食ったりという安心できる場所を確保する必要があります。

例えば鉄砲出現以前は闇に乗じて木を河で流し、
下流で受け取って柵を立ててしまえば、
朝には簡易式の陣地が完成します。

こういった作戦も鉄砲や投石機といったものの存在によって、
戦争自体にもっと中長期的な戦略眼が必要になってきました。

そういう意味で簡易式の砦では意味をなさず、
物資の補給や安定した防御となる拠点が必要になってきます。

これは全世界的にみても必然の流れなのですが、
もっとも日本の場合はすぐに江戸時代に入ってしまうので、
お城は防御というよりも地域の政治の中心の役割を果たしました。
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城は防御戦闘のための施設です。

戦闘の形式が変化すればおのずと立地する場所も変化せざるをえません。
弓矢や刀、槍などをおもな武器とする時代には敵が攻め上りにくい山城が主流でしたが、1543年にポルトガル人によって鉄砲が伝えられるとご存知のように戦闘の形式が大きく変化しました。
鉄砲は従来の武器よりも飛躍的に射程距離が長く、殺傷力も強いですね。そのため、鉄砲の攻撃や侵入を避けるように大きく深い堀や幅の厚い塀を造ることが出来る平野や盆地の中の平地や丘陵の上に築かれた平城・平山城が多くなりました。

ただ、そういう軍事的な面ももちろんなのですが、地形的位置だけでなく質的にも城は変化しています。
戦乱が次第に治まり、支配領域が広がり、城の規模や家臣の数も増えるにつれ、防御のための城から、領内統治といった行政のための城に変化してきたのです。城の周囲に侍町を設けて家臣を集住させ、城に接して町人町をつくりそこに商人や職人や寺院を集め、領内の経済の中心となるような城下町を建設するようになったのです。
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こちらを参照してください。



参考URL:http://www.home-nagahama.org/tepponosato/denrai/ …
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